南九州の路傍に見られる石像・田の神さぁ(タノカンサァ)巡り

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ここ最近は田畑に関連することを続けて書いており、そろそろ次の話題に移ろうかと考えていました。2つ前に投稿した那須烏山での田植え/収穫の前に南九州で見られる石像「田の神さあ」を実は挿入しようとしていたのですが、ポカして忘れてしまっていたのに投稿後に気が付いたのでした。稲作の話しは手持ちがまだ沢山あるので、次回の連投時に「田の神さぁ」も入れれば良いかなと一瞬思うも、考えを改めて書いているのが今回の話しとなります。上に舞台は南九州と書いたばかりですが、写真は東京池袋にある池袋水天宮を写したもの。1日の乗降者数260万人と新宿、渋谷に続く国内最大希望のターミナル駅から徒歩数分の場所に鎮座する、繁華街のなかの小さな社です。

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こちらは昭和三年に日本橋水天宮の御札を頂いて祀ったのが初めと神社の説明板に書かれておりました。気になるのは道路側に鎮座されるお地蔵様のような4体の石像。こたらが今回の主題である「田の神さぁ(タノカンサア)」です。農夫と思しき姿で右手に飯杓子、左手にお椀を持ち、藳編みの笠を被っています。南九州で見られる多くの田の神さぁと同様に、後からの姿を眺めると男根のかたちをしており、この姿は五穀豊穣と子孫繁栄を願った石像であると云われています。

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この石像がどの様な経緯で池袋水天宮脇に祀られたのかは神社の説明板には書かれていませんでした。昭和十一年(1936)の池袋駅周辺(赤丸は池袋水天宮)の上空写真を見ると駅周辺は既に住宅が密集しています。この地域は鉄道駅ができるまでは田畑の広がっていたそうですので、何かしら南九州と縁がある人達が「田の神さぁ」を持ち込んだのでしょうか?

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都城市より霧島連山方面の眺め。田の神は豊穣をもたらす耕作の神として国内で広くで信仰がなされ、春には山より里にくだり、秋には山に戻りて山の神となる説が広く流布されており、作神(さくがみ)や農神(のうがみ)とも呼ばれています。物と離れて神がある事は古い日本の感覚と異にするところではありますが、田の神は姿で表現されることが少ない神なのです。ただし、島津藩(薩摩国、大隅国、日向国諸県郡)の領地に集中して見られる「田の神さぁ」は珍しくも、石像にてその姿が表現がなされる珍しい田の神なのです。

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はっきりとした記録の乏しい田の神さぁは廃仏毀釈や、土地の都市化により相当数が失われたと考えられます。現在も残る田の神さぁの共通点として、山や竹林等を背負った場所で耕作地を見渡す場所に置かれていることが多いと感じます。鹿児島県や宮崎県の郊外をクルマで走っていると道路脇に石象や小さな祠がひと視界に入ることがあり、慌ててUターンをして確認することが多々あります。田の神さぁの石像を見つけては写真を撮ってきて、気が付くと200体を超える田の神さぁの写真を集めていました。上の写真は霧島山地の北型に位置するえびの市で見つけた、自然石を祀る田の神さぁ。遠くは霧島連山、眼下には田植え後の緑の田んぼが広がっています。

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熊本県と鹿児島に接する宮崎県南西部の小林市は西諸地域最大の都市で、水に恵まれて県下最大の農業地帯となっています。有史以前より連綿と続けられてきた農地開拓は、江戸時代の薩摩藩による人配、人口密集地である薩摩半島から大隅、諸県郡らの過疎地へ移住させる政策を受け、全国平均3倍にもあたる田畑が江戸時代半ばには開田された場所でした。

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小林市東方新田場も享保年間(1716-36)に開かれた農地で、その耕作地を「新田場の田の神」が現在も見守っています。薄桃色の衣を纏い、烏帽子を被った神官の姿で、牡丹が彫られた水色の台座に座る姿は上品さを感じさせられる像です。背中には「享保五寅天二月初九日奉造立田御神御体施主本田権兵衛」と掘られているのが見え、現在より300年前にあたる享保五年(1720)に新たな農地を開田した時に、豊作を願い建立されたものだと思われます。この石像が宮崎県内で最古の田の神さぁだと云われています。

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霧島山地中央に位置する新燃岳の火口(1,421m)と、手前に見えるは大幡池(標高1,234m)眺め。享保元年(1716)に開始した新燃岳の噴火は1年半にも渡り断続的に続き、深いところでは2メートルにも及ぶ火山灰も達する程に近隣の農地に多大な被害を撒き散らしました。前述の神官の姿をした田の神さぁは、砂上げをおこなう復興作業の最中。霧島の荒ぶる神々の怒りを納め、新たな農地での豊かな実りを祈願して建立したのだという説もあるそうです。

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新田場の田の神より2キロほどと程近い場所に鎮座する「仲間の田の神」 。高さは123㎝の像の背面には「享保七壬寅三月吉日伝吉清左エ門」と、建立した年月と布施者の名前が刻まれています。享保七年は西暦では1722年にあたり、この石像が宮崎県で2番目に古い田の神であるとされています。僧衣を来た姿で獅子が彫られた台座の上に立つ像は、ペンキではなくベンガラを用いて毎年化粧直しをしているのだとか。

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仲間の田の神からすぐ近くの場所には、過去の霧島火山の溶岩でできた日本一と称される巨大な陰陽石があります。 上の写真は陽石(男根)で高さ17.5メートル。その左手には写真には写っていませんが周囲5.5メートルの陰石もあり、男女一対を模る珍しい天然石です。この地を訪れた詩人・野口雨情は「浜の瀬川にゃ二つの奇石 人にゃ言うなよ 語るなよ」という歌を残しています。この特異的な姿を持つ陰陽石は生産の神として祀られ、この地域で田の神が石像として表現した理由のひとつではないかと考えてしまいます。

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鹿児島県日置市の円徳寺近くの「中田尻の田の神さぁ」は鹿児島県で5番目に古い田の神です。享保二年(1717)に建立された杓子を持つ地蔵型の石像で、後ろから見た姿は正しくソレで聖俗一体を表すかのごとく。女性であるとされる山の神が里におりて宿る田んぼの前に立ち、目の前に広がる田んぼが豊作となるように見守っているのでした。

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霧島山地の北側に位置するえびの市は田の神を市のシンボルとしている自治体で、昨今の新型コロナウィルスへの経済対策として全市民に配布した1万円の商品券の名前も「田の神さあ商品券」。そんなえびの市にある田の神さぁを代表的なものを幾つか巡ってみた時の写真です。最初のは松原の田の神さぁ。木造の祠からこちらをジッと見ているような顔が描かれた田の神で、高さ40センチほどの自然石。田の神さぁの初期のかたちであると言えそうです。なお、落書きではない...

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京町温泉駅の南の集落に向かう県道403号沿いの「下浦の田の神さぁ」。襷掛け姿で両手で杓を確りと持ち、左足を出して現在にも踊りだしそうな愉快な姿を見せています。おおきな顔に団子鼻と憎めない顔立ちの農民像で、いかにも豊作を招いて頂けそうな感じを受けました。ちなみに田の神さぁが収穫に必要な鎌でなく、飯杓子を持っているのは田の神さぁが司るのは食卓に乗せるまでだとか...

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旧薩摩藩地区でおよそ2,000体あると言われる田の神さぁのなかでも最も有名な「末永あの神さぁ」。自分がこれまで実際に目にしてきた田の神さぁのなかで一番立派な祠に祀られていました。背中を見ると「明治元年(1868)四月九日」と彫られています。脇に新たに立てられた解説板によると、災害を納め豊作を祈るために川辺(鹿児島)で製作された石像を馬の背やモッコで担いで末永集落まで持ってきたのだとか。

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末永の田の神さぁの目前に広がる農地。田の神さぁは旅好きらしく、田の神さぁは盗まれるのを好むとも言われています。「おっとい田の神」と呼ばれる習慣があり、田の神を持たない集落が、他の集落の田の神を3年を期限として「おっとい(おっ盗い)」するのです。実際には借りてくるのですが、返却時にはお礼を満載した手車と共におっといした田の神を返却したそうで、末永の田の神も実際におっといされた事があるのだそうです。
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えびの市の吉田温泉の北側に鎮座する「昌明寺の田の神」。こちらは大正時代に「おっとって」きた石像だそうです。長閑な景観の集落内の細い道が三叉路に別れる場所に、道祖伸であるかのように立っています。

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お腹をだした可愛らしい姿の田の神さぁは"おっとい"して未返却なのも納得の出来栄え。田の神さぁは少し雑で惚けた表情のものが多く、どこかに物憂げな眼差しを皆持っています。神と名前が付いてこそいますが、田の神さぁは何事も諦観し、微笑み続け、田を護る農民と同じ姿をしています。

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加治木インターチェンジ近く、蔵王獄の麓にある「日木山里の田の神」。イヌマキの古木の前にて、右手に飯杓子を持ち、反対の左手で甑簀を抑え、右足を引いて、田の神舞を舞うために左足を踏み出そうとしている姿に見えます。説明板には石工・名島喜六による天保年間(1830~1843年)頃の作とあり、大谷石と似ている鹿児島の加治木石でできています。猫背で「いやぁ、すまないね」と言っているかのような姿は微笑ましく、見ていると自分達も笑ってしまいそうな表情をされています。多くの田の神さぁが注連縄や花が添えられているのと同じく、日木山里の田の神にも花が供えられており、現在でも大事にされているのが分かるのでした。

今回は南九州各地の田の神さぁ巡りとしましたが、次回は一石双体の田の神さぁと田の神楽を続編として書きたいと考えています。ただ、その前に自分の眼で見てみたいお祭りが秋あるので、新型コロナウィルスで祭りが中止とならないことを願うばかりです。