新藏公路を経てサガダワ祭の聖地カイラス/マナソワール、聖都ラサへ

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ヒマラヤは古代インドのサンスクリット語ではヒマ・アラーヤ、雪の住処を意味する言葉です。地球上で最も高い標高を有するヒマラヤ山脈は西はパキスタン北部カラコラム/ヒンドゥークシ山脈に繋がるインダス川源流域より、東はブマプトラ川が西へと流れを変える大屈曲部に至るまでの東西2,000キロを超す巨大な山脈です。そのヒマラヤ山脈の北部に横たわる広大なチベット高原には多くの氷河が存在し、北極と南極に続く大規模な氷を蓄積する「第三の極」とも「世界の屋根」とも呼ばれております。

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一番上に置いた写真はシスパーレ(7,610m)等の七千メートル級の山々に囲まれた北部パキスタンにあるパス―大氷河で、その次のは中国雲南省北部のヒマラヤ山脈へ続く雪山は五千メートル級を誇る山脈です。今回はそのヒマラヤ山脈を超えた北側に広がるチベット高原を妻と旅行した話しをユルユル/溜溜と書いてみました。掲載している写真のうち色褪せているものは全て20年程前に撮影したフィルム写真をスキャンしたもので、もう年数が経っており中には撮影した場所や時期の記憶が曖昧になっている写真もあります。また、地名の表記や各種説明は自分の記憶に頼っているところが大きく、現在の表記/説明とズレがあるかもしれません。

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中国の詩聖・李白の有名な詩に将進酒と呼ばれる有名な詩あります。「君不見黄河之水天上來奔流到海不復回」で始まるのが正しいのですが、何故か自分は「君見ずや黄河の水 天上より来たりて 星宿海に至りて また回らず」とミスインプットしてしまいました。中国の2大大河のひとつの黄河を遡って行くと、チベット高原東北部のジェクンド近郊の湖沼地帯に辿り着きます。この地にて夜空を見上げると満天の星が地上の湖沼に映る姿が見られます。古の中国人は天の川が天上から降り注ぎ、黄河の源になっているとようだと感じ「星宿海」と湖沼群に名付けました。その天の川が地上へ流れ落ちるイメージが余りに鮮やかで、「奔流して海に到り」ではなく「星が宿る海に至りて」となってしまったようです。

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大河と呼ばれるアジアの川の多くはヒマラヤ山脈の北・チベット高原に源を発しています。中華文明の源とも呼ばれる黄河と揚子江(上流では通天河)、東南アジアの母なる川メコンはチベット高原東部の山脈地帯より流れ出し。インド亜大陸の左右の仕切りであるインダス/ブマプトラ川、そしてその間を流れ人々に多くの恵みをもたらすガンジス川はヒマラヤ山脈西部のより流れ出ています。母なる大河の源求め、万年雪を頂くヒマラヤの峠を越えていった古代インド亜大陸の行者達は、インド亜大陸の主要な4河川が1箇所より何れも発している事実を知り、この偶然の一致は神の技によるものだと信じた筈です。

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そのうちのひとつのガンジス川は、はるか昔の神々の時代には天界を流れる川でした。ラーマ王子の先祖にあたるバギーラタが、ブラフマー神の許しを得てガンガーを地上に降ろしたと神話が伝えています。ガンジス川を天界より降ろす時に地上にガンガーをそのまま流すと地上が崩壊してしまう恐れがあるので、バギラータはシヴァ神の助けを願いました。シヴァ神はこれを引き受け、ヒマラヤに座して自らの頭でガンガーをいちど受け止め、その受け止められた水がインド中を流れ、流域の多くの土地と人々を現在も潤しているのだと考えられております。

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現在でもガンジス川は聖なる川として崇められています。その川の水面に身体を浸し、両手で水を掬い上げて天に捧げてから川に戻す姿を目にする事ができます。死者を荼毘に付し、その遺体を聖なるガンジス川に流す行為は死者への最大の敬意であると言われています。ガンジス川中流域にあるヒンズー教最大の聖地バナラシは一生に一度の訪問が願われる聖地で、ガンガーの流れで魂を清め為に多くの人々がインド中より集まってくる場所となっています。

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ヒンドゥー教の行者達はその聖なるガンジス川の源・シヴァ神の宮殿を求め、ガンジス川を遡り、ヒマラヤの高い峠を越えて歩き続けマナソワールとラカスタールの2つの広大な湖を発見するに至ったのです。その湖から流れる清き水は世界を潤す源だと言われる伝説の湖・マナソワール(阿耨達池)。そして、その向こうには万年雪を頂きそそり立つ独立峰、シヴァ神が住まうと言われるカイラス山(写真中央上部)の姿を拝み、涙をながした事だと思います。

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今回はそのカイラス山を目指して出掛けた話しになります。現在から20年程前の90年代前半のチベット自治区、とりわけチベット自治区でも僻地と呼ばれるような場所は改革解放政策による経済的恩恵がまだ及ばない地域も多くありました。チベット自治区最大の街・首府ラサですら狂犬病を持っていると疑われる野犬が群れをなして夜中走り回り、食堂では外国人旅行者が食事を終えるか否かのタイミングで子供達が残飯を奪い合う姿も見られた時代でした。

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写真に写っているのは、まだ外貨兌換券と呼ばれる外国人専用通貨が流通していた時代のチベットのお店の店頭です。北京や上海等の大都市はまだしも、地方都市の百貨店を訪れると-「没有(ないよ)」と品物を探しもせずに吐き捨てるように言われる事もあった時期でしたが、健師博ラーメンやコカコーラ、椰子の実ジュース、大白兎奶糖と現在でも広く中国で販売されている商品もお店に並んでいました。チベットで自分達が"発見"した商品に中国版カロリーメイト(圧縮干粮)があり、たしか761と数字3つが並んだ名前だったはずです。小麦粉とナッツをパーム油で固めたもので、チベット内で遠出する時はコレと麦焦がし、コミュニケーション用の紅搭山を必ず鞄に入れていたものです。「インターネットは何物だ?」という時代でしたので、短波ラジオでラジオ日本が外部からの主な情報源でした。

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チベット高原は日本の6-7倍の面積を持つ世界最大の高原で、その平均高度は4,000メートルとも言われる過酷な土地です。その過酷さ故に緑は少なく、穀物の生産も自ずと限られたものとなり、牧畜が広い地域でおこなわれております。首府ラサ(標高3,650m)と富士山山頂(3,776m)と同じくらいの高さで、大気密度は平地と比べると3割減にもなる程です。1回で吸える空気量(酸素)が減ることにより吐き気や頭痛等の高山病を患う旅行者もいる程です。下のツィッターのように気安く勧めてはいけません、死人が出ます( ゚Д゚)!!

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そのような土地ですが、人々は逞しくアレコレ工夫をして生活する姿も垣間見られました。例えば、火を燃やす木材が乏しくとも、大地が太陽に近いという利点を活かしてお湯を沸かすのは太陽光でした。同じ理由で大量の木材要する火葬をするのが難しく、天に故人を送るのも鳥を使ってと活かせる自然の力を最大限利用しているのを目にしました。

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場所の記憶が曖昧で申し訳ないのですが、首府ラサの北東にあるダク・イェーパではないかと思われます(ラサ近郊でも複数箇所で見ているので不確定)。タルチョと呼ばれる五色の祈祷旗が見えるあたりが鳥葬台となっており、チベット文化圏に広く見られる鳥葬を"見学"する為にやって来たのでした。鳥葬はイラン/インドよりの起源を持つと言われ、川に流す水葬をおこなっていたチベットには現在より1,000年以上前にはこの鳥葬が伝わったと推測されております。

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飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食わせて虎の母子を救う仏陀釈迦牟尼の前世譚「捨身飼虎」などの利他精神を説く大乗仏教が、歴史上チベットを最初に統一(七世紀前半)したソンツェン・ガンポ王(中国の展示会で撮影)の下で導入され、その思想的影響により死後の遺体は魂の抜けた遺体はただの抜け殻であり、その肉体を他の生き物の糧とするのが尊い功徳を得る方法だと僧侶の葬儀方法として始まったのでないかと思われます。

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自分の親・子供を鳥に食べさせる鳥葬にしろと言われれば強い心理的抵抗を感じると思います。昔のチベット高原の人々も当初は"抵抗"を感じたのだと思うのですが、徐々に民間の人々の間にも広まり、チベットの精神的支配権の及ぶモンゴルやブータンへと伝播していきました。中国共産党統治下のチベットで1966年より吹き荒れた文化大革命では、この風習は旧思想、旧文化、旧習慣、旧風俗の悪しきモノとして禁止されるも地方では脈々と続く事になるも、80年代より公認/保護の対象となり現在に至ります。上の写真は毛沢東がダライ・ラマに送った親書(中国での展示会で撮影)。

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身体に刃物を入れて切り刻むと死臭がするため、写真に映る煙はサン(ジュニパー)を炊いているものです。この煙と読経の声が禿鷹達への合図となります。切り刻んだ肉塊が鳥葬台に撒かれると、一斉に集まる禿鷹達の姿が見られました。禿鷹達が食べれない骨を叩き、ツァンパ(はったい粉のような麦焦がし)に混ぜて全身を食させる姿も目にした事があります。食べ残しが多い=生前の功徳が少ないと看做される為に、解体をする方々には全てを食べさせる為の独自技術があるらしいのですが、余りに不敬に思えて聞くことが出来ませんでした。

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アムドからブータン、カムからラダックと広くチベット文化圏と呼ばれる地域を訪れました。チベットと云うと、おどろおどろしいインド後期密教を原典とする絵画の印象、高地故の極端とも言える厳しい自然環境、世界から隔てられた地ゆえの貧しさとその奇異な世界が興味の対象とされがちな地域ですが、見渡す限りの荒涼とした極地であっても、子供達を含めて人間の素朴な営みが確りとなされているのに心を打たれました。厳しい環境下で長く生きる人々は一様に明るく、力強い人達だったとの印象が残っています。

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今回の旅行の前に自分は既に2回カイラス山を訪れていました。一度目は西北ネパールより徒歩にて。2度目はラサよりトラックの助手席に乗せて貰いラツェまで赴き、徒歩にてカイラス山まで徒歩500キロ程。当時このヤルンツァンポ沿いの道は外国人の立ち入りを禁止していましたが、ワケ有って通行許可を認める手書きの書類を持参しておりました。妻と一緒に旅行をしたルートは、パキスタンよりカラコラム・ハイウェイにて中国に入国し、翡翠で有名なホータンにて現地の人曰く"原爆実験"による大砂嵐で丸2日間足止め。そして、新疆ー西藏を結ぶ新藏公路の出発地点・カルギルク(葉城)からカイラス/マナソワールを目指して出発したのでした。

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出典: Wikipedia アクサイチン地図/ジャンムー王国藩主クラーブシン

新藏公路の走る途中には現在でもインド/中国の係争地となっているアクサイ・チンと呼ばれる土地があります。タリム盆地の東トルキスタンと南アジア・インド結ぶ交差点にあたり、17〜18世紀に起こった遊牧民オイラトによる最後の遊牧帝国ジュンガルの最も西の領土でした。清朝がジュンガルを壊滅し支配下に置くも、ダライ・ラマ十世の後任が未確定で、宗主国清朝が英国とのアヘン戦争で手一杯を好機とみたシク王国が西部チベットへ侵攻。その後はイギリス領インド、それを継承したインド共和国、共産中国が競り合い続け、東北インドのアルナチャル・プラディッシュと共に中印国境紛争地のままになっています。

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この争いを有利にする為にと企画された新藏公路は、1951年より秘密裏に建造を開始した軍用道路でした。新疆ウイグル自治区カリギルクより、中国南西の国境寄り沿うカタチで西藏(チベット)自治区ラツェまでを結ぶ2,342キロの国道です。未舗装路状態での開通は1956年、全線舗装が完了したのは50年を経てからでした。自分達が乗ったトラックは新疆より木材や日用品を運ぶトラック群の1台で、悪路故に1台が立ち往生すると他のトラックがウィンチで引き上げるを繰り返しながら進んで行くといった具合です。座席は上の写真ように高原砂漠と美しい山々の眺めが360度パノラマで常に楽しめる特等席。突如の雨も雹も直接体感し放題、夜になれば四方100キロ集落なしの夜空に広がる満天の星空。全線凸凹デコボコ道なので、突如ドーンと突き上げを食らう事も多く、何度荷台から落とされるか肝を冷やしながらの乗車でした。

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見よ、この東風トラックの勇ましさ!! 何故か自分が運転席でハンドルを握っていますな( `・ω・) ウーム…。道すがら各地の店舗で販売員側に買ってに立ち、「そこのお嬢さん(自分の妻)、これ1ギャミゴルモ(中国元)でイイよ、買う?」と言って、周囲笑わせる芸していたの思い出してしまいました。惜しむらくは当時自分に訪問地域の知識がなく、パンゴンツォ等の自然風景や甜水海(標高4,890m)の解放軍キャンプ訪問、遊牧民族バッカワルの写真を残していないのが勿体ない限りに思えてなりません。

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この新藏公路に限らず、チベットの各地の寂れた道では追い剥ぎ/山賊が出ると噂されていました。その手の話しで必ず登場するのがカム・パ(カム地方の男性)です。漢民族の住む四川省西部と接した地域に住んでおり、東チベットの情景を漢語で歌う有名な民謡「康定情歌」が生まれた国境にあたります。カム・パは勇敢な性格で知られ、上の写真ように髪飾りを巻き、腰には刀を差しているので遠くからでも容易に判別がつきます。ある日、カムのおっちゃんと一緒にラサの喫茶店に入ったところ、給仕の女性が本当にガタガタ震えていたのが印象に残っています。「カム・パの人にとって、人を切る事を芋を切るかのと同じ」だそうな。お寺の裏で「良いモノがあるんだが...」と声を掛けてくるのもカム・パが多かった記憶があります。どこで聞いたのか思い出せないのですが、カムの男は「人を殺めなければ生きて行けず、寺を周らなければ罪は消えず、人を殺めつ、寺を周りつ、人を殺めつ、寺を周りつ、行け行け オンマニペメフン」という言葉が鮮烈で、カム・パと云えば此の表現が直ぐに脳裏に浮かびます。

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なにやら凄い峠道の上がって来ました。既に夏を迎えつつある時期でしたが路肩は雪に覆われているかと思えば、雪解け水を得て川となった場所を渡河しなくてはならない箇所もあったりと実に変化に富んだ道です。新藏公路沿いには地平線まで続く木製の電柱が立っているのですが、ときたま緑色の服(人民解放軍?)の方々がエンヤコラと倒れた電柱を立ち上げている姿を目にしたりもしました。アクサイ・チンにて訪れた解放軍キャンプで会った日焼けした青年達は皆幼さを残し(すみません、当時自分も10代ですが...)、内地から来た若者達ばかりだったので、彼らの此処での生活がどの様なモノかを垣間見た気になりました。

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途中で強烈な砂嵐に巻き込まれた直後の記念写真です。歩いていたのが氷河の上だったと、渡り終えてから気が付く若さゆえの無謀さで溢れています。父親から後から聞いたの話しですが、母親は自宅近く神社に無事を祈りに毎日通っていたそうです...。最終的に五体満足で帰国しているから良いものの、ザイール川下り1ヶ月、曲芸飛行操縦にのめり込むなど、本当に馬鹿息子でスミマセンm(*_ _)m。

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上の写真はンガリィ(阿里)で撮影した時のものだと思われます。トラックを降りて、宿泊所で1泊する事になりました。記憶がハッキリしないのですがミンゲンドルジェ氏が外事科で外国人旅行者をまだ担当していた頃だったのではないかと思われます。「俺(ミ氏)がお前達(外国人旅行者)を見つけたら罰金倍額、お前達が俺を先に見つけたら(๓´罒`๓)♪♪」と会話を以前した事があったので、街中で聞き込み調査をしてミ氏を探したような気がします。先に発見して、コチラから「雪峰チセ山に参拝に再び参りました」と声を掛けるぞと意気込んで...。カルギルクからンガリィまで何日要したか記憶にないのですが、イスラマバードを出発してからの粗食の日々も併せて、街中を歩いている時に自分の身体が"ガス欠"なったのをハッキリと認識したのも覚えていたりします。

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紀元前5世紀、インド東部のネパールとの国境に近い場所で興った仏教はアジア全土に拡がりを見せ、インドよりシルクロードを経て中国に到達した教えが、朝鮮半島の百済から日本にも飛鳥時代に伝播したと言われております。既存の国津神(神道)を崇める物部氏等の反対を退け、仏教は国の隅々までに影響を及ぼす国家宗教となりました。宗派としては大乗仏教を主として、幾許かの密教も中国を経由して伝わってきました。

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チベットに仏教がもたらされたのは上述の通りにソンツェン・ガンポ王の時代で、その子孫で仏教王とも称されるティソン・デツェン王の治世にウッディヤナーのパドマサンバヴァが招かれ、土着の神々を調伏し、仏教は国の教えとして認められるに至りました。日本と同じく大乗仏教と、インド仏教の最終形態を色濃く残す後期密教を主としていまます。

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日本でも明治期以前では布袋さんが弥勒菩薩、聖徳太子が観音菩薩、空海が大日如来の化身であるとされていたのと同じく、チベットではダライ・ラマが観音菩薩、パンチェン・ラマが阿弥陀如来と看做され尊敬を集めています。チベット仏教の特徴のひとつとして転生制度があり、それは悟りを開いた者はその縁起により再生することはないものの、衆生を救いたいという慈悲の心により再び再生するとも考えに基づき、高名な僧侶は生まれ変わる言うものです。チベットで転生制度の始まりは、持金剛仏に始まりティローパ、ナローパと続く金の数珠と呼ばれる系譜持つ法王ギャワ・カルマパだとされています。13世紀に始まったカルマパの転生制度は現在の十七世カルマパまで続いており、現座主が8-9歳の時にカギュー派の本拠地ツルプ寺にて妻と共にお会いした事がありました。彼が14歳の時にインド亡命をしたニュースに接した時には「あの遊牧民らしく、こんがり焼けた頬の小学生ぐらいの子供が、物珍しそうに自分達をじっと眺めていた子供が亡命...」と絶句しました。

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御歳84才となるチベットの現法王・十四世ダライ・ラマの次の転生が話題にのぼることがあります。チベットは中国の核心的領土と公言し、高度成長による経済的恩恵と共に法王ダライ・ラマの権威を手中にして民心を掴みたい共産党政府。「転生終了、もしくは金髪おてんば娘になる」と言って、そうはさせまいと反発するダライ・ラマとインド北部にある亡命政府。チベットの国家神託の任を代々受け持ってきたネチュン・リンポチェ。そのチベットで一番カッコ良いお坊さんに、「次のダライ・ラマはどうなるの?」とストレートな質問をした事があったのですが、何故か回答を思い出せない...。ダライ・ラマ法王猊下にも「中国と和解をして、本土のチベット人達を経済的に豊かにした方が良いのでは?」と恐れ多い質問を直接した事が90年代前半にあったのですが、こちらも回答が思い出せない...。

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現在目指しているカイラス山を含めて、宗教詩人にしてカギュー派の始祖のミラレパの聖蹟ラプチ、チベットのアルプスこと美しい森林に囲まれたダクパ・シェーリと併せてチベットには俗に言われる三大聖地なるものがあります。チベットは雪山高原砂漠地帯だと声高に説明していましたが、チベット東南部のヤルンツァンポ川南部は森林に囲まれたアルプスの様な風景が広がっています。ヤルンツァンポ川を離れ印度アルナチャル・プラディッシュ州へ向かう山中にダクパ・シェーリと呼ばれる聖地があるのですが、ここもインドとの国境紛争地域であるために訪れるのが難しい場所でした。急峻な谷底に細い道が走り、所々に通り過ぎるヒマラヤを望む集落。

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「ダクパ・シェーリの雪解け水、龍金剛草の滴」で始まるダライ・ラマ法王六世の御歌。自分がダクパ・シェーリを訪れた時に何百回と口にしました。ダクパ・シェーリ周辺は数百年に渡り動植物の殺生/耕作が禁じられ、自然保護区として格別な美しさで人々魅力する場所です。冠雪する主峰ツェリの頂きを囲む雲は、神々が祝福の香炉を炊いている姿だとも説明を受けました。世界で一番美しい場所は何処かと問われれば、その輝くばかしの美しさを自分の目で見たダクパ・シェーリと答えると言える場所でした。

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この美しいチベット東南部ゴンポは妻とも訪れた事があり、中国で最も美しい山と称えられる7,782mのナムチャバルワ山やボン教の聖地ボンリ、ダクパ、ローパの集落を訪れたりもしました。山中で野犬3匹に囲まれたり、お寺で犬に噛まれて大変な思いしたりと事件もありましたが大変に気に入っている風光明媚な地域です。

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カイラスの麓に広がるマナソワール湖は壮大な景観で、ダクパ・シェーリとはまた異なった美しさを魅せる聖なる湖でした。チベット語でマパムユンツォ(無勝母湖)。満々と澄んだ水をたたえ、空の青さを映す碧玉の湖。四方の雪山に囲まれたる景観は息を飲むばかしで、見事のほかに言葉は有りません。さすがはヒンズー教、仏教、ジャイナ教、ボン教等の大聖地となっているだけあります。

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カイラス山の麓に自分達が着いた時はサガダワ祭りの日で、辺境と言われる此の地に多くの人々が集まっていました。釈尊がルンビニーに降誕し、ブッダガヤで成道し、クシナーガルにて涅槃に入ったは全て4月15日だったことに由来して、その日を盛大に祝うチベットのお祭りです。古代インドでのヴァイシャーカ祭りを発端として広く仏教国にて現在も祝わており、日本では各地のお寺で灌仏会や花祭の名前で毎年催されております。サン(ジュニパー)を炊いた濃い白煙が辺りに立ち込める祭り会場にて、五色の祈祷旗を大量に巻き付けた長さ10メートル以上はある柱を徐々に引き起こして直立させた後には...。

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「ラーギャロ〜、ソソー(神に勝利あれ、祝福あれ)、」と立ち並ぶ人達が空に向かって、またカイラス山に向かってツァンパ(焼麦焦)を何度も撒き散らしていました。陽気なチベット人の大人達はインドの色水掛祭りホーリーやタイの水かけ祭りソンクランと同じく、ツァンパを身近な人に向かっての投げ合いを開始しまい、皆全身真っ白となっていました。カイラス山の南西タンボチェに多くのチベット人は白いテントを数多く張っていました。ここを起点にしてカイラス山の巡礼路を5日で3周するのだとか。ちなみに立ち上げた大柱の後ろには現役の鳥葬台がありました...((((;゚Д゚))))。自分達は2泊3日で1周(52キロ)だけする予定でしたが、話を聞いたチベット人は1日で戻ってくると登山家並のハイペース。彼らの身体は強壮で歩く速さと言ったら...。

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気合いの入ったチベット人は遠くはカム(東チベット)から500キロも、1,000キロも五体投地を折り返し、尺取虫かのようにノロノロと進みカイラス山や聖都ラサへ向かう人々を何度も路上で見掛けた事があります。以前、北京市北部にある"チベット村"にて、ダライ・ラマや、サキャ・パンディッタ、ギャワ・カルマパ等などの高僧の話しをチベット人としていると、浅黒く、眼光の厳しいオジさんが急に号泣しだしてしまい、懺悔を始めた時には本当に驚かされた事があります。チベット人の懺悔と信仰心の篤さにはいつも驚かされるものです。

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このカイラス山とマナソワール湖を初めて訪れた日本人は大阪堺山伏町生まれの河口慧海氏(1866-1945)と言われております。チベットに仏教の原典を求めるために旅立ち、日本人として初めてチベット入りし、カイラス山には明治33年(1900)夏に至っております。翌年春にはラサに入府して、セラ寺にチベット人として僧籍を置いて経典を収集。鎖国政策を取っていたチベットにて外国人疑惑を受けて、1年2ヶ月のラサ滞在後にインドへ脱出した人物でした。帰国後に彼が記した「西蔵旅行記」は当時大好評で、良くも悪くも日本人のチベット観の根底を造るに至った程で、自分もその影響を受けたひとりです。

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堺市には河口慧海氏が幼少の頃に学んだ清学院が現存しています。清学院は江戸時代後期に建てられた修験道の寺院で、街中に宿院を構え周辺住民を檀家としていました。清学院(当時は清学堂)は明治に20箇所近く旧環濠地区にあった寺子屋のひとつでもありました。堺は商都であっただけあり、教育に力入れる土壌があったそうです。その不動堂には本尊の不動明王の宝前に置かれた護摩壇に当時の雰囲気を感じる事ができます。火を焚いた炉に供物を捧げながら祈祷する姿には、幼い頃の河口慧海氏は何か感じるものがあったのではないかと考えました。

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カイラス山の南50キロに聳える西チベット最高峰のナムナニ峰(7,694m)を拝んでから、カイラス山1周に出掛けます。河口慧海氏が明治37年に印した西蔵旅行記は自分があの大雪峰の麓を初めて歩いた時の貴重な参考書でした。河口慧海氏は自分が越境した場所より100キロ以上東のドルポ側からチベット入りしたので経路は違うものの、その記述の細さ、正確さは群を抜くものでした。

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その河口慧海氏が「黄金渓」と名付けたセルシュン。奇怪な岩壁が並び、大雪峰がその間に見え隠れする絶景地です。この地を最初に聖地として崇めたのはおそらくインドの人々で、カイラス山をシヴァ神、マナソワール湖を妻パールヴァティ、そしてカイラス山/マナソワール湖を取り囲むように並ぶ山々をシヴァ神を祝福する緒神々として観想したそうです。仏教徒はカイラス山を釈迦牟尼仏。取り囲む山々を緒天菩薩とした天然の大曼荼羅として敬っているそうです。

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ティーヤップ(恐らくヤクの角の意)寺近くよりの有名なカイラス山北壁の眺め。中央のカイラス山を釈迦牟尼仏とし、西の山が文殊菩薩、東の山が金剛手菩薩の釈迦三尊像となっています。途中1泊で3度目のカイラス山周遊をしたのだと思うのですが、どの様な場所で寝泊まりをしたかの記憶が一切ないのですが、霜枯れたガレ場に妻と座って、月夜の明かりの下で、朝焼けのなかで、この光景を眺めていた記憶があるのでティーヤップ辺りで寝袋にくるまっていたと思われます。自分は1ヶ月ザイールをカヌーで川下り等の厳しめな旅行の経験や、カイラス山巡りも3度目なので大枠は理解はしていたので良いとしても、妻はこの破天荒な旅行によく付いて来れたものだと不思議に思えてなりません。「あの旅行は行けて本当に良かった」と後日言っていました。

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カイラス山1周の道で一番難所と呼ばれるドルマ・ラ(標高5,669m)を越えていく行きます。ドルマ・ラはかつて道に迷った老僧を小動物が導いたところ、その功徳により動物がドルマ・ジャング(緑多羅菩薩)になったという故事に因みに名付けされた場所です。河口慧海氏は「解脱母の坂」と名付けられています。無数の衣服や髪の毛が残された鳥葬場を過ぎ、五色のタルチョで飾られた場所にでると頂上です。その頂上近くには真言のカタチが自然に浮き出たと伝わる大石があり、チベット人達がその岩の前で五体投地を繰り返し熱心に礼拝をしていました。

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ドルマ・ラより急な坂を降りたところに広がる河原。川の名前失念してしまったが、記憶正しければこの川がサトレジ川の源流の筈です。カイラス山周辺は南に向かって傾斜している土地なっており、この川はサトレジ川の水源であるラカスタール湖(悪魔の湖)に注いでいます。この辺りはチベットの大詩人ミラレパの足跡が多くのこる場所で、巡礼者も多い場所でした。

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瑞相。マナソワール湖訪問とカイラス山周遊を終え、空を見上げると虹が降り注ぐ慶雲が見えました。夏にも関わらず途中で雪が降ったりもしましたが、無事に巡礼路を1周することができました。妻にとっては初めての、自分にとっては3度目のカイラス山詣でした(-人-)(-人-)ナムナム。

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カイラス山をリンガ(男根)として、マナソワール湖をヨーニ(女陰)として見立てるのはインドだけ見られるものではなく、日本でも数多く見られたりもします。男女の和合を豊穣多産や完全なものとして捉える考えは日本にも伝播しており、奥日光に聳える金精山などは正にそのもの。金精様とは男根のカタチを祀った神で、金精山はナント2,244メートルもあるナニはそれであるのです。そして眼下に見える湯ノ湖が金精山の对となるマナソワール湖ことソレがなにであります(o´艸`)。さらに、湖の向こう側に見える大きな山は中禅寺湖の前に聳える日光男体山。男体山は祭神大己貴命の居所で、大己貴命は大国主が現世に現れた神の姿で、大国主はシヴァ神の別名とされるマハーカーラです。(゚O゚)えっ...。

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1,000キロ程の首府ラサまでの"帰り道"にグゲ王国の遺跡に立ち寄りました。グゲ王国は吐藩王国ランダルマ王の子孫が10世紀に中央チベットより落ち延びて建国した古代王国で、王イェシェ・ウーは現在のチベット仏教の祖とも言えるリンチェン・サンポを含む留学生をインドに送り仏教学ばせました。リンチェン・サンポはスマトラよりチベットまで仏教の布教に生涯を費やしは人物す。ヴィクラマシー学院総長であった60代にリンチェン・サンポはチベットにて無数のサンスクリット経典を翻訳し、グゲのトーリン寺やスピティのタボ寺等の西チベットに残る多くの古寺院も彼の指導の元、もしくは影響を受けて建てられたものです。

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1933年にイタリアの探検家・ジュゼッペトゥッチ撮影の白黒写真と、妻と一緒に訪れた時のグゲ王都ツァパランのカラー写真。山肌に作られた街は高さ300メートルと高く、日本で現在一番高い大阪あべのハルカスと並ぶ高さにもなる構造物です。王宮は山頂にあり、下層部には王国の生産者達が暮らしていたと考えられています。7世紀に渡り交易により繁栄したグゲ王国は、王族兄弟の争いに乗じてラダックよりの兵によって滅亡させられ、後にダライ・ラマ五世率いる中央チベットにより統治される事になったのでした。グゲ王国は中央チベットで仏教が下火となった時に、現在のチベットに繋がる法明を受け継ぐ役割果たしました。モンゴル族によるモンゴル帝国、漢族の明朝、満州族による清朝と歴代中国王朝がチベットに敬意を払ったのは、その連綿と続いた仏教に対してであり、もし仏教を破棄していた場合には、チベットの歴史は現在と大きく変わっていたものだと思われます。

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グゲの「赤い寺院」は撮影禁止だったので、グゲ王国の遺跡にて発掘された絵画を代わりに掲載。13-14世紀に作成された釈尊と二大弟子の仏画(中国での展示会にて撮影)です。大訳官リンチェン・サンポが開いた西チベット最大の寺院トリン寺跡よりの仏画です。チベットの莫高窟と称されるピアントンガ遺跡は、自分達が訪れた時にはまだ"発見"されていませんでした...。

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一時期チベットの古い仏画を収集していた時が自分にはありました。ひとつ上のトーリン寺の発掘品より時代が下がるかもしれませんが、自分が以前に所有していた5枚セットの仏画2種です。中国絵画の影響を受けてカルマ・ガディ等の新しい絵画の流派がチベットでは生まれてくるのですが、自分はそれ以前の古いインド様式を模したモノが好みでした。趣味が高じて、中国/インド/ネパール/ブータン等のお寺を仏画見学目的で多く訪れました。新しいグゲ王国の遺跡ピアントンガが発見されるも、自身の目でその壁画を見られていないのが、チベット文化圏での最大の心残りとなっています。

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チャンタン(北方平原)高原をトラックの荷台に再び乗り、ダライ・ラマの居城ポタラ宮のあるラサ、パンチェン・ラマの居所タシルンポ寺院のあるシガツェ次ぐ歴史上チベット第三ギャンツェを目指しました。チャンタン高原は無人区と呼ばれる大平原、人口希少地域で幾許かの遊牧民と塩湖、野生動物を見るのみ。カイラス山からの帰りに放牧民が見られたのは牧草発芽の時期を迎えており、チャンタン高原に遅い春が到来していたからでした。日本の全国土から北海道を除いた程の広さが自然保護区と指定されており、人間の立ち入りを規制した野生動物の楽園となっている場所です。

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ギャンツェ市の歴史的な街並みの遠望とチベット最大の仏塔パルコルチ・ョルデ。ギャンツェは首府ラサより南西に250キロ程の位置にあり、南に行けば自分も通った事のあるブータンへ至る道があり、西に行けばシガツェを経由してネパールへと至る中央チベット護りの要の都市です。この地域はチベットの穀倉地帯となっており、西チベットと異なり、多くの住民が牧畜でなく農業に従事している姿が生きすがらに見られるので気持ちが休まります。

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大麦の収穫体験。寒冷地にても育つ大麦が主に栽培されており、長い間チベット人達の主食となっていました。チベットは現在でもアムド(青海省)、カム(四川省西部)、ラダック(インド領ジャンムー・カシミール州)、シッキム(インド領シッキム州)、ブータン等とより大きな周辺国により分割されていますが、全チベット人を表す言葉として「ツァンパを食す人」という表現があった程です。日本人を瑞穂の国と称するのに近い表現だと言われれば納得できるのではないでしょうか?

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富士山が日本を象徴するように、観音菩薩の住まう補陀落を意味するチベットの象徴・ポタラ宮は聖都ラサにあります。グゲ王国でも見たのと同じく山上に砦/寺院を建てるチベットの古典的なスタイルで、偉大なダライ・ラマ五世の治世に吐藩王ソンツェン・ガンポの居城跡に覆い被さるように建てられました。先ず白い建屋の部分の白宮が造られ(1645-1690)、その後(1690-1694)に赤宮が造られました。ポタラ宮の白宮は歴代ダライ・ラマの居城であり政務等の世俗的業務をおこなう場所で、紅宮は宗教的な領域でした。現在は世界遺産登録を受け、王のいない宮殿博物館となっております。

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世界最初の一方通行道との渾名のある巡礼路パルコル。ソンツェン・ガンポ王の時代に中国より嫁いだ文成公主、ネパールより嫁いだブリクティ・デーヴィが建てたチベットで一番尊ばれるジョカン寺の正面より、くるりと囲む巡礼路で、お土産屋や仏具店、カフェ等が並ぶ門前街を成しています。路肩にお店を広げるお婆さんから蒸かし芋を買い求め、あて無くパルコルをグルグルと歩くのが愉しかった記憶があります。下のリンクで再生しているカセットテープもパルコルで買った20年物で、何度も何度ももカセットを再生して聞き続けていました。

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早朝にジョカン寺に赴くと、炊きあげたサン(ジェニパー)で濃霧に包まれたかの様に真っ白となった門前で、多くのチベット人が五体投地をしている姿が見られます。チベット人は懺悔の気持ちと神仏への信仰心は非常に厚く、「これまでアレコレの罪を重ねてまいりました。ここに深く懺悔致します。また、これからも罪を重ねていきますので、ここに事前に懺悔致します」と言いながら仏に頭を下げている筈です。それと比較いると、日本人は計上学理論を軽んじるものの信仰心は厚く、神や仏が云々よりも心の在り方や、ありのままの心情を重んじて自然のままである事を崇拝しているのではないかと思うことがよくあります。

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上の写真の撮影場所は失念してしまいましたが、パンチェン・ラマ十世の写真が飾られている事よりシガツェのタシルンポ寺院の釈迦牟尼仏の仏像かと思われます。ラサのジョカン寺及びラモチェ寺に祀られる2つの釈迦牟尼・ジョオ・リンポチェは共にインドの創造神ヴィシュヴァカルマンが釈尊の影を写したとも言われ、釈迦牟尼が在命時の8歳と12歳の姿を模したものだと広く信じられており、現在でもツァンパを食す人々の厚い信仰の対象となっています。文化大革命時にチベットの歴史的遺産、特に全国に点在する寺院は四つの旧(旧思想、旧文化、旧習慣、旧風俗)の象徴であるとされて徹底的な破壊を受けました。ジョカン寺とそこに坐すジョオ・リンポチェは民族感情を配慮した周恩来の特別な計らいにより被害を間逃れものの、ラモチェ寺は無差別な破壊を受け、材料として再利用する為の金属製品や貴金属は中国本土へと送られました。その中にはジョオ・リンポチェも含まれていました。

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出典:ウィキペディア ラモチェ寺のジョオ・リンポチェ

釈迦牟尼8歳の姿を写したジョオ・リンポチェはジョカン寺の12歳の姿の釈迦牟尼像と併せてチベットの至宝とも称される民族の宝でしたが、その捜索が為されたのは鄧小平の開放改革政策により世の中の風向きが変わるのを待つ必要がありました。パンチェン・ラマ十世の支援の下、ジョオ・リンポチェの上半身を探索の任を受けたリブール・リンポチェが長く行方不明だった仏像を発見したのは1983年、北京の故宮博物館の中に積み上げられた沢山の金属製品の中からでした。一時は鋳造工場倉庫に眠っていた時期もあり、この仏像がラサに戻ってきたのは奇跡、もしくは強い仏縁にて戻るべくして戻ったのだと言われています。

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淡い紫色の夕焼けに染まるラサ市近郊は雄大で神秘的な光景を見せてくれました。天に届かん高さを誇る壮大なヒマラヤ山脈、空の青さを映す無数の紺碧の湖水、幾千の燈明が並ぶ歴史ある大伽藍、そして素朴で民族意識が強い人々。押し入れから出てきた古い写真を並べて、妻と訪れたチベットを思い出しながら長々と書いて見ました。ラダック、ネパール、シッキム、ブータン、アルナチャル・プラディッシュに中国/インド各地のチベット文化圏とまだまだ書いてみたい事がありますが、今回はこの辺でおしまいにしたいと思います。下のツィートは南インドのチベット人居住地ムンゴッドで行われたライブで覚えた歌です。押し入れの掃除を最近して古いカセットテープを見つけ出したものです。たまに口ずさむ事もあったのですが、いつの間にか歌詞を「石も草もひとつになって、(みんなで)あの幸せな国・祖国へ帰ろう!!」と少し脳内変換していたようです。

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自分達の結婚式にはブータン国王下賜品である親睦四瑞図のタンカ(仏画)が飾られていました。象、猿、兎、鳥が力を合わせて樹上の果実を取る姿が描かれており、結婚式にもピッタリということでしたが、写真を見返してみると日本の神社・本殿では少し場違いかもと感じます(*´艸`*)。チベット本土には既にもう干支がひと回りする程自分達はご無沙汰ですが、妻と自分はヒマラヤ地域とは何かしらの縁を感じるので再び訪れる事もあるだろうと思っています。これまでは独りで、もしくは妻と2人での訪問でしたが、次回は妻と子供達2人を連れて4人一緒に訪れ、ポタラ宮の前で家族100メートル競走をしてみたいとボンヤリ考えていたりします。"幸せの国"チベットに帰ろう!!                                                           (*´○`)o(*´○`)o¶♪ སྐྱིད པ་འི ཕ་ཡུལ་ བོད་ལ ལོགའགྲོ། བོད་ལ ལོགའགྲོ། བོད་ལ ལོགའགྲོ། 

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