あいの風吹くヒスイ海岸で、歴史散策と家族で石拾い

残雪を頂く北アルプスの山々を背景に、舟川べりの遊歩道に咲く桜並木とチューリップ、菜の花が絵画のように並ぶ、富山に春を告げる有名な景色・あさひ舟川「春の四重奏」。見頃の4月上旬よりもだいぶ遅くの訪問となってしまい、桜が散ってしまっているのが玉に瑕ですが、それでも富山を代表する風景だけあり、多くの観光客が訪れておりました。新潟県との国境に位置する富山県の東端にあたる朝日町。この町には、あさひ舟川「春の四重奏」と共に全国的に名の知れた場所があり、そこを目的地のひとつとして北陸への家族旅行で訪れてみたのでした。

まだ夜も明けぬ早朝に家族をクルマに放り込み、ガーガー、ピーピーと呑気に寝ている妻子を横目にしながら、我が家の赤い車「あかべこ号」を運転して北陸を目指しました。 東京から新潟を結ぶ関越自動車道の起点となる練馬ICより埼玉県、群馬県を経て、上信越自動車で長野県から新潟県へ。山岳地帯より日本海へと抜けた場所にある上越ジャンクションで北陸自動車道に乗り換え、目的地への最寄の高速出口となる親不知 (おやしらず)ICまでの道程はおよそ350km。学生の時に習った記憶のある日本を東西で分ける中央地溝帯「フォッサマグナ」を駆け抜けるかのようなルートで、太平洋側より日本海側へと日本の反対側へと移動したのでした。

若狭、越前、加賀、能登、越中、越後と京都から日本海沿いに北を目指す古代の北陸道 (ほくろくどう) 最大の難所・親不知。唐の国では瞿唐峡、国内であれば箱根とならんで「天下の険」という言葉と結びつく交通の難所で、越中と越後の国境ともなっている親不知までやってきました。狭いながらも崖下に砂浜が続き、波を被ることを恐れながらも通過した親不知は、近代になり北陸道建設のために建てた海上の支柱や護岸工事による影響で、親不知から西に続く市振までの僅かな崖下の砂浜が消滅。眼下の日本海にそそり立つ断崖絶壁を見ただけでは、加賀百万石と言われた前田家の参勤交代で、数千人からなる大名行列が眼下の崖下を百回以上も列をなして通ったとは俄に信じられません。

新潟県の糸魚川より朝日町あたりは以前、鱈の良い漁場だったようで、国道8号線沿いには朝日町名物の鱈汁を出すお店が並んでいます。せっかくなので、食べていこうかと車内で妻と話し、新潟県側の最後の集落となる市振を抜け、境川を渡ってしばらくした富山県側 (朝日町) のドライブイン金森さんに入店しました。新鮮な鱈を豪快にブツ切りにして、ネギとゴボウと一緒に放り込み、味噌仕立てにした鱈汁は体が温まる漁師飯といった感じでした。

ここが今回の目的地、宮崎・境海岸として知られる砂利浜、通称ヒスイ海岸と呼ばれています。奥に広がる山地は西穂高岳より親不知までを主脈とする長大な稜線(北アルプス)の終端部分で、日本海に到達する場所です。ここより更に奥に見える親不知を挟み、糸魚川までの一帯は国内最大の翡翠の産地として現在は知られています。指定保護区域や河川での取得はもちろん禁止されておりますが、海岸にうちあがった翡翠を持ち帰っても法的に問題ない貴重な場所として有名です。鱈汁で腹ごなしも済ませたので、トレジャーハンターたちに自分達も混じって、美しい翡翠を見つけて一攫千金、一夜大尽を狙うぞと意気込むのでした。

翡翠の歴史は非常に長く、古代中国はもちろん、エジプトや中米など世界中で広く珍重された貴石です。日本でも縄文時代の遺跡から加工された無数の翡翠製の装身具が発掘されており、驚くべきことに、現存する世界最古の翡翠製品は糸魚川市の大角地(おがくち)遺跡から発見された約7千年前の翡翠製ハンマーだと言われています。現在でも翡翠はミャンマーにて商業的に発掘が続けられており、伝統的な価値観でか翡翠は中国が主要な買い手となっています。第2の都市であるマンダレーの翡翠市場では、中国からのバイヤーが数千人滞在して活発な取引がなされているのだとか。

肝心の翡翠ですが、その生成の過程は現在でも明確には分かっておらず、いくつかの仮説があるそうです。富山県朝日町から新潟県糸魚川市まで広がるヒスイ海岸に打ち上がる翡翠は、海の向こうより流れ着いたのではなく、もの凄い圧力を地底で受けてできた翡翠が地殻変動で地上に表れ、日本海に注ぐ姫川や青海川上流域にある侵食に弱い蛇紋岩地帯より長い年月を経て流れ出されたものなのだとか。現在でも日本海に注ぐ河川には、大きな翡翠石が集まるヒスイ峡と呼ばれる箇所があり、姫川の支流には小滝川ヒスイ峡(小滝川硬玉産地)、青海川上流には橋立ヒスイ挟(小滝川硬玉産地)が観光名所となっています。ともに学術上の価値が高いものとして国の天然記念物の指定を受けていますので、破壊行為や採取、持ち出しなどの一切の行為が指定区域では禁止されており、善良な一般市民は見るだけで満足してくださいとなっているのでした。

親不知海岸にある道の駅内の施設・翡翠ふるさと館には、世界最大級の翡翠原石が展示されています。この原石は、今世紀に入ってから盗難保護を目的として青海川流域より搬出された大きさ日本一の原石。その重さはなんと102トンで、ざっと自動車100台分にも相当します。橋立ヒスイ峡から100トントレーラーや、クレーン車などの特殊車両を用い、細い山道をたどって運搬。糸魚川~市振区間で続くトンネルの高さ制限が理由なのでか、道の駅までは船に載せて輸送されたという説明を目にしました。世界を見渡すと、2016年ににはミャンマーで発掘された翡翠石が175トン(推定170億円)、2023年に同じくミャンマーで発掘された翡翠石が210トン(推定240億円)と、これらの巨大石がミャンマーで発掘されるまでは、この目の前の翡翠原石が世界一であったとされています。

山塊全てが石灰岩からなる明星山を東側より望む風景です。明星山の南壁直下には小滝川ヒスイ峡があり、そこを通って支流の小滝川が姫川との合流し、日本海に向かって北へ流れています。万葉集に詠まれた読人不明の長歌、「沼名河の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾いて 得し玉かも あたらしき君が老ゆらく惜しも」の冒頭に出てくる「沼名河」は、この地を流れる姫川か、小滝川、布川などではないか推測されており、底なる玉は水中に沈む翡翠を指すのではないかという説があります。この地域一帯には翡翠を加工した遺跡が多数あることからも、仮に伝説の比定地ではなくとも、この地は翡翠を採掘、加工、運搬する事を生業にする人々で賑わった場所に違いありません。

九州北部で発掘された北陸産の翡翠で作られた菅玉。北は北海道から南は沖縄まで、全国の遺跡より多数の翡翠が発掘されていることから、翡翠は縄文時代の花形交易品でした。他に負けない硬さ、大地の緑をほうふつとさせる深い色合い、産地が極一部しかない希少性の高さと相まり、翡翠が高い価値を有していたのは容易に想像がつくかと思います。続く弥生時代の中期には青い色を持つガラス製品が現れ、古墳時代に入ると鉄製工具の導入で、硬さと粘りのある出雲・花仙山(現在の玉造温泉東部)の鉱物の加工が可能となり、赤い瑪瑙、白い水晶が新たな威信財に見なされていきました。時代により好まれるものは変遷するのが世の常で、いつしか翡翠は産地が何処だったかも忘れられていったのでした...

「沼名河の 底なる玉 求めて...」の沼名河は、高志国(越国)の神で、大国主神に求婚されて妻となった沼河比売 (ぬなかはひめ)との関連があるのではないかと云う説もあるそうです。日本国内に翡翠の産地があるのは現在では広く知られていますが、昭和初めの糸魚川での"再発見"があるまでは、翡翠は全て海を渡ってきた舶来品だろうと考えられていたのです。早稲田大学校歌「都の西北」や、童謡「春よ来い」の作詞家として知られる糸魚川出身の詩人・相馬御風が、地元の神話として残る沼河比売の話しは、糸魚川地域に翡翠の産地があることを示唆していると考えたことを発端にして、昭和十三年(1938年)8月12日に小滝村に住む伊藤栄蔵が地元の川にて「緑色のきれいない石」を発見したのでした。

この石は東北大学にその後送られ、小滝川で採取された「緑色の岩石」は化学分析の結果で翡翠であると証明されました。発見の翌年にあたる昭和十四年(1939)7月におこなわれた現地調査にて、小滝川の河原に翡翠の岩石が多数有りと確認。第二次世界大戦などの社会的な混乱期でしばらく間を空けるも、翡翠の文化的価値が重要視され、昭和三十一年(1956)に小滝川ヒスイ挟が国の天然記念物に指定されたのでした。三種の神器ひとつ八尺瓊勾玉は出雲産の赤瑪瑙ではないかとの推測もあってか、日本の国石は長らく水晶(瑪瑙や碧玉など含む)だと看做されていました。然しながら、平成二十八年(2016)の日本鉱物科学会による国石選定の最終決戦投票では翡翠71票、水晶52票と僅差ではあったものの、正式に翡翠が国石として選ばれたのでした。

世界的にも産地が限られており、しかも海辺で誰でもヒスイ拾いができる場所としてはニュージーランド南島のホキティカと共にに有名な糸魚川市より朝日町まで伸びる"ヒスイ海岸"。写真の奥に映る人達は皆、ヒスイハンター達で、中には胴長着用の本格派の方々も見受けられました。沖縄本島の東400kmほどに浮かぶ大東島のように、近代まで人も住まなかった離れ小島であればまだしも、ここは昔から北陸道の要所なので人の往来も絶えず。運が良ければ観光客ですら見つけられるほどに容易に採れる翡翠が取れることを地元の人も本当に忘れ去ってしまったのか、疑問に感じてしまいます。

このヒスイ海岸は小石が転がる砂利浜の自然海岸で、日本の渚百選だけではなく、快水浴場百選にも選出されています。波打ち際にのんびりと腰を下ろすと、ザブン、ザブン、ゴロゴロゴロと寄せては返す波の音に加えて、波打ち際の重なり合う小石の音が耳に心地よく響き、海から陸に向かって吹く海風も気持ちよく感じられました。春から夏にかけて吹く、さわやかな風を「あいの風」とこちらでは呼ぶらしいです。晴天の空の下、浜辺で夢中になって宝探しをして、見つけた、見つけたと喜ぶ子供達の顔が見たくて、遠路はるばると訪れたのでした。

さて、肝心のヒスイ拾いはどうなったかというと、海岸線沿いの陸側の砂利から探すだけでは満足できず、最初から半ズボン姿の子供達だけでなく、大人の自分達夫婦もズボンの裾をたくし上げて海に入り、白く光るモノはないかと探索。ここの海岸は波打ち際からほんの2-3メートル先に海底段差があり、大人でも足のつかなくなる深さに落ち込むので注意が必要です。川から押し流されたヒスイを含む多種多様な石が海に入り、海岸地形や海底地形の影響を受けた潮流や波で海岸に打ち上げられているのだと思いますが、沖に沖へと向かって行くだけでなく、浜に戻ってもくるメカニズムが理解できれば、浜辺のどこを狙えば良いか分かるのでしょうか?

ヒスイではないにしても、これは良いのではないかと家族4人それぞれが持ち寄った石。波打ち際で石ころ同士が擦れ合っているため、どの石も角が取れて丸みを帯びています。娘が「タマゴ石」と呼んだ茶色の石はこの辺りで産出する姫川薬石と呼ばれるもので、火山岩の一種である流紋岩です。天然ラジウム鉱石としてお風呂にいれると健康促進の効果があるとか、ないとか。なので狙っている翡翠ではありませんが、大きめのタマゴ石を選んで持ち帰りました。ヒスイ海岸ではヒスイには目を光らせていても、みなさんは薬石(流紋岩)にはあまり注目していないようで、握りこぶしより大きなものまで渚に文字通りゴロゴロと転がっています。

あいの風とやま鉄道・越中宮崎駅の北側に整備された「ヒスイ海岸観光交流拠点施設 ヒスイテラス」にて、観光客向けサービスとして拾った石の鑑定が行われていました。この日の最高気温は20度を超えており、夏の訪れを感じさせる陽気でした。鑑定をする方の昼食時間を事前に確認していたので、その5分前には浜から戻ろうと、息を切らせながら慌てて辿り着いたアホな父娘。自分達の前に鑑定をしてもらっていたご夫婦は、拾い集めた石をバケツ満載にして両手に抱えており、一見さん観光客の自分達との本気度の差には驚かされました。順番待ちをしていたアホ父娘は、「パンフレットにある翡翠(ヒスイ)という難しい漢字はカワセミとも読んで、緑色の宝石を餌として食べる青緑色の珍しい鳥のことなんだよ。餌の宝石に気が付かれないように静かに近づいて、小さい嘴でつつく優雅な姿はバードウオッチャー垂涎の的」。「知ってる、大きな声では言えないけど、海辺に落ちているのはその鳥の"ふん"なんだよね」と、珍説を披露していました。

1人10個までと言われるもののも、家族4人で鑑定に出せるレベルの石が合計しても10個に遠く届かない状態で石鑑定お願いしました。その中で唯一ヒスイだと鑑定結果いただいたのがコチラの石で、軟玉翡翠 (ネフライト) でした!  強運の持ち主である娘もおり、ビギナーズラックで翡翠 (硬玉) も狙えると思い込んでいましたが、そう甘くはなかったようです。だいぶ以前になってしまいますが、新疆ウイグル自治区和田市を妻と一緒に訪れ、タリム盆地南部の崑崙山脈が産地の和田玉(軟玉)を買い求めたこともあります。唐代の詩人・王翰の涼州詞「葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回」に出てくる、有名な夜光杯 (軟玉製) も自宅の食器棚に対でありますので、今回ヒスイ海岸で拾った石もコレクションに加えると、軟玉翡翠と縁がある気がしてきました。古くからの翡翠の産地であるこの地での宝探しは、美しい自然と歴史を感じられるものでした。鑑定をしてもらった石は、海の浅瀬でキラリと光るものがあると感じて手にしたもので、発見した妻は記念品として財布の中に現在でも大切にしまっているようです。