大和郡山市所有の遊郭建築・旧川本楼(町屋物語館)を見学

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1泊2日の関西出張にて奈良県・大和郡山市を訪れました。最初に立ち寄ったのは創業天正十三年(1585)の老舗和菓子屋・菊屋さんで、新市庁舎の工事をしている大和郡山市庁舎の目の前にあるお店です。天正十三年は豊臣秀吉が関白となった年で、秀吉公が「鶯餅」と名付けた「御城之口餅」が現在でもお店では売られていたりします。

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粒あんを餅で包み、きな粉をまぶした御城之口餅と定番の菊之寿、寒天に色付けした琥珀糖の金魚菓子等を午後の集まりにと買い求めてみました。奈良県には門前町や寺内町は数多くあれど、城下町は珍しく大和郡山は異色な存在です。自分は縁が有りしばしば訪れる場所なのですが、菊屋の本店にお邪魔したのはまだ2回目だったりします...

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大和郡山を出発すべき時間まで1時間ほど余裕あったので、市役所から2-300メートルのところにある「洞泉寺町」を散策してみることにしました。5年程前になるのでしょうか?  この辺りを歩いた事があったのを思い出したからでした。上の写真は洞泉寺町を今年(青空)に撮影したモノと以前(曇り空)に撮影したモノです。分かりにくくて申し訳ないのですが、右手にあった古い民家は今年取り壊しとなりましたが、突き当たりにある3階建ての立派な建物は現在も残り、目的地として訪れた洞泉寺町に残る妓楼・旧川本楼です。

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奈良県には遊郭が4箇所(木辻町、元林院町、岡町、洞泉寺)あったと云われ、そのうちの2箇所が大和郡山の市内外れにありました。上の地図で赤マル位置が洞泉寺遊郭の跡地で、赤字下線を引いたのが東岡町となります。洞泉寺遊郭には15-6軒の妓楼が建ち並び、昭和三十二年の売春防止法施行まで赤線であった時期を含め営業が続いていたのだとか。川本楼はその遊郭の北西角にありました。

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大正十三年(1924)築の川本楼は規模の大きい妓楼だったらしく、大和郡山市が購入し手を入れて「町家物語館」として平成三十年に一般開放した建物です。前回この地域を訪れた時には門が閉ざされていたいましたが、今回は正面入口が嬉しいことに開け放たれていました。入口から内庭を抜けて、左手にある事務所の人に見学したい旨を伝えると、「お時間があれば、案内をしましょうか?」との有難いお言葉。

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玄関右手にある小部屋は往時の帳場だったらしく、畳に上がってみると二方向に障子に穴が開けられているのが分かります。片方は方形、もう片方は猪目形(ハート型)になっており、入店するお客さんと出ていくお客さんの双方に目を光らせていた違いありません。猪目形は五行で水にあたる亥・子のうちのひとつで、猪は火に強いということで寺社仏閣等の建物に用いられているのを目にするカタチです。

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道路に面した細格子を一階の内外から眺めてみました。格子の内側には着飾った遊女が座り、客の指名を待った場所・「張見世」です。3本子持ちの親子格子。これだけ格子の間が狭いと、ロウソクで灯す夜は内側が明るく見えるとしても、昼見世では内部は見えないでしょうし、吸い付け煙草で客を誘う事もできなそうなぐらいに細い。日没を迎える頃には左右に建ち並び妓楼も大行灯が飾られて、夜見世の時間は賑わったのでしょう...とここまで書いて気が付いたのですが、大正初期には顔見せが禁止されているので、遊郭であるというのを宣伝する意味で設けられただけかもしれません。

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昭和初期の頃の川本楼・花代(料金表)。朝ヨリ正午マデ、夕刻より朝マデ等と細かく時間で料金が区切られています。当時の1圓を現在の2,500円とすると、夕刻→朝の十五圓は37,500円。サイダー三十圓が酒二十五圓より高いのはサイダーが当時はハイカラなものだったからなのだと思われます。「継キ花」は延長料金、絞日は祝日だと読めます。

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多くの男衆が勇んで登ったであろう階段はだいぶ中央部がすり減っているのが見て取れました。川本楼は戦後に郡山高校の学生下宿に転業しているので、もしかしたら学生さん達が上り下りしてできた跡かもしれません。

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2階に上がったところから見下ろすと、「御料坊」台所だった跡が見えました。その右手には以前は竈が並んでおり、煙がモクモク上がっていた場所だったそうです。視線を上に持っていくと猪目の飾り窓が3つ並んだ特徴的な壁が見えます。火を扱う場所なんで火伏せの猪目を並べたのでしょう。

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建物を南側から見ると3階建ての川本楼(本館)とその奥にあたる川本家の間(座敷楼)間に、ハートマーク3つを白壁部分に見ることができました。川本楼が旧遊郭建築資料館等の名前ではなく、「町家物語館」とヘンテコな名前となったのは遊郭を負の遺産と見る風評被害を受けるのを避ける為、地域と周囲に住む人々達への配慮からなのだと思われます。

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2階は宴会がおこなわれた場所と思われる広間。寿司や卵焼きが遊郭の人気料理と聞いた事があった気がしますが、内陸県にあたる奈良ではどんな食事が出てきたのでしょうか? 大和郡山市で毎年開催されている「大和な雛まつり」では、川本楼がメイン会場のひとつとなる様で、その時には各部屋にお雛様が飾られると教えて頂きました。そして、9畳程のこの広間は宴会場ではなく遊女と指名をしたお客さんが初めて会う場所で、「案内所」という場所だそうですƪ(‾ε‾“)ʃ

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2階の建物東側の人がすれ違うのも大変な狭い廊下には、繭棚のように並ぶ個室が4部屋。妓楼時代の"仕事場"で、かつそこで勤める女性の生活の場でもあり、下宿時代には学生の部屋だった場所だそうです。3畳程の内部は改装されてか小綺麗になっていましたが、各部屋の入口上部には蒲鉾形の穴が空けられており、2本子持ちの親子格子と床の間/付け書院、各部屋の入口上部には電気メーターがあった板や旧式の電気スイッチと時代ごとの痕跡が残っていました。

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二階の部屋から外を覗くと、まだ取り壊しがなされていない旧山中楼の建物が見えました。屋根の上には家紋の扇を描いたものと山中との文字に親格子の間に2本の格子とあちらも元妓楼です。案内の方曰く、今年取り壊し予定だったのがコロナで延期となるも近く取り壊しの予定なのだそうです。

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三階に上がると採光/換気が強く感じられる造りとなっていました。部屋の窓には2階にあった磨硝子もなく、格子も間隔があるので2階の部屋と比べてみても明るさに違いが感じられました。上客向けの3階部分はさぞ飾り立てられているのかと思いきや、2階と同じく比較的質素な赴きに感じられました。

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遊興施設としての面影を魅せたのは2階と3階を結ぶ幅一間の大階段で、この立派な階段を見た瞬間に「お、おおっ...」となりました。「大和な雛まつり」ではこの階段を雛壇に見立てて140体もの豪華な飾り付けがなされるのだとか。大和郡山市が旧川本楼を購入し耐震工事等を施して公開した時に転落事故が起きてしまったので使用禁止となり、現在に至っているそうです。そのために通行禁止の案内がありました。

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2階から1階に戻る為に使用した階段です。モルタル壁のくたびれ具合が年月を感じさせます。自分の実家の急な階段も似たような感じだったので、何やら懐かしい感じが。足元には松葉形の明り取りが設けられており、その向きが一定でないのに目を引かれてしまいました。ここは遊び終わった客の帰り道にあたるので、転倒防止の為に付けられたのでしょう。

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「節水にご協力ください」と貼られたタイル張りの手洗い場。蛇口以外は以前のもので現役だそうです。明かり取りの窓にも工夫が感じられます。その隣りには川本家専用のタイル張り浴室があり、その天井には漆喰で川本家の家紋である三つ柏がありました。三菱財閥のマークと同じく土佐柏かと思われるも、市内に住まわれる川本家の方曰く、川本家は土佐とは無縁との回答だったと聞きました。

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お風呂場の更に西側には厠が3つ並んでいます。此処にもちょっとした装飾がなされており、硝子窓が松竹梅のカタチとなっていました。取手の金具もよく見ると松の窓の扉には松のカタチとなっています。案内を頂いた方の説明よると、3つ並んだ扉の前の床は元々は板張りでなく厚みのあるガラス張りで、金魚が泳ぐ豪華なモノだったそうです。

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そのガラス張りの床に使用されていたガラスが庭のつくばい手前にうち捨てられていました。中庭と3つ並ぶ厠の間にひとつドアがあるのですが、"衛生室"として使用されていた水場らしく当然のごとく非公開となっていました。

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この建物の中で最も格式の高いであろう大広間。大きな一枚板の床の間に槐を用いた黒光りする柱、家紋を入れた欄間等と川本楼で最もこだわりが感じられる場所です。東に棕櫚竹が植えられた坪庭、西に茶室のある裏庭に挟まれた位置にあります。この数寄屋造り部屋は面白い事に遊客の辿るであろうコースから外れている事から、川本楼の主・川本家の方の為の部屋となっていたと思われます。

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中庭の井戸は水が昔は湧き出ていたという話しより、此処は庭というよりは池だったのではないかと感じました。前述のトイレ脇通路のガラス越し見られる金魚(鯉?)池は、この中庭と繋がっていて自由に往来ができたのではないかと考えてしまいました。この庭を緩衝地(鑑賞地)として遊郭部分と川本家の居住空間が緩くつながっているのが興味深いです。

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間口6間半、重厚な三階建ての川本楼。もう新しく造られる事はないであろう遊郭建築です。ちょっとした散策気分で立ち寄ったのですが、館内をマンツーマンで案内して頂け、短い滞在時間でしたが満足度の高い訪問となりました。

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まだ当時の遊郭建築は市内に残っていますが、倒壊を避ける為に三棟が今年取り壊しになったり、その他の古い建物も数は減れども増える事はない筈です。この日訪れた旧川本楼は、取り壊しの話しが出た遊郭建築を市が「過去は過去」として購入を決断し、購入後の2年後にあたる平成26年に有形文化財に登録。さらには7,800万円と多額の費用を充てて整備/一般公開(無料)を批難覚悟の上で敢行した大和郡山市のおかげで、見学する事ができました。