越後与板打刃物匠会のイベントで 「切り出し小刀」鍛冶屋体験

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「切り出し」と言われてもピンとこず、ナイフですら鉛筆を削った事のない息子に「切り出し小刀」の鍛冶体験をさせたてみた話しになります。切り出しは鋼板先端に斜め刃を付けたもので、身近なモノでは鉛筆を削るのような木工での使用の意図としたものです。現在では簡易な鉛筆削りが普及しており、カッターナイフで鉛筆を削るのも珍しい時代となり久しいのですが、昭和中頃までは切り出しで鉛筆を削るのは一般的だったそうな。

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トンチンカンと叩いて金属を求めるカタチに自在に変える鍛冶屋は今世紀に入る前に斜陽な業態となり、多くは鉄工所等に衣替えをしていきました。自分達の身の回りにある金属製品の多くは手で打ったものではなく、名もない機械が作り出した大量生産品ばかしです。切り出しどころかカッターすら無くなりそうな時代ですので、建築で使用する大工道具も手工品は消えていく方向に確実に進んでいます。かつては集落ごとに野鍛冶がおり、関や堺、播州などの金属加工の産業集積地ができ、そのなかには上の写真の切り出しを作った名工(東京の千代鶴是秀作)と呼ばれる人達もおりました。

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岐阜県関市、兵庫県三木市、大阪府堺市、福井県越前市、高知県香美市に加え、江戸時代から金物の産地となった新潟県(燕三条、与板)が現在の打刃物の主要産地となっており、そのうちの与板町(現在は長岡市)は江戸中期に大工道具の生産を始め、最盛期には数百を数える鍛冶屋が軒を並べていた鍛治を主産業とする地域でした。雁木が並ぶ雪国の与板は現在でも20名程の職人が大工道具の鑿や鉋を作り続けております。

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そんな与板の打刃物匠会が「切り出しづくり体験」を開催する事を聞きつけ、息子と炎天下の初夏に参加してみたのでした。屋外に即席鍛治場が設けられていました。野鍛治は日本刀や鉄砲等に特化せず、周囲の住民の要望に応じて金属を何にでも加工する職人を意味する言葉なのですが、屋外でおこなうのでこれも"野鍛治"かなと脳裏に浮かんできました。日本橋の新潟県アンテナショップ「ブリッジ新潟」で開催された「鍛冶職人 打刃物の世界」を見に行った時におられた同じ方と思われる人もチラホラ見かけられました。

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座って左手側に鉄材をあかめる火床があり、目の前にはその赤めた材料を火づくる場所・金床が置かれていました。鍛接から焼き入れ、研ぎまでが本来の工程ではあるところですが、火箸でコークスに突っ込まれている四角い鉄材を金床に置き、「永く鍛えた自慢の腕で 打ち出す切り出し心がこもる」と唄いながら繰り返し叩くのが今回の鍛治体験です。

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金床の上で鉄材が動かないよう固定して頂き、「鉄は熱いうちに打て」とばかしに金槌で打って、打って打ちまくる。大工道具がプリントされた洒落た手拭いを被る息子がカツンカツンと叩いていました。北海道から沖縄までの鍛冶屋さんに親に連れられ訪ね歩き、自宅で砂鉄から製鉄する趣味の父親を持つ息子にとって鍛治体験は初めてでなく、「ボク、上手だねぇ」と褒められていました。

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金床の前に座る"横座"の指揮で、大きな金槌を振り上げる向槌を持つ"先手"との共同作業の開始。横座が2つコンコンとすると先手がガツンと1つ打つ3拍子のトンテンカン。相手の調子に合わせる意の相槌を打つの語源である「相槌を打つ」です。現在はスプリング/エアハンマー等の機械がダダダと向槌を疲れ知らずで打つのが鍛冶場の大半で、人間が向槌をするのは実際の鍛治仕事ではなく見世物でしかなくなりました。

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後日郵送されてきた黒打ちの切り出しの完成品はスマホより重いと感じるので、100g以上はありそうです。上の写真は檜の端材を削って三味線の糸巻きの太さを調整しているところです。切り出しは息子にあげようと思っていたのですが、大きさも、重さも手に余るようで結局は自分のモノとなりました。