栃木県大田原市 飛鳥時代の国宝・那須国造碑を祀る笠石神社へ

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栃木県に行って参りました! 午前中に仕事の打ち合わせを無事に終えて、県北の大田原市に寄り道をするべく北へ。新幹線の西側に位置する日光・那須にはこれまでにも度々訪れてきましたが東側は殆ど訪れたことのなく、位置関係が殆ど把握できておらずで、カーナビ様に言われるがままに矢板インターで高速を降りたのでした。

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「那須」と云うと思い浮かぶのは、那須岳の南麓に広がる高原リゾートと温泉群。那須川と箒川に囲まれた「那須が原」は火山灰と砂礫の積み重なった土地で、水捌けが良すぎるために農業には適さず、明治38年(1905年)に「那須疏水」と呼ばれる飲料/農業用の大規模用水路が拓かれるまでは広大な原っぱが広がっているだけだったのだとか。

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北西から南東に広がる「那須が原」の地下水が地表近く利用できる南東側が江戸時代以前の人々の活動域、大田原がこのあたりの歴史的な中心地だったとは知っていたので、まずは遅い昼食を求め大田原の中心街へ走りました。

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この日に訪ねたい候補地筆頭は国宝「那須国造碑」を有する笠石神社でした。その碑石を御神体として祀る笠石神社の宮司さんを知っていたので一度は伺いたいと考えていたからです。下調べを怠った自分に非があるのですが、この笠石神社のある場所が大田原中心部から遠いこと、遠いこと。大田原の"市内"には確かにあるとは言え、隣町の那珂川町と接する市域最南端にあり、矢板IC→大田原市内→笠石神社と移動するだけで片道29kmも走ることになりました。

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笠石神社の入口には神明式の石造りの鳥居があり、その奥の松林の中に本殿があるようです。この神社の創設者はあの水戸黄門こと水戸光圀公。旅の僧・円順よりの埋もれた古碑の話しが光圀公の耳に入り、延宝4年(1676年)に石碑の保全顕彰の為に碑堂を建立したのが始まりとありました。

碑文に書かれた主を求め、光圀公は助さんこと佐々介三郎宗淳を派遣し、近くにある上・下侍塚古墳を発掘調査するも見つけられず。光圀公も自ら現地に足を運び、石碑の周辺一町部(1,000m x 1,000m)を水戸藩の直轄領とする力の入れようだったのだとか。

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まずは宮司さんにご挨拶をと思い社務所へ向かいましたが誰もおらず。展示されている品々をガラス越しに眺めていると背後から足音が聞こえて、にこやかな宮司さんが現れました。自分の聞いた記憶が正しければ19代目になられるとか。開口一番に「以前にXX学校にて数学を教えられていたXX先生ですよね」と尋ねると驚いた顔をされていました。

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本殿に向かう前にこの石碑に関する20分程のレクチャーがありました。さすが元教員だけあり、わかり易い説明で事前学習ゼロで訪れた自分も何となく石碑のありがたみが解った様な気になってしまいます。

教わった事を掻い摘んで説明すると、この高さ148センチの石碑は那須国造であった那須直韋提の遺徳を偲び700年(文武天皇4年)に建立されたもので国内最古の碑。江戸時代に好奇心旺盛な僧侶(伯楽が発見したとの説もあり)が倒れている石碑を起こして"碑文"を発見します。その後は徳川光圀公が印籠片手に出てきて無事に保護されることに相成り、明治四十四年/昭和二十七年に国宝指定を受け現在に至る。

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「では参りますか」と声をかけて頂き本殿前に戻ってきました。那須国造碑は1,000年もの間、雨ざらしの状態でこの地に碑文の書かれた面を地面に埋もれた状態で"発見"されるまで放置されていました。ちなみに、石碑を保管している本殿(鞘堂)は明治に火事を受け再建されたもの。再建時には常陸太田市にある義公廟(光圀公の遺徳を偲んで建てられたもの)の外観に似せて造られたそうです。

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その再建された鞘堂に鎮座するのが国宝・那須国造碑です。普段はその門を閉じています。石碑は御神体なので撮影不可の決まりがあり、上の写真は大田原市観光協会より石碑の映る写真をお借りしました。お寺であれば本尊(御神体)を直接拝めるのが普通ですが、神社では御神体を直接目にする事はないことはないため、それだけでも貴重な経験だと言えます。

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出典: Wikipedia

二礼二拍手一礼をした後に堂内に入り、まさに目と鼻の先の距離で国宝を見る経験となりました。1,300年を越える年月を経たものとは思えない美しさで、花崗岩の石面に彫られている文字の多くが判読可。文字欠けがある部分は、自分の想像力を駆使できる余白だと捉えると面白味が増します。宮司さんが石碑右より絶妙な懐中電灯ライティングをしてくれ、文字に立体感が加わり...、この石碑は実物をぜひ見て欲しいと思います。

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明治36年の笠石神社の姿です。現在と変わらず杉林に囲まれており、火事になる前の本殿と拝殿の姿が見えます。書き忘れていましたが、碑文の彫られた石の上に笠のような石を載せていることにより笠石とも呼ばれています。この笠を載せたスタイルは極めて稀で、朝鮮半島に数点、国内には笠石神社にのみ残存すると宮司さんより聞きました。

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出典: Wikipedia

上の写真は北漢山新羅眞興王巡狩碑(韓国国宝第三号)。新羅のの真興王が現在のソウル近郊まで領土を広げた記念碑で、7世紀の石碑が1816年に"発見"されると那須国造碑と似た経緯を持っています。日本書紀によると、武蔵国(高麗郡)や下野国に新羅人が移住したとあり、那須国造碑はその新羅人の手によるものと言うのが有力な説らしいのですが、韓国に残る石碑と見比べると頷ける気がしてしまいます。

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那須国造碑を拝見後の帰り際に、地元下野新聞で笠石神社を特集した記事の写し等と各種お土産品を頂いてしまいました。右手の紙袋に押された円形のハンコは、草むらに埋もれた石碑をひっくり返した時の姿でしょうか。ひっくり返した石碑に付いた泥を洗い流して見ると、笠石部分の「国宝」とまではいかなくとも「お宝/貴重なもの」とは発見した僧・円順の目にも写ったことでしょう。

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水戸光圀公より境内にはこれこれの樹木を植えるべしという記録に従い、昔の姿を再現すべく敷地内に新たに椿や楓を植えた木々が参道沿いにありました。那珂川流域は昔より常陸の穀倉地帯で、水戸藩の中心を流れ太平洋へと注ぐ母なる川です。その川を遡った地に出土した石碑に、水戸光圀公も古代ロマンを感じて情熱を注いだのかと考えてみました。

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ただクルマを運転して通っただけでは立ち寄る事はないであろう片田舎の村社に、こんなに素晴らしい碑石が祀られているのは驚きでした。これまで碑石の良さが全く分からなかったでしたが、宮司さんによる力のこもった解説のおかげでその良さを感じることができ、満足度の非常に高い "寄り道" となりました。