ゴールドラッシュなるか!? 天然砂金を求め、北海道へ

伊豆半島西部の土肥にある金のテーマパーク「土肥金山」にて、緑のパンニング皿を使って砂金を探す娘とその祖父母。温泉水が張られた水槽の底の黒砂をすくい、その黒砂を揺らして、ならしてを続けていくとキラリと輝く金の粒が一つ、二つ見つかる。全国の金山跡地にある体験型の砂金採りは大体このようなものなのですが、どうもお仕着せ感が強いと感じられてしまい、膝まで川につかって、上流から流れ着いた天然の砂金を、子供に見つけさせたいという願望がムクムクと頭をもたげてきたのでした...

今回の出発地は宗谷地方南部の中頓別町にある、道の駅ピンネシリに併設されたキャンプ場のコテージ。旭川から宗谷岬目指す家族旅行で訪問中の北海道は、東京より北海道のほうが暑いのではないかと思われる夏日でした。南にある最寄りの集落・音威子府まで25km、北にある最寄り集落・中頓別町まで15km、国道275号上にぽつりとある道の駅の整備されたキャンプ場は、ほどよく離れたコテージが並んでおり、そのうちの4人用コテージのひとつに宿泊していました。コテージの背後には標高703mのピンネシリ(敏音知)岳がそびえ、公園の山側の林では年に何度かはヒグマも目撃される自然豊かな場所でした。

礼文、利尻、宗谷、枝幸を含む北海道最北の地域「宗谷」。その総面積は4,625.1km2で、京都府(4612.2km2)全体の面積とほぼ同じですが、人口では京都府254万人に対して宗谷地域は6万人とごく僅かです。日本の他地域と同様に過疎化が進んでおり、直近20年で3割近くの人口減が見られたと、宗谷地域は特に厳しい現状に直前しています。しかしながら、この地域は明治期には突如に"発見"された大量の砂金を求めて、北海道内外より人々が我先にと殺到した「ゴールドラッシュ」が起こった場所でもあります。

北海道の砂金ブームは、明治31年(1898) 6月に枝幸山地内パンケ・ナイ川での砂金発見がはじまりだと言われています。この噂を聞きつけた周辺住民が砂金を求めて殺到し、ウソタンナイ川やペーチャン川でも大量の砂金が発見されるに至り、道内のみならず内地からも一獲千金を夢みる人々がオホーツク沿岸の寒村に集まったのでした。その数は1万人以上とも言われ、道外からは小樽港を経由して枝幸港に上陸し、未開の山々へと入っていったのでした。「絢爛タル金粉金塊ハ、バケツヲ以テ搬バレ三二年ニ於ケル産物ノ巨額ハ、実ニ全国ヲ振動シ、東洋ノ宝庫ハカギ解ケタリ、日本ノクロンダイクハ発見セラレタリ」と当時の熱狂を帯びた様子が描写されており、その凄さが伝わってくるかのようです。

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ウソタンナイ川支流で発見された小判型の砂金 (塊)は、205匁(もんめ)で記録に残るものとして国内最大とされています。匁は現在では使用されない単位ですが、1匁は3.75gで、5円玉1枚と同じ重さとなります。したがって、上述の205匁の砂金を換算すると769gにもなります。砂金はほかの鉱物同様に混じりけのないもの(24金)ではなく、銀や銅などが常に混じっているのですが、明治政府が決めた1.5g=1円を769gに当てはめてみると、513円 (現在の価値にして1,000万!?) もの価値があるものとなります。実際には963円で売り買いがなされ、その後に行方不明になりました。21世紀に入ってから金は1g=1,000円ほどから右肩上がりの急ピッチな上昇を続け、現在は1g=1万円を突破しています。

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中頓別は中国ハルピンやカナダのケベックと同緯度にある"北国"だと聞くと少し違和感があるほど、夏の真昼は青い空と言った感じの暑い夏日。道の駅ピンネシリからクルマで走ること30分ほど。途中で砂金採集者から転じた楢原民之助が開拓の先駆者となった中頓別町を通り、今回の目的地・ペーチャン川砂金堀体験場に到着しました。川原から一段上がった駐車場には簡素な小屋が並び、そこが砂金堀りの受付と資材置き場となっておりました。道すがらに目にしたのぼり旗が立っていなければ、見過ごしてしまうような場所です。夏休み期間だったので、自分たちより先に来ている人達がいるかと思っていたのですが、管理人の方と砂金堀りを終えて帰ろうとする親子連れの1グループのみでした。

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中頓別には頓別川とペーチャン川と呼ばれる2つの大きな川があります。頓別川は中頓別町内を南から北へと流れる全長65kmほどの川で、ペーチャン(兵知安)川はその支流のひとつです。町内中部の敏音知岳、松音知岳、西部の天塩山脈、東部の北上山地より流れ出る川が2つの川に集まり、中頓別町の南で合流した後に更に北へと流れ、浜頓別の市街地近くでオホーツク海に注いでいるのです。ペーチャン川のペーチャン(兵知安)はアイヌ語でペンケ・イチャン・ナイが語源と言われているらしく、産卵場所の上の川という意味なんだとか。春にはサクラマスが、秋には鮭が遡上する姿を頓別川では見られるので、明治期のゴールドラッシュのときには、遡上する魚群に砂金掘りが邪魔され、「川でウロウロするんじゃない」と、悪態をついた砂金掘りもいたに違いありません。

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北海道と云えば、アイヌ、開拓、ヒグマがどこへいっても話題に上がるもので、北海道の砂金掘り達も御多分にもれずヒグマと不幸にも遭遇してしまい、その凄惨な被害は長く語り継がれ、記録残るものも少なくありません。砂金堀体験場に流れる川は水深が浅く、夏日の子供の川遊びには最適に思えました。息子が対岸に茂っているフキの辺りまで探検に行ったときにはヒグマではなくとも、エゾ鹿か、迷い牛迷い馬でも顔を出すのではないか、藪からダニでも連れてくるのではと気になってしかたありませんでした。

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ゴールドラッシュで湧いた中頓別は酪農と林業を主産業とする町となり、耳にしたことはあれど、実際に目にした事のある人はまばらと砂金は過去の話しとなっていました。戦後に町の青年会?で試しに砂金掘りをしてみたところ、砂金が実際に採れたことに始まり、紆余曲折を経て昭和63年(1988)に、この地に体験場が開設されたのだそうです。この砂金堀体験場は夏休み期間中のみ常駐する人がおり、長靴やスコップ、ゴールドパン等の砂金堀りの用具を500円でレンタルする事ができます。スコップで掘り出し→パンニング皿に洗い笊(ザル)を重ねて岩石と土砂を選別→土砂をパンニング皿で比重の重い砂金を水選して、キラリと輝く砂金をつまみ上げるという流れを初心者向けに実演で教えていただきました。

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娘が手にしているのはカッチャと呼ばれる鋤のような砂金掘りの専門道具で、先端の三角形の金属部分は中央が少し窪んでおり、浅瀬で掘った砂礫をここで捕らえて、ザルに移せる仕組みとなっています。砂金堀りは硬い岩石の混じった土砂を掘る必要があるので、先端の金属部は通常のスコップと比べて厚くして耐久性を持たせてあります。これらは現場でのフィードバックを受けての改良を重ねたカタチなのでしょう。カッチャはカナ梃子、ネコ、揺り板と並んで砂金採りの代表的な専門道具です。これらの道具を担いで、昔の人々は北海道各地や遠くは本州より渡り、川の傍に拝み小屋を組んで作業をしていたようです。

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白老の国立アイヌ民族博物館に展示されていた砂金採取道具「揺り板」と、漫画ゴールデンカムイの砂金採取場面の原画。揺り板は一枚の板の中央をくぼめ、縁を桟のようにしたモノで、砂金を含んだ砂をその上で川の水と踊らせて、輝く砂金を選別する道具です。この道具を最初に見たときには、名前から籾と玄米を選別する揺り板を明治期に流用し始めたのかと脳裏に浮かぶも、日本の砂金採りは聖武天皇の時代・天平感宝元年(749)から千年を超えて行われているので、独自の進化を経た道具なのだろうと考え直しました。

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一攫千金、買うぞプレイステーション5と意気込んで、ゴールドパン皿を揺する息子に、川に足を掬われて大袈裟に転ぶ振りをするアホな娘。ここが砂金掘り場として選定されたのは、実際に砂金が出る場所であったのは勿論のこと、道路建設に使用する土砂採取で砂を多量に持っていった経緯のある場所なので、川原へのアクセスが良いのも大きな理由だったようです。実際に小さな子供でも容易に川に降りられますし、訪れた日には砂金が出やすいように重機を使って川底の掘り返していました。

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ゴールドパン皿は揺り板と同じく比重選別を用いて、比重19.3と重い金を河川の砂利(比重で言えば3ぐらい?)から選り分ける砂金採取の最終工程に使用される道具です。土砂に水を加えて揺すると、重い金属は下に沈むので、上の土砂をパンニング皿の段付き部分を利用して上澄みの水と一緒に流し出します。これを何度か繰り返すと、細かい砂だけが残り、運が良ければ輝く砂金にご対面となる訳です。中腰の姿勢を強いられるので、息子も途中から手頃な大きさ石に腰掛けながらの作業をしていました。

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上の写真の青丸で囲った中心に砂金が見えます。カッチャで深く掘って、川水で選別作業をおこない、運が良くて一度に3粒、そうでなければ収穫ゼロで最初からやり直しといった塩梅でした。潮干狩りのように来客向けに事前に撒いていなければ、砂金掘りの真似事はできたとしても、実際には殆ど見つけられないのではと考えていたので、こんなにも簡単に砂金が川でも採れるのかと驚かされました。各地の金鉱跡にある水槽式砂金採りではカタチの揃った"砂金"ですが、歪なカタチの天然モノ。輝く砂金を目にして、実際に採れると理解ってからは、家族4人黙々と小一時間ほど作業を夢中に続けたのでした。場所が良いというのを脇に置いたとしても、素人が初めておこなって砂金を発見できるぐらいなので、この地域の"ゴールドラッシュ"前であったならば、どれほどの量が海辺や川辺に貯まっていたのかと思わず想像してしまいます。

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この辺りで砂金掘り体験のできるところが、中頓別町に隣接する浜頓別町にもあり訪れてみました。距離りにするとお互い15km程とほど近く、クルマで移動すれば30分とかからず到着しました。ここウソタンナイ川は先に訪れたペーチャン川と同じく、北上山地のポロヌプリ山に源を発し、北上して浜頓別市街地の近くで頓別川と合流してからオホーツク海に注ぐ川で、ペーチャン川と同じく明治期に全国から集まった山師が砂金を求めた舞台のひとつでした。看板にあるとおり、ウソタンナイはアイヌ語で「お互いに 滝が 掘っている 川」という意味らしいのですが、どういう地形を表しているか少し意味不明。漢字では宇曽丹(川)と字を当てています。

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体験場から見える北上山地。現在でこそ道路網が整備されており、ここまでも容易にアクセスできますが、ゴールドラッシュ時にはいまだ未開の地で、海辺の一部を除けば、人を拒む大自然が広がるだけの土地でした。砂金掘りの人達は河川の砂金は上流に金鉱脈があるはずだと川を遡り、山々に分け入った筈です。後日、地元の南宗谷猟友会の方の案内でこの山を巡ったところ、鹿や羆が多く見られ、昔に砂金採りで山入った人達や、開拓で原野を切り開いた人達は過酷な作業に加えて、慣れない気候や羆の恐ろしさ等、さぞ大変だったのだろうと実感させられました。

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ウソタンナイ川に足を踏み入れての砂金掘りもできるようだったのですが、日中の暑さに子供達が音を上げて、日陰でできる水槽での砂金採り体験をすることになりました。砂金発見90周年の昭和61年(1986)に建てられた受付小屋「ゴールドハウス」で子供たちは冷たいアイスを買い求め、気力を回復させて水槽へ向かっていきました。「金の価格が高くなると、撒く金の量は減るものですかね?」と冗談交じりに質問をすると笑われてしまいました。指導員さんにゴールドパン皿の扱いを教えていただき、砂金探しの作業を開始。テントで直射日光は遮れられるも暑い午後でした。

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黒色のゴールドパン皿が緑とベージュのツートンカラーになっているのは天幕の色を映しているからです。青丸をつけた2個所に小さな砂金。この手の運が大きく成果に絡むことは息子より娘の方が良い結果を出すのが常なのですが、連続の砂採りは体力的に娘には厳しかったのか、この日ばかしは息子の方が沢山砂金の取れ高が高かったです。ゴールドラッシュ期であれば、帰り道の峠で徒党を組んだヤクザ者が砂金堀りの身ぐるみを剥がして、身体確認ということもあったらしいです。ぺーチャン川とウソタンナイで幾分かの砂金を得た自分達もそんな被害にあわないよう、浜頓別の宿に無事に到着できるようにと、明るいうちに砂金堀り公園を出発したのでした。