かっこいい沖縄、宜野座の屋良三線屋さんにて自作三線体験

f:id:tmja:20200806122534j:plain

沖縄を旅行していると、各地で爪弾かれている三線の音色を耳にします。琉球音楽の集大成とも言える古典音楽や、より身近なエーサーや民謡は本土と異なる調べで、母音が「あいう」だけが基本だった沖縄方言や、母音を繋げる様な独特な歌い方も異国情緒を感じさせられるものです。沖縄の人々の三線への思いは熱く、揺籃から墓場まで、三線という楽器を伴い、さまざまな場面で歌三線が唄われています。

f:id:tmja:20200806123624j:plain

三線は古代エジプトにルーツを持つと言われ、イランにもセタール(セ=三、タール=弦)と同じ名前/ルーツを持つ弦楽器が残っています。モンゴル帝国支配下の時に西域諸国を経由して中国に伝播して"三弦"となり、15世紀初頭までに三弦は中国より琉球へと伝わったと考えられております。その三線は貿易船により博多や堺の港町を経由して日本へと伝わり、三味線として日本各地に広まったとされています。

f:id:tmja:20200806123617j:plain

600年もの永きに渡る歴史を持つ沖縄の三線は、王家所有だった「盛嶋開鐘」を筆頭とする「開鐘」と呼ばれる名品や、名家に代々受け継がれてきたものが存在していたのですが、鉄の暴風と表現される沖縄戦の最中に多くの文物が失われてしまいました。平成三十年に国の伝統工芸品(楽器)としては福山琴につぐ二件目の指定を受けて盛り上がるを見せる中で開催された沖縄県立博物館の「家宝の三線展」では、沖縄で現存する最も古いとみられる志堅原比屋が使用した棹(康熙二十八年製)から、戦後復興時に戦車の防弾シールドを加工して拵えられた半透明の三線と実に多彩な展示がなされ、戦火を間逃れた三線からもその文化の豊かさを魅せるものでした。

f:id:tmja:20200806123620j:plain

本土では一貫して芸人を始めとする庶民の楽器として普及した三味線。中国伝来の宮廷音楽として始まった琉球の三線では人々の扱いが異なり、沖縄では刀剣の代わりに三線を床の間に飾るほどに重要なものとして扱われていました。郷土の士族達を経由して三線は各地へと既に浸透していましたが、明治十二年(1879)の廃藩置県により王家というパトロンを失った宮廷音士達は野に下ることを余儀なくなされ、これまで許されなかった新しい娯楽として庶民へと急速に普及したのでした。沖縄家庭の三線の普及具合は内地の三味線と比べると圧倒的に高く、自分の肌感覚では3軒にひとつぐらいの割合で三線があるのではないかと思います。民謡酒場の様な場所でなくとも、上の写真の様に街中で練習していたりする姿もチラホラ?? 写っている人間に見覚えがある気も(*´艸`*)ウシシ

f:id:tmja:20200806122536j:plain

三線を製造している工房が30軒ほど、主に扱っている店舗が150軒ほど沖縄県に現在あります。小さな場所も含めればその数はもっと多くなり、道の駅にも三線は展示販売されていたりします。上の写真は国頭村村辺土名の知花さんの「やんばる三線」。こんな面白い"天"部分を持った愉快なものから、八重山黒木の最高級品にカンカラ三線と三線は幅広く、愛好者の多さを物語っているように思えます。美ら海の見える場所で、うちなーぐちを聞きながら練習をしないと三線は上達しないと言う人もいますが、繰り返される沖縄ブームと共に三線愛好者の裾野は県外・海外に拡大し、年間の販売台数は現在2-3万本程だとか。かつてあった女性は三線を弾いてはいけないという意識も薄れ、元来男性が歌いやすい音色/構造も、八部張り以上の高音が出せる三線が増えているのも大きな原因かも知れません。

f:id:tmja:20200806122507j:plain

今回は家族で宜野座村にある「屋良三線屋」さんにお邪魔して参りました。三線古典音楽には流派が幾つかあり、湛水親方幸地賢忠(1623-1684)を祖とする湛水流。湛水流の流れを汲み、屋嘉比朝寄を祖とする当流より分派した安冨祖流と野村流が現在でも続いています。掲げられている看板には「野村流古典音楽 吉栄会」とあり、昭和六年(1931)に又吉嘉昭氏(下のビデオサムネイル中央の人物)によって大阪で設立された音楽組織「吉栄会」の看板を掲げているのが見えます。


【下述懐節】 又吉嘉昭 野村流大家 太平丸福レコード 蓄音機盤

f:id:tmja:20200806122457j:plain

此処での先生は吉栄会三代目家元が自ら勤められています。三代目が師事された先生は沖縄民謡の大御所でマルフクレコードを興した普久原朝喜氏だと言われるから驚きです。その息子の普久原恒勇氏は喜納昌永氏や嘉手苅林昌氏のレコードを作り、自らも本土で大ヒットした歌謡曲「芭蕉布」の作曲をされるなど沖縄音楽史で欠かす事のできない方です。そのような方を先生に持つ家元は半世紀以上に渡り三線制作にも携われており、今回は家元に唄/踊りでなく、家元オリジナルの「ウッド三線」の体験製作に子供達と訪れたのでした。

f:id:tmja:20200806122503j:plain

沖縄には「ウッド三線」と名前が付くものは多く見られ、その殆どは沖学(沖縄県学校用品株式会社)のモノ(もしくは手を加えたもの)ですが、こちらは独自モノと聞き興味を持ったのが訪れるキッカケでした。最初の作業は予め整形されている棹(松材)を300番→100番と紙ヤスリをかけていき、塗装の下地作りより開始しました。紙ヤスリは学校でも何度か体験したらしく、単純作業を嫌う息子が珍しくヤル気を出して研磨していました。柔らかい松材なので、削りカスが多く飛ぶ為に新聞紙が床に拡げられています。

f:id:tmja:20200806122453j:plain

f:id:tmja:20200806122500j:plain

f:id:tmja:20200806122510j:plain

共鳴版側に木工ボンドを塗りたくって、娘が選んだ紅型模様の布を前後貼り付けます。"本物"の三線であればインドニシキヘビ(ワシントン条約に抵触)や、ビルマニシキヘビが胴体に強く張られる事により共鳴版の役割を果たすところですが、此方は丸い胴体に板が前後に張られていました。表側(弦が触れる側)には人工皮が前面中央に張られている模様。また、ギターいうところのサウンドホールが裏側に付いているのが面白いと感じさせられました。

f:id:tmja:20200806122514j:plain

f:id:tmja:20200806122517j:plain

工房の裏手に周り、ヤスリがけをした棹にスプレー塗装をします。息子が選んだ色は"金きらゴールド"でした。この選択は大人の自分達にはまず出来ないと思い、余計な口出しはせずに、そのまま実行する事にしました。棹のカタチは三線の伝統七型のうち、最も小さい久葉の骨型に近い気がします。下地塗りはなく、そのまま金色スプレーをシューと吹き掛けて乾燥させたら完成。べらぼうな時間を要する"本漆塗り" や、現在主流の"人工塗り(ウレタン塗装)"と比較すると驚きの速さで作業が終了。自分は塗り薄い場所にスプレーを最後にする程度で基本子供達の作業でした。スプレー塗装なので、素人の一発勝負でも塗り面の均一性が高いです(*´艸`*)ウシシ

f:id:tmja:20200806122525j:plain

ギターであれば胴と棹はキッチリと接着されていますが、三線は胴の上下に空けた穴に棹を刺しているだけで、三本の弦の張力で支えている構造になっています。"壊れやすい"とも表現できますし、"分解し易い"とも表現できる構造で、直して使い続けるが基本だった時代の設計思想が見て取れる単純構造を、現在でも三線は受け継いでいます。

f:id:tmja:20200806124403j:plain

家元の演奏サービスとちょこっとレッスン。家元は子供達には優しく接する老紳士でしたが、親には細かい指摘がビシっと飛んできました(>_<)  そのやりとりから、家元の門下生への指導はキチッとしたものなのだろう垣間見えた思いです。三線は動物の角でできた太い爪(バチ)で弾くのが基本で、あの柔らかく太い音を出しているのですが、子供達の指にはサイズが合わずで、爪でもピックでもなく指弾きで練習。

f:id:tmja:20200806122530j:plain

今回作った"オリジナル三線"を抱えての記念撮影。本気の琉球メイクをされると察知したのか、後ろにある紅型衣装での撮影を娘は断固拒否。いっぽう息子の方は得意満面で、外食中に突如と現れた流しのような雰囲気でポーズをとっていました。どうしたら上手に弾けるかの問いには「チムグクル(心)が良ければ、良い音が出る」と教えてみました。三線の好かち弾き。この三線を気に入って持ち歩いていた息子は、お土産屋さんで、食事処で、旅客機の綺麗な客室乗務員さんにも「良いもの持っているね〜」と褒められ、上機嫌で自宅まで持ち帰りました。