大津波がやってきた。宮城県浜通り・山元町の友人と町立中浜小学校

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常磐道・新地インターチェンジで北へ向かう高速道路を降り、太平洋へと続く下り坂を進むと福島県浜通りの最北部・新地町に入って行きます。今回はその新地町から国境を越えてたところにある、是非とも見学したいと思っていた場所を訪ねに宮城県・山元町に行って参りました。

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訪問日まで目的地は海岸近くの道路添いにあるとしか認識しておらず、山元町内にあると知りオドロキました。仕事で知り合い、一緒に旅行する仲となった友人が山元町出身で、山元町には民宿を含め宿泊施設は一軒もなく(現在はゲストハウスが一軒ある)、お米と苺だけを頑なに造っている田舎町だと教わっていたのです。その友人は東日本大震災の3月11日には山元町の自宅におり、妻と2人で被災しました。

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大津波が襲った直後の山元町を写した航空写真です。震災当日の惨状を写す写真は山元町及び文部科学省よりお借りしています。写真中央にオレンジ色の建物二棟が見える以外は全てが水没しているかの様に見える衝撃的な写真です。山元町は総面積の37%、人口の50%を越す範囲が津波により浸水しました。浸水高3メートル以上の場所には建築制限を受ける区域が設けられたのです。友人夫婦はその様な場所に家があったのでした。この空中写真を見ると"壊滅"という言葉が浮かんでしまいますが、中央オレンジの小学校に避難した人以外にも多くの人が生存していました。

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3月11日以前にも前兆となる大きな地震が続いていたものの、海岸線には高い堤防があるので津波の心配はないと考えていたそうです。地震発生の午後2時46分から凡そ1時間後、黒々とした津波が迫って来たと気が付いたのは2階建ての自宅の1階の居間。逃げる間もなく家の中で濁流に巻き込まれるも、運良く2階へと続く階段に辿り着き九死に一生を得たと、その友人から当日のことは何度も詳細に聞いていました。

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水が引いたのを見て、避難所となっていた坂元中学校へ向かう途中で遺体を発見するも何もできず。着の身着のまま、海水を浴びた身体で瓦礫を乗り越えて行ったのだとか。本人から話を聞いた時はどの様な状態なのか想像もつかなかったのですが、このブログを書くにあたって見つけた被災後の坂元駅の状態を見ると、壮絶な道だったのが理解できそうに思えました。避難した坂元中学校は、坂元駅から数百メートル離れた高台にあります。

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電気も食料もない緊急避難生活のなかで、子供が仕事をしている仙台空港が水没したとのニュースを彼等は耳にしました。仙台空港は山元町から北に20km程にあります。いてもたってもいられず、信号が点っていない道を辿って徒歩で仙台空港へ向かうも子供の姿は見つからず。何処かに避難したか、救助されたかと信じ、数日かけて友人宅に避難していた子供を探し出したのでした。友人の自宅は全壊判定を受け、五畳一間の仮設住宅暮らしを余儀なくされました。

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山元町の3分の1にあたる区域が災害危険区域に指定され、集団移転対象となった地区は見晴らしの良い土地となっています。友人も被災直後に窓から外を見た時に「海って、こんな近かったのか」と思ったそうです。前方に見えるオレンジの屋根を持つ建物が、上空写真に写っていた今回の目的地の山元町立中浜小学校。海岸線から300メートル、ガランんと開けた土地に目立つ建物で迷うことなく辿り着けました。

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海岸線より1.5キロ以内の建物のほぼ全てが流出してしまい、600名を越す死者を出した山元町の慰霊碑「千年の塔」が、御影石でできた五輪の塔と並び中浜小学校のそばに立っています。慰霊碑にはこの地区で亡くなった方々、総勢137名の名前すべてが刻まれておりました。

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その慰霊碑の背後には、震災遺構として残されることが決まった「旧山元町立中浜小学校」の校舎が立っていました。写真手前に映る無数の四角は墓石で、震災以前には墓地があったところに大津波が襲いかかり、全て薙ぎ倒した猛威の跡を見ることができます。海岸線にあった高さ6メートルの堤防は町内全域で決壊。JR常磐線も線路ごと流されてしまいました。

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午後2時46分に巨大地震発生後、小学校には生徒59名、先生14名、近隣より避難をしてきた住民27名がおりました。大津波警報が発令され、第一波到着までと発表された猶予時間は僅か10分。学校で事前に避難先と定めた坂元中学校までは1.2kmの道程があり、とても到達できないと判断した学校長は屋上施設(物置小屋)にての籠城を決断します。

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津波は2階の天窓の高さまで迫り、海側の屋根を一部壊すまで至るも校舎北側の窓を破り北へと流出。水が屋上へ向かわなかったことが幸いして、避難した90名は津波に飲み込まれる難からは全員逃れる事ができたのでした。しかし、完全に孤立した中で電気、水、食料の全てがなく、続く強い余震、津波の第二波、第三波が校舎にぶち当たっていく衝撃や破壊音を体感した人々、特に子供達の感じた恐怖を想像すると心が締め付けられるかの思いになってしまいます。

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屋上の物置倉庫で一夜を過ごした90人は上空を通過する自衛隊のヘリコプターにより翌朝発見され、全員救助と事なきを得ました。中浜小学校は平成元年に校舎を立て替えをしており、学校の敷地全体を1.5m嵩上げし、津波が来ても校舎自体が受け流せる様にと海に向かって縦長に設計した津波対策が功を奏したのでした。

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建物自体は頑丈な鉄筋コンクリート製で残りましたが、津波が駆け抜けた校舎内部は凄惨な当時の状況を残したままになっています。壁も窓もドアも破壊されて無くなってしまっており、建物内部への立ち入り禁止とはなっているも、内部の様子を窺い知ることは容易でした。

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階段登って見上げる場所に、「2011.3.11 東日本大震災 津波浸水深ここまで」と書かれた青いプレートが掲げられています。また、校舎と校庭の間に倒れている石碑を読んで見ると、明治二十九年六月と昭和八年三月のふたつの年月が読み取れました。古い方は明治の三陸地震、新しい方は昭和の三陸地震。この地を襲った津波の高さが六尺(1.8m)と7尺二寸(2.2m)と彫られており、後世の人々を警告していた石碑だと分かりました。

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2011年3月11日に発生した津波による被害を1,000年先の子孫にまで伝えるべく、新しい石碑が建立されています。また、「1182人の思いで」と題をつけた石碑も建てられました。碑文をメモしたものを書き起こすと以下の通り。昭和39年、浜中小学校が誕生し、49年間で1182人の児童が巣立ちた。中浜小は常に開かれた学校として地域と共に子供達を育ててきました。2011年3月11日、東日本大震災による大津波で、中浜、磯学地区は壊滅的な被害を受けたため閉鎖することになりました。桜の木と共に、1182人の思いでがいつまでも心に残り、育ちますように願いをこめて。ありがとう、中浜小学校。2013年3月31日 中浜小学校閉校記念実行委員会。f:id:tmja:20190315125424j:plain

旧浜中小学校の前に掲げられた無数の黄色いハンカチ。地元の子供達の言葉や全国から届いた応援メッセージが1枚1枚に書かれています。幸せと希望ははためく。海から吹く風を受け、掲揚台を中心にして大きく手を広げているかの様な姿で、バタバタと力強く賑やかに黄色いハンカチがはためいていました。