「けがづ、まね(凶作、駄目)」、稲作の北限地だった津軽平野

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自分の住む関東は兼業農家が多いためか、まとまって休みの取れる5月のゴールデンウィーク辺りに田植えをする姿を見ることが多い気がします。稲は南方原産の植物なので15度以下の環境では生育せず、10度も下回ると全て不稔となってしまいます。列島を浅紅色に染める桜前線が春に北上していくのと同様に、国内では沖縄から九州と暖かい南側より田植えの時期が始まり、冬の間は茶色だった田んぼを緑色へと変えていきます。

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夏の盛りの頃は、苗の根っこが地につくと中干し(田んぼの水抜き)をおこない、稲自らが深く根を張り巡らせて栄養分を求めさせることにより美味しいお米へと成長する時期です。また、雑草との戦いである草刈りの季節でもあり、炎天下の夏の太陽のもとでの重労働が待っている時期でもあります。

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国内で稲作がなされている最南端は西表島・南風見地区。その反対に最も北側にある田圃は北海道遠別町清川地区と、ほぼ国内の全土で現在は水田を見ることができる様になりました。驚くことに昨今のお米の作付面積第1位は明治まで米作りはできないと考えられていた寒冷地の北海道。夏が短く、冬は長い、南方原産の稲の生育には不向きな北の大地です。

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北海道はサハリンを経て満州/シベリアより広がるユーラシア大陸と太古は地続きで、青森県を北端とする本州は朝鮮半島を通じて大陸と繋がっていました。生息する動物が変わるブラキストン線が北海道と青森の間にある潮流の強い津軽海峡に走っています。そこは本州の陸が尽きる国境の地・外ヶ浜として古来より認知され、明治に至るまでの米作りができる北限線でもありました。北広島に入植した中山久蔵が、明治6年に試行錯誤の繰り返しのなか345kgの収穫を得たのが北海道での本格的な稲作の始まりと言われおり、品種改良と土壌改良により上の図のようなるまでに稲作の北限線を現在では押し上げるまでに至っています。

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青森県・津軽平野の南西に聳える独立峰・岩木山。前ぶりが長くなってしまいましたが、今回は東北地方を訪れた時の話しになります。お米/稲が南方原産の植物で寒さに弱いと聞いていたものの、お米の収穫量ランキング上位には新潟・北海道・秋田・山形・宮城と雪深い北国ばかりが常に上位独占しており、自分は小学生の頃より疑問に感じていました。このあたりを今回の主題とてユルユルと行きたいと思います。

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長く稲作の北限地であった津軽には東西20キロ、南北50キロにも渡る広大な平野があります。ここ津軽平野は白神山地を源とする岩木川が岩木山麓から日本海に臨む河口にある十三湖へ注ぐまでに潤してできた沖積平野で、津軽藩により新田開発が始まるまでは萱の広がる荒地ばかしの原野でした。岩木川の上流は流れが急激なものの、平野に至ると極めて傾斜が緩やかになる特徴を持つ川です。水は高い場所より低きんいぢか流れず、その為に津軽平野にて新田開発をおこなうには岩木山を更に遡った高い場所より数十キロも水路を引く必要がある土地でした。

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弘前を拠点とする津軽藩ができた当初の石高(表高)は4.7万石。現在よりも気温が5-7度低く小氷河期とも言われた江戸時代に田畑を拡げていたのです。前に触れたブラキストン線も寒冷化により、18世紀には津軽海峡から100キロ、200キロと長期に渡り南へ押し下げられていたなかで、小藩である津軽単独でその北限線を押し返していったのでした。9代藩主・津軽寧親の時代に津軽藩の家格上昇運動に応じた高直しがあり10万石に。徳川幕府に代わり、明治政府が発足した後に津軽藩が報告した実石高は27.4万石でした。そのうち14万2千石が領主が実際に年貢を徴収できる現石で、津軽藩の現石/表高は1.42となり全国の諸藩で一番となる程でした。

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現在の長野県と群馬県の境にある浅間山。短期間で噴火を繰り返す活火山として火山ランクAに指定される山です。天明三年(1783年)に4月より断続的に活動をそていた浅間山が7月8日に大噴火を起こし、同年三月に噴火を起こした津軽の岩木山と共に各地に降灰による農作物への直接被害をもたらしました。天を覆う火山灰で、日照不足による作物不良と既に進行中であった「神武以来の大飢饉」と言われる天明の大飢饉へと拍車をかけていくのでした。

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先祖が血の滲む想いで拓いた農業水路は、平時であれば稲作に欠かすことのできない貴重な水を運んできてくれますが、洪水が発生した時には全てを流し去る大水も導いてしまいました。大飢饉に至るまでの直近10年に渡り岩木川の流域は洪水に悩ませられていました。来たる天明三年には霖雨、低温、霜害、冷害にも襲われ、夏にはヤマセと呼ばれる冷たい東風が吹き田んぼの稲は青立ちとなり、5年間続く天明の大飢饉を迎えてしまいます。前々年は長雨と冷夏により凶作、前年は平年の4割にも満たない大凶作と農家の体力と気力を奪っていきました。大人ばかりでなく、子供達も空を見上げ「ヤマセ」が来ないように祈り続けていました。そして、天明三年は前年よりも更に酷い作柄で、山間部では収穫ゼロも珍しくない悲惨な有様となってしまったのです。

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米しか主要産品を持たない津軽藩の米は、年貢米を換金する為に廻米へとまわされる経済システムが成り立っており、凶作時にも大阪を初めとする市場へ出荷しないと藩財政が立ちゆかなくなる「飢餓移出」が続いていました。領内に前年収穫の備蓄米が底をつく前に廻米を止めようと暴動が発生するも、廻米は藩により続けられていき最悪の事態へと向かっていくのでした。

稲実る田んぼの最前線にいた農民達は勿論ただ傍観していただけではなく、あらん限りの手を尽くしていました。まずは五穀豊穣を願い御祈祷を受ける事に始まり、田植時には育成時期の異なる複数の稲を植えることによりリスクの分散を図り、凶作を避けるための加持祈祷が作柄が確定する夏までなされます。稲の発育を見て凶作が避けられなと判断すると、野山に入り木の実、草の根等の食料を冬まで集められるだけ集めて長く続く冬に備えたのでした。

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雪が降り始める10月にもなると根物は入手できなくなり、馬や鹿、犬、鶏と食用ではない家畜へと手が伸び、盗みや強盗、殺人等と食物を争っての犯罪が蔓延し始めます。農村を捨てて市中に乞食・非人がなだれ込み始めるのもこの時期でした。そして、11月にもなると食べられるものは地上から全て消し、根雪となった雪の下に埋まってしまい、残った食べ物と言えば大根の葉っぱを干した「しぐさ」ぐらい。疾病による命を落とすものも、食べ物がなく、我が子を手に掛ける親も現れるなど阿鼻叫喚の地獄絵図が現実のものに。  

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被害の大きかった東北では、飢饉で亡くなった方々の慰霊碑が各地に多数現存しています。餓死者、栄養失調による伝染病の死者等々、津軽藩の窮状は惨憺たるもので天明元年(1781)には24万7千人いた津軽藩の総人口が、文化七年(1810)まで減少が止まらず16万5千人までと3分の2まで減り続けました。記録によると天明三年9月から翌6月までで8万2千人の餓死者を出し、領地の2/3が荒地に帰しました。

上の写真は弘前の専修寺にある高さ3.8メートルにも至る大きな餓死供養題目塔で、元禄・宝暦・天明・天保と津軽で発生した大飢饉のうち、初めの飢饉(元禄の大飢饉)への慰霊の為に建てられたものです。専修寺界隈には藩による"御救い小屋"が並び、粥の炊き出し等がおこなわれていました。この慰霊碑がここにあるのは多くの人が此処で息を引き取ったからとも、救済を求め此処で力尽きた人々を葬った場所だとも言われております。

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弘前から移動して、五所川原の嘉瀬の町まで北上してみました。この辺りは現在でも見渡す限りの田んぼが広がっている場所です。不思議な場所で、雪を排水溝へと落とす作業中のご老人から小さな子供まで、男女関わらずに皆さん「こんにちわ!」と必ず挨拶を交わしてくれました。突き当たりの大きな木の立っている場所に「保食宮」と呼ばれる神社があり、自分の目で1度見てみたいと思っていた場所でした。

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保食宮はその名前が示すように保食神(ウケモチノカミ)を祀った社で、保食神は五穀、魚、動物と人が糧とする食べ物を生み出したされる神です。この神は月夜見尊に切り殺された躰より日本人の主食である稲が生えてきたとの神話があり、農業の神として崇められています。四角く囲った場所は「イゴク穴」と呼ばれた大穴が掘られた場所で、天明の大飢饉で無念にも亡くなった方々の遺体を葬った穴跡です。ひとり、ひとり埋葬するには余りにも大勢過ぎたのでか、骨と皮だけとなり死んでいった村人を穴を掘って入れてやるのが精一杯だったのでしょう。津軽には数え切れない「イゴク穴」が掘られたはずです。その場所すら忘れ去られたものも多いですが、訪れた保食宮のイゴク穴は非常に綺麗に手入れをされているように見受けられました。

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そのイゴク穴の前の建物には津軽独特のお地蔵さんが祀られていました。その多くは夭折した子供達の供養の為に造られたもので、定期的に衣装を替えて化粧を施しています。雪掻きをしていたご老人が親切にも説明をして頂きました。大正生まれの女性では"間引き"のは常識だったことや、この様な地蔵を新たに造る人はいなくなっている事...。同じく嘉瀬の八幡宮に訪れた時に、地蔵蔵の前に積もる真っ白な雪の上に足跡がひとり分だけ残っているのを見た時には心が苦しくなった思い出してしまいます。

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嘉瀬には4箇所のイゴク穴が残っており、そのうちの二箇所目に足を運んでみました。寺なのですが、ご住職が常にここにはいらっしゃらないようで、訪れる人も多くないのか全てが雪の中でした。綿々と連なる田んぼの向こうには岩木川が流れ、あと10キロも下れば十三湖にたどり着くところです。もはや大地の勾配はゼロに等しく、極端な排水不良に悩まされたであろう下流域にも17世紀末には開拓が進んでいたと言うのですから、当時の津軽の人々の過酷な働きが目に浮かぶようです。墓の向こう耕作地は17世紀後半に藩営事業として初めて、幕末まで開墾が続けられた「金木新田」です。津軽の耕作地の9割以上が田んぼ/稲作でした。田んぼが光り、田んぼだけにたより暮らしていたのです。

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天明の大飢饉の最中に津軽を歩き、記録を残した人物に"民俗学の祖"と呼ばれる菅江真澄がいます。秋田から日本海沿いを北上し津軽に入り、鰺ヶ沢より五所川原に向かって10キロ程の場所にある新田地・床前村を通りました。小道に融け残った雪のように白骨が散乱しており、頭蓋骨の穴から薄や女郎花が出ている様を見て、「あなめ、あなめ」と呟いた話しが有名です。あなめ あなめは能の演目「通小町」にて奥州を訪れた"在原業平"が「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ(目が痛い)」と何処からか聞こえて来るのを耳にし、野晒しとなり目より薄が生え出ている骸骨が小野小町の遺体だと知り、「小野とは言はじ薄生いけり」と下の句を付け弔いをした時と同じ言葉です。

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津軽平野の雪道をストーブ列車で走る津軽鉄道の駅舎に「ことばのふる里 ・青森」と題して、地元の言葉が掲示されていました。そのなかで自分の目にとまったのは"駄目"でした。南部方言では「わがんね」、そして津軽方言で「まえね、まね」とあります。昭和六年(1931)から九年に渡り続いた「昭和農業恐慌」の凶作続く津軽の小学校の教師と生徒を描いた小説「けがづの子 生命をつづる津軽の詩」に「まね」という言葉が沢山出てきたのを思い出しました。

この頃の青森県で豊作は150万石にもなる収穫量が、昭和九年の冷害による凶作時には60万石にまで減少、東北地方は飢饉の困窮に陥ります。父は北海道や樺太へ出稼ぎに出掛け戻らず、女子の身売りが一般化し、トラコーマを患う子供達、欠食児童が問題になっていました。食べ物がなくなり、ひもじい状態の日々が続き、学ぶ力どころか、生きる力も奪う極限下で、頭がシラミだらけの子供達は「けがづ、まね(凶作 だめ)」、「どして けがつ おこるのだべ」、「おらの おどば さがしてけろ」と教室で綴っていたのが印象的でした。

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日本全国が、津軽地方が飢餓がら完全に脱したのは戦後暫くしてからでした。昭和19年より始まり50年まで続いた一大土地改良計画は、近代技術を持って1万ヘクタールにものぼる大穀倉地帯・津軽平野の貯水・用水・排水問題に取り組み、戦後の食糧難打開の策として「国営十三湖干拓事業」に着手し、これまで見放されていた岩木川最下流を150万町歩もの耕作地に変貌する壮大な計画でした。上の写真は岩木川改修にあたる五所川原での起工式のもので、地元民が寄せる期待は相当なものだったそうです。

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昭和33年に発生した岩木川の大洪水で、弘前市内を含む広い地域で洪水による被害を受けました。この時に岩木川水域の12堰が破壊されたのを契機にして、既存の井堰と統合復旧する災害復旧事業が立ち上がり津軽平野1万ヘクタールの水運を統合管理する「岩木川統合頭首工」が昭和35年に完成します。江戸初期から始まり300年を越す津軽平野における水との戦いは、この施設の完成を持って終に終楽章を迎えるに至ったのでした。

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東北北部ではヤマセを呼ぶので口笛を吹くなと言うことがあるそうです。ヤマセは穂の出た稲を痛めつけ、稲の実りを握りつぶしてしまうのです。冷害に強い寒冷地用水稲が各地で育成され、農事試験場陸羽支場の陸羽132号と亀ノ 尾、新潟県農林試験場で産まれた農林1号、そして青森県農事試験場の凶作防止試験地に産まれた東北における近代的品種の先駆け藤坂5号等が普及し、寒冷地稲作を一変させ戦後の食糧難にも大きく貢献しました。これまで国内最大の米収穫地域だった西日本を1950年前半には抜き去り、現在では同じ面積あたりの収穫で、北海道・東海・近畿・四国の12%増、九州・中国の8%増の収穫が得られる日本一の米どころへと東北は大変貌を遂げたのでした。

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青森県の風張遺跡の竪穴式住居跡から大昔のものと見られる炭化米が発見されました。そのお米は3,000年前のものと考えられています。米を育て、米に生かされてきた我々の祖先は数え切れない程の飢饉に直面するも、その困難をその都度乗り越えてきました。時には何十万という尊い命が犠牲になりました。過去に自らの命を賭して切り開き維持してきた広大な田んぼを受け継いだ子孫達が、近代的な機械と技術を併せた"農業革命"により飢えの恐ろしさから逃れる術を得たのは現在からつい5-60年前の事です。しかしながら、安堵のため息を漏らしていられたのも束の間で、人々の悲願であった米の余剰生産が逆に問題となってしまい、国指導による"減反政策"が日本全国で40年に渡り続いてきました。厳しい農作業や過酷な土木作業に耐え忍んでも切望してきた"豊作"は、「できるだろうが、余計な米は育てるな」とお上からの命令が下ったのです。

農村には田んぼと共に代々と受け継がれてきた"命をつなぐ大きな流れ"があります。親が子に、その子が孫にと繋いできた"希望"と言っても良いかもしれません。我が家では自分の祖父の代でその流れの襷を繋ぐ者が現れず、田畑の継承は途絶えてしまいました。耕作地だった土地は他人に貸し出したり、宅地化したり、山に戻したりしたのでした。クルマの自動運転が進展し、「おじいちゃん、自動車を自分で運転した事あるって本当?」と尋ねられる未来が自分が生きている間に来そうな気がします。それと同じく、「おじいちゃん、お米や魚を食べた事あるって本当?」と聞かれる未来も、もしかすると近い将来に来るのかもしれません。その時に「あんとぎな、てぎくせぇがって、ちゃんと考えらねがったはんでだべなぁ (あの時には、めんどくさがって キチンと考えなかったからだ」と反省の念を込めて人々が呟く世になっていないことを願うばかりです。