宇多津の塩田で製塩体験。浜は照れ照れ、浜っ子は走れ

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家族旅行で香川県(うどん県)に行って参りました。訪れたのは子供達の夏休み期間中、暑い太陽がカンカンと地面に照り付ける真夏日でした。以前より子供達に挑戦させたい思っていた瀬戸内海での体験があり、訪問日の1月ほど前に体験できる内容を確認のうえで予約。もちろん妻+子供達には何をするかは内緒にした上で宇多津迄やって来たのでした。高さ5メートルを超える日本最大の石門がある場所が目的地です。

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訪れたのは香川県中央西寄りの中讃地方にある・宇多津町の臨海部。瀬戸内海に面する「道の駅恋人の聖地 うたづ臨海公園」に隣接する「みなとオアシスうたづウミホタル」内にある古式な建物が建つ塩田が舞台で、穏やかな瀬戸内海と塩飽の島を眺めながらの肉体労働が今回の任務なのでした。ウチの子供達は博物館の様に見て好奇心を満足とはまだかず、身体を動かして体感してナンボなのでピッタリ。

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北に中国山地、南に四国山地と挟まれた瀬戸内海は両山地に季節風が阻まれて降水量が少なく、晴れの多い地域として有名です。海水を土器に入れて煮詰めて塩を取る古代からの製塩方法は、人が海水を汲み上げ煮詰める揚浜式塩田に変わり、江戸時代には塩の満ち干きを利用する入浜式塩田へと変貌。財政難に陥った高松藩が打開策として製塩業を推奨したのを契機として香川県の瀬戸内海側は広大な塩田が広がり、明治より終戦までは国内有数の塩の産地でした。

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現在の航空写真では塩田が広がっていた当時の面影すら見られませんが、東京オリンピック前の昭和36年(1961)の航空写真を見てみると現在とは全く違った姿がありました。現在のJR宇多津駅辺りまで塩田が大きく広がっているのです。江戸時代には「讃岐三白(塩、砂糖、綿)」として広く知られた砂糖/綿は明治20年頃に衰退してしまうも、製塩事業は拡大を続け、この宇多津の大規模塩田はその頃に開かれたのでした。戦争を含む紆余曲折を経て、昭和47年(1972)に宇多津の製塩事業が幕を下ろした時には186ヘクタールの塩田跡地が残り、ここから岡山県側に渡って広がる塩田跡地の多くは本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の土地に使用されていったのでした。

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以前にこの復元塩田を訪れた時は冬の時期だったためか、誰もおらずで建物があるばかしの寂しい雰囲気。入浜式塩田は人力で海水を組み上げるのではなく、潮の満ち干きを利用して海水を得る仕組み。四方を石堤で囲んだ場所が作業場となっており、その外側に海水を巡らせています。復元塩田の広さは900平方メートルほど。左手に見える建物で偶然にも「親子で学ぶ塩づくり」のパンフレットを手にしてしまい、興味を抱いてしまったのでした。
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夏の最盛期の塩田には以前、大人だけでなく子供達も浜に出て塩田作業を手伝っていました。子供であれ手伝えば、お小遣いが貰えるので製塩業者の子弟だけでなく付近の子供達も手伝いに来て、手当をもらい文房具などを購入していたそうです。製塩作業の体験は、柄振りと呼ばれる道具を用いて塩田上の砂を掻き集める作業より開始です。大きな鋤で砂を掻くのですが、娘の体格では無理があるようで全身を使ってソロリ、ソロリと引っ張っていました。

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非力な娘は即座に降参。体力自慢の息子が登場するも、ご覧のとおり「重い〜」と言いながら悪戦苦闘中...。

水路から汲み取った海水を砂の上に均等に撒く「浜飼い」をします。息子が手に持っている「浜飼尺」は子供用で、大人用は2メートルちかい大きなものでした。海水を霧状にして撒き1日数回、3-4日続けると砂に塩が充分付着するのだとか。実際にやってみると桶の角度を塩梅良くするのが難しく、家族4人だれも上手くできませんでした。実はこの作業、入浜式塩田の華となる作業であるかのように写真に撮られることが多いのですが、毛細管現象で海水は地表まで上がってくるので差程重要ではないのだとか...。初めて知りました。

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塩田中央に設置されているのは「沼井」と呼ばれる濾過装置です。枠の底に竹や藁が敷き詰められており、この上に塩の付着した砂を詰めたものです。枠の部分は本来は木製なのですが、コンクリート製となっていました。鍬で「よいしょっ」と砂を枠内に投入する「入鍬」と呼ばれる作業なのですが、力とコツが必要で大変な作業で数回おこなうだけで翌日の腰痛の恐れが心配に...。

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そして、「上げ水」と呼ばれる作業です。坦桶(二斗桶:片側36リットル)を左右に吊るした天秤棒を背負い、水路より海水を汲み上げて沼井に注ぎます。藁の上に海水を注いでいるのは砂に“えくぼ”を造らないためです。コレを娘以外の3人で体験しましたが、キリマンジャロ山に独りで登りに行く体力と重い荷物を背負う訓練ができている嫁は余裕だとして、息子が2度ほど担ぎ切ったのはオドロキでした。

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垂舟の脇に埋められている穴の甕より、濃くなった海水を「もんだれじゃく」で汲み上げて、砂に付いた塩を溶かして更に濃度を上げていきます。海水は凡そ96%の水分と3.5%の塩分からなっていますが、この塩田での繰り返し作業で塩分濃度を10%にまで上げた“鹹水”をつくります。ここ迄の作業の途中で降雨に見舞われてしまうと、最終的にできる鹹水の塩分濃度が薄まってしまいます。そうすると初めからやり直しとなってしまうので、宇多津の浜師は作業完結前の雨には数多く泣かされたそうです。

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甕の中に小さな蟹がいたので捕まえました。炎天下での作業だったので、途中で水分補給をしたり、息子の好物「塩分チャージ」というタブレット状塩飴を舐めたりしながらの作業継続。落ちる汗玉 砂めが吸うた 沖で蟹めが 餅をつく♪

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釜屋の隣りには沼井で濃縮した海水濃度を更にあげる大きな装置・濃縮台がありました。海水が右に左にと流れる落ちる通路上に無数の小石が置かれており、ここに海水を流すと太陽光で水分が蒸発して更に濃い塩水を得られる仕組みです。仕掛けの最後の方を見てみると、この装置の有効性を物語るかのような大きな塩の結晶がびっしりとありました。この工程を通過すると塩分濃度は18%程までになります。

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宇多津の塩田での採鹹方法は入浜塩田より流下塩田へ、煎熬も余熱釜を持つ洋式平釜へと生産効率の良い物へ大正期までには変化を遂げました。釜屋のなかにある平釜にて800リットル程の鹹水を5時間ほど煮詰める「釜焚き」をすると、100キロ程の塩とアクの部分にあたる苦汁(にがり)が得られます。天然の海水より、人間の叡智を用いて結晶化した塩ができました。注:下側の写真はここ宇多津のものでなく、新潟笹川流れの塩屋で撮影した煮炊きの様子(参照写真)です。

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この飴色にも見える苦汁(にがり)の原液を舐めさせて頂きましたが、警戒しながら僅かを口に含んだだけでしたが、想像以上に凄い味で、「おぇ~」と家族4人共顔を顰めてしまいました。子供達に体験作業の感想を聞いてみると、「暑かった、重かった」と正直で真っ直ぐな回答。製塩労働者の苦労は分かってくれたみたいでした。

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雪の様に白い塩。塩床に盛られた輝く荒塩は、おにぎりや、豆腐、白身魚の刺身などに振って食べれば実に美味しそうです。その塩床の出来たて塩を少し分けていただくと、丸みがあるとの説明や製造現場マジックもあってか塩の結晶表面を覆うミネラル分が美味く感じられ、「これは旨い塩だ」となりました。瀬戸内海の温暖な気候を反映してか、これまで試した各地の塩のなかでも柔らかい味がしました。子供達にとっては初めての塩田作業。どうして砂に海水を撒くのか等の理屈を理解できるのは先の話しでしょうが、その時に「何か、塩田作業をやったことある...」と記憶に端にでもひっかかってくれると良いなと思っています。