利賀村上畠集落のてっぺん「瞑想の郷」にてネパール仏教美術を堪能

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仕事にて訪れた富山県にて、富山市の南40キロほどの山中にある旧利賀村に行って参りました。そこには「瞑想の郷」の呼ばれる場所があり、ネパール/チベット様式の大曼荼羅が多数あると10年以上前より知っていましたがナカナカ訪れられず。今回の富山訪問にて遂に訪れることができたのでした。

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この辺りの道は不馴れなので、富山市から旧利賀村まではレンタカーに付いていたカーナビに従い出発。岐阜県へと伸びる国道472号線を南下し、「おわら風の盆」で有名な越中八尾で少し散歩をしてから向かいました。

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それにしても、日本の道は限られた一部の林道/酷道を除くと快適に走れるものです。余りに山奥まで整備された道路が通っているのを見ると、さすがは大国・日本だと感じてしまいます。山道に慣れていなければ上の写真のようなクルマがすれ違うのが困難な場所に躊躇することもあるでしょうが、完全舗装にガードレール付きと致せり尽くせりの道路です。

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以前より気になっている民宿おかもと/よだれ亭を通り過ぎ、トンネルを抜けると急峻な谷間にへばりつく村に出ました。利賀村は村域の96%が山林で、標高1,000メートルを越える山々に囲まれた地域です。11月から3月までは雪に閉ざされる積雪3メートルを越す豪雪地帯。山も海も見えない関東平野のゴミゴミした街中で育った自分には、ここで暮らす人達の1年の生活は、雪も年に数度しか降らない平地とどれ程違いがあるのか想像もできません。

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利賀村は名物の「利賀そば」が有名です。1986年に「そばの郷」資料館建設の資料収集の為に、信州大学教授の仲介を経て蕎麦の原産地ひとつと考えられているネパール・ツクチェ村と友好村盟を結びました。この日に訪れたのは、そのツクチェ村との交流シンボル、標高600メートルの地にある「瞑想の郷」です。

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向かって左手の「空想の館」にて受付を済ませました。入場料は600円。予想はしていましたが訪問客は自分ひとりで、有難いことにスタッフの方が案内をして頂けるとのこと。チベット美術は少しかじった事があるので、予習しなくても大丈夫だろうと気楽に訪れたのですが、案内を頂けるのは助かると思いました。

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準備をするので暫く待って欲しいと言われ、受付横の広い売店コーナーでネパールのお土産品を冷やかし。雪山獅子旗を配したフリーチベットTシャツを見て、南インド・ムンゴッドでライブ演奏を聴いた「ンガーツォ プー ミレーグン ゾーボ ゲルカプランツェン レンギュ...(我々チベット人のするべきことは国家独立を...)」で始まる歌を思い出しました。Tシャツの黄色枠部分の筆記体チベット語にも「ランツェン(独立)」と最後5文字で書かれています。

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この施設の最大の見所・瞑想の館/瞑想美の館に向かう途中に、五色の旗をたなびかせたタルチョ(祈祷旗)がたなびいていました。乾燥した緑の少ない乾いた土地で見る機会が多いタルチョを、緑豊かな利賀でみられるのが面白いと感じました。奥に見える瞑想の館/瞑想美の館は能登のデザイナーさんの設計だそうで、カトマンズ盆地で見られるような建坪が狭い一階の上に、上へ空間の広がりを求めるかのようなネパールの建築を彷彿とさせられる建物が2棟列んでいました。

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その建物にはチベット仏教寺院でよく見るマニ車もありました。外側は梵字の六字大明呪のようです。このマニ車を1回まわすと、中に入った教文を1度読んだのと同じ功徳があるとかで、あると無意識で回してしまうハンドスピナーのような中毒性を持っています。

どこで聞いたのか忘れてしまいましたが、気性の荒いカム(東チベット)の人々を評して、「アイツらが寺を熱心にまわるのは、人を殺めつ、寺を周りつ、行き行けオンマニペメフーン」だからだとの説明が可笑しくて、20年は経ったいまでも忘れられないでいます。

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入口に撮影禁止とあったのですが、係員の方より撮影許可を頂けました。なんでも、現像式の写真だと撮影後に御仏の写った写真がぞんざいに扱われるのを嫌って禁止としていたが、スマホ時代では禁止を継続する意味がないと解禁に踏み切ったのだとか。

この部屋でチベット文化圏で最大のデルゲ経典印刷所の説明を伺っている時に、「私もたしか1992年に訪れたことがあります」と思わず言ってしまいました。デルゲ市が正式に外国人解放を受ける前のことなので驚かれたようで、つい調子に乗ってしまい、チベット三大聖地のカン・リンポチェ、ラプチ、ツァーリもそれぞれ訪問したことがあるだの、ダクパ・シェーリ山周辺で数百年殺生を禁じている谷間の美しさが利賀村同様に素晴らしかった等を口走った記憶が…。

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この利賀村にできた瞑想の館/瞑想美の館には、巨大な仏画/曼荼羅がある事で有名です。"蕎麦村"友好村盟を結んだツクチェ村を訪れた利賀村代表は、村中の案内を受けて地元の寺院を訪問しました。そこで目にした極彩色の仏画に心を打たれ、その絵がツクチェ村のサシ・ドージ氏とその父親の作品であると知った利賀村長は、是非とも利賀村での制作をと依頼したのが始まりだったそうです。

後述する世界でも例を見ない大型のチベット様式・両界曼荼羅の作成は、「あの曼荼羅(上の写真の一切知毘盧遮那曼荼羅)が描けるのならできるだろう」という恐ろしい発言で開始されたのだとか...。

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上の写真は曼荼羅制作に実際に用いられた絵の具です。チベットやネパールの仏画、はたまた日本画でも使用されている岩絵具が、膠と混ぜて乾燥した状態で展示されていました。

藍銅鉱を砕いた青色は日本を含む古今東西で用いられてきましたが、インド・マナーリ在住のチベット人仏画師よりチベット/ネパールの青はアフガニスタン産だと聞いた記憶があります(真贋不明)。この利賀村の曼荼羅製造で使用された岩絵具が新岩絵具だったのか、全て天然岩絵具を聞くのを忘れてしまいましたが、白に関しては牡蠣の殻を砕いたモノ(胡粉)だと聞いた記憶があります。

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曼荼羅作成に用いられた筆。HIMARAYAというネパールの国産筆と日本の筆が多数混じった状態で展示されていました。描く仏画の大きさが違うのでか、通常のタンカ(チベット仏画)で用いる筆と細さが違うようです。関東だと自分の知っているチベット人の仏画師は東京の得應軒等の面相筆を愛用していたので、違いがあり興味深かったです。

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こちらも余り一般に見る機会のない仏画作製用具で、描いた仏画を小キリで穴を開けた紙です。胡粉を綿布に塗って作ったキャンバスの上に、この紙をかざして炭を上から振ってガイドラインをコピーする"ステンシル"用紙です。

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始めて描かれた仏画は、いまから2,500年程前に仏教の開祖・釈迦の影を写したものと云われています。ネパールにほど近いインドで起こった当時の新興宗教・仏教は瞬く間にアジアの国々へと広がっていきました。最も古い伝統を維持しているのは、スリランカより東南アジア諸国に伝わっていった仏教で上座部仏教(南伝仏教)と呼ばれています。

また一方、アフガニスタンよりシルクロードを経て、中国と日本を含むその周辺国へと広がった漢訳経典に依拠するものは大乗仏教(北伝仏教)と呼ばれています。インドから中国へ伝わった中期密教のその系譜を現代まで継承・保全しているのが日本です。

そして、イスラム勢力拡大により北伝仏教ルートが途絶えた後にもヒマラヤを挟んで地続きのインドより直接・後期密教を中心とした教義を受け継いだのがチベット語訳の大蔵経に依拠するチベット仏教、と大きく3つの流れがインドより生まれました。

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瞑想の館を2階に上がると、日本の曼荼羅研究の第一人者・田中公明先生のコンピュータ・グラフィック「ミトラ百種曼荼羅」の全てが一部屋に展示された場所に出ました。ミトラ百種曼荼羅は紀元前5世紀に誕生した仏教が、イスラムの侵入により12世紀に祖国インドで滅亡する直前にインド人密教行者ミトラ・ヨーギンにより生み出されたインド仏教最後の曼荼羅群です。

正直に言って、自分もその殆どを理解できていないのですが、12世紀に生まれたミトラ百種曼荼羅の100種類の曼荼羅をベースとして、曼荼羅を幾何学的に分解、再構築して何千と考えられる曼荼羅を全て計算で叩きだそうとしていると捉えました。地球上から失われたであろう曼荼羅の図案を太古の遺跡からの発掘でなく、組み合わせから発見しようと言う現代的で斬新な試みのようです。

昨今話題となることが多いAIを用いれば、インド仏教最後の経典となった時輪タントラの次の経典も生み出せ、南伝・北伝・チベットの次の仏教の流れ「AIインターネット伝」ができるのではないかと、部屋中に飾られたマンダラ群を見ながら、冗談のようなことを考えてしまいました。

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次の部屋は2/3階を吹き抜けにした部分の壁四面に、4メートル x 4メートルの大きさの曼荼羅/仏画が展示されている空間となっていました。日本でもNHKが特集して一時期流行した「チベット死者の書」に出てきた寂静忿怒百尊曼荼羅を寂静四十ニ尊、忿怒五十八尊の2幅に分けて描いた曼荼羅があったのですが、なぜか自分は写真を撮っていませんでした。

上の写真は阿弥陀如来を本尊とした「極楽浄土図」です。背景に違和感を感じたのでスタッフの方に尋ねたところ、「仏画家サシ・ドージ氏が1989年〜91年の作画開始前に訪れた京都、奈良(+1箇所の名前失念)で見た景色が盛り込まれている」との回答でした。

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こちらは十一面千手観世音菩薩を中心に配し、左右に文殊菩薩と金剛手菩薩が配されたチベットでよく見られる三部主尊の図です。画家の流派はカルマ・ガディに見受けられるのですが、陰影が強めに入っている為か新しい流派であるかの様に自分には一瞬見えてしまいました。

19世紀末から続き、インドで大流行し続けている西洋画の影響を強く受けたヒンズー教の神々の表現方法が、ヒマラヤの麓まで影響を及ぼしているかのようです。インドで生まれた仏画がヒマラヤを越えチベットに入り、中国の影響を受けてから再度インドの大地へ還流していく過程を見るかのようだと思えました。

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瞑想の館の前には"曼荼羅花壇"がありました。北を不空成就如来(緑)、南を(黄)、東を阿閦如来(青)、西を阿弥陀如来(赤) となる様に花が植えられています。敷地中央に花壇による表現で表した立体曼荼羅を置き、周辺に建物を巡らす奇天烈なデザインは恐らく世界初ではないでしょうか? 

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国土交通省の空中写真データで見ると、瞑想の郷は曼荼羅状の花壇を中心に、寄棟造りの建物をその周囲に配した斬新な造りになっているのが分かります。この瞑想の郷は正式な寺院でないので、"宗教的自由"を享受して、このような新しい伽藍配置?を実現できたのだと考えました。花壇上部にあるのが瞑想の館(中央)と瞑想美の館(右)なのですが、瞑想の館の左には左右対称となる建物が無いのです。どうして無いのか、その意図を確認すべきでしたが失念してしまいました。

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瞑想の館隣に建つ三重塔が「瞑想美の館」の2階には、この瞑想の郷で最大の試みが成されたであろう大型の仏画が飾られていました。その実物を見る前に少し予習を...。

上の写真は京都・東寺に伝来する日本で最も著名な両界曼荼羅(国宝)のうちの金剛界曼荼羅です。7世紀初頭にインドで成立した「大日経」と7世紀ー8世紀初めに別系統として成立した「金剛頂経」があり、恵果阿闍梨による大日経/金剛頂経の両系統を統合した形で、空海が中国より始めて日本へ持ち込みました。金剛頂経と理趣経に書かれた儀軌を図式化したものを、井桁のような9つの曼荼羅にして表しています。

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そして、こちらがチベット式の金剛界曼荼羅。同じく金剛頂経の儀軌を図式化したもので、経典に書かれた諸尊を観想により具象化して供養するためのモノです。東寺の金剛界曼荼羅は井桁状でしたが、チベットでは9つ曼荼羅をひとつに集めた図像は用いられず、井桁中央の「成身会」だけを描くのが普通です。左右対称な空間全面を埋め尽くす仏の数は、案内を頂いた方の説明によると1,037体も絵描かれているそうです。

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東寺に伝来する国宝・両界曼荼羅のうちの胎蔵界曼荼羅。大日経は原本たるサンスクリット語版は世の中に既に存在せずですが、724年にインド人・善無畏三蔵による漢訳と、そこから90年近く後にシーレンドラボーディ/パルツェグによるチベット語訳が残っています。金剛界曼荼羅はチベット文化圏に数多く見られ、其れこそ全ての寺院に描かれていると言っても過言ではないくらいにポピュラーな図像です。しかしながら、チベット版・胎蔵界曼荼羅の遺品は数百と訪れたチベット寺院で自分も実物を見たことがなく、世界でも両手の指で数えられるものしかないと言われていました。

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その作例が世界で数える程しかないチベット胎蔵界曼荼羅を作製するのが、利賀村で行われた大きな挑戦でした。漢訳版とチベット訳版の経典内容が類似したものであれば、日本に残る胎蔵界曼荼羅の図像を参照にチベット様式で各尊を絵描けば良いのですが、翻訳された時差・90年の間に経典の再編成がなされたのか、日/チの経典内容には多くの相違があり困った事になりました。

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チベット語経典に拠った胎蔵界曼荼羅の図像確定には近くは立川博物館、遠くはパリ・ギメ博物館まで古今東西の遺作や、近年明らかになってきたアムド地区の作例等を参照にと探し続けながら、古代チベット吐蕃の王ラン・ダルマの廃仏以前にはチベットでも数多く描かれていたであろう胎蔵界曼荼羅の復元作業に当たったのです。その時の資料(上の写真)が館内に展示されていました。

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そして、1994年から3年の月日を要して完成したチベット様式の復元された胎蔵界曼荼羅がこちらです。ちょうど停電した時に撮影をしたので自然光だけで見られました。描かれている仏は122体のみと、金剛界曼荼羅の1,037体と比較すると大きな差があり非常にスッキリした印象です。インドの原型に近いであろう、チベット版胎蔵界曼荼羅を復元した曼荼羅を目の前にして仔細に見ることができました。この胎蔵界曼荼羅は日本に古くから伝来した曼荼羅とは予想の通りに形態や配置が違うのがみてとれます。

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この利賀村版チベット様式胎蔵界曼荼羅は、チベット仏教圏で新たに描かれる胎蔵界曼荼羅に大きく影響を及ぼしてしまっているらしいと館の方は言われていました。これは資料的価値のみではなく、描かれた両界曼荼羅がタシ・ドージ氏の高い技量も評価されたからなのだと思われます。

胎蔵界曼荼羅の胎蔵とは子供が母親のなかで育つ様に、人は悟りの資質をその体内に宿していることです。インドからチベットへと流れた大日経系の流れは一度ユーラシア大陸に深くに宿るも、長い時間を経て極東の日本で再び湧き出たようです。利賀村の村長が蕎麦を求めて訪れたネパールにて、「素晴らしい仏画だから、我が村にも欲しい」と言った時には恐らく考えてもみなかった素晴らしい仏画が、後期密教を灯し続ける国より中期密教の法灯を護る国へと贈られたのではないかと思ってしまいました。