元遊廓・満州楼の武雄温泉「白さぎ荘」で妖しい時間旅行

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佐賀県に行って参りました( •̀ᄇ• ́)ﻭ✧ とは言ってももう3-4年前の話しですが...。仕事で熊本県/福岡県と続けて訪れ、次の目的地・長崎県へと向かう途中にある武雄温泉に宿を求めてJR武雄温泉駅で下車。疲れきっていて1キロ先の温泉街まで歩くも億劫でタクシーはないかと探すも見当たらず、日没間際の道をトボトボと旅行バック片手に歩いたのでした。

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武雄温泉の歴史は神功皇后の時代まで遡り、皇后が朝鮮半島より戻られた時に舟を繋いだことより名付けられた「御船山」を市の象徴とする温泉地で、宮本武蔵やシーボルトなどの歴史的著名人が立ち寄ったとも言われています。江戸時代に整備された小倉ー長崎を結ぶ長崎街道(上の地図青線)の宿場町でもあり、近年は10キロ程南西にある嬉野温泉と共に歓楽温泉としての名を馳せました。

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明和三年(1766)年に描かれた地図にも武雄温泉は登場し、唐津から嬉野を結ぶ街道の宿として塚崎(武雄温泉の旧名)があり、そこには「無双ノ温泉アリ」と書かれている文字を見ることができます。嬉野には「テユアリ=出湯有り」と比べると、武雄温泉の評価は当時相当高かった様子が伺えます。

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武雄温泉を代表する景観。鮮やかな武雄温泉楼門は近代に入り観光温泉街として発展した武雄に大正四年できたもので、木造二階建ての竜宮門となっております。設計には唐津出身で日本銀行本店や奈良ホテル、東京駅丸の内駅舎なども手掛けた辰野金吾氏が関わっているとして注目を浴びています。当初は楼門を3つ拵えて、鳳凰型に配した壮大な大型温泉歓楽街を造る予定だったものの頓挫してしまいました。

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明治期の武雄温泉の町並み。楼門前の道は左右に旅館が軒を連ねる温泉街の目抜き通りでした。佐世保が明治二十二(1889)年に海軍鎮府が開かれて佐賀/佐世保と鉄道で結ばれた頃には遊廓が並ぶ歓楽温泉街となっていました。終戦間際の遊郭は戦傷者を収容する役目を負い、他地域と同じく時代の流れと共に豪奢な遊郭建築は消えていきました。

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楼門からも近い白さぎ荘は武雄温泉で唯一残る遊廓遺構で、現在では普通のビジネス旅館となっています。この宿に泊まってみたくて、この日は武雄温泉で途中下車したのでした。外から見るぶんには至って普通で、敢えて言うならば受付から階段へと続く敷物が真っ赤なのが目立つぐらいです。

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宿のご主人に案内を受けた玄関上の部屋も、日本全国どこでも見られる様な畳敷きの小さな部屋。座卓の上にはお茶セットがあり、神社の鳥居が2つ連なったカタチの衣桁と見廻す限り普通の部屋。変わっているのは布団を敷いて寝るのではなく、隣の部屋に布団ベッドがぐらいです...。

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窓の外には煌々とライトアップされた武雄温泉楼門。国の重要文化財の指定を2005年に受けた時に大修繕をおこない、2階部分天井に卯、酉、午、子の4干支の彫り絵が該当する東西南北の方角に発見されました。ほぼ同時期に設計をされた東京駅の八角形のドーム天井には鼠・牛・虎・兔・龍・蛇・馬・羊の8干支を象ったレリーフが8本の柱上部に見られ(下のツイート画像の4隅の緑色がレリーフ)、合わせると十二干支。日本の近代建築の偉人・辰野金吾氏が故郷肥前と東京を結んで残した遊び心ではないかと話題になりました。

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館内を探索開始すると、妖しい雰囲気満点の白さぎ荘の中庭に出ました。「以義為利利自多」とまるで遊廓には似つかない大きな看板に注意がいってしまいます。「義を持って為せば、自らを利する事多し」とまるで武家の家の床の間にある掛軸の言葉に違和感を感じさせます。おそらくですが、軍隊の簡易医療処として戦中徴用された時に、遊廓の雰囲気を消そうとした跡ではないかと推測しました。

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夜の帳が降りた館内。緋毛氈のような敷物に鮮やかに赤く塗られた天井と凝っており、年月を経ても色めいた雰囲気漂わせていました。白さぎ荘の妓楼時代の名前は「満州楼」でした。現在残る建物からも、往時の賑やかだった時代を想像できそうです。館内にはもうひとつ看板があり「衛生〇〇恒足」と漢文調で書かれていました。〇〇は文字が掠れてい読めなかったのですが、「衛生は恒れに足る」との意味から、同じく大戦時の軍隊徴用期の遺構だと思われます。

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遊郭は前漢の時代に、長安の北にあった遊里・平康里が起源と言われています。上の古い絵葉書は満州(哈爾濱)最大の遊里であった平康里(大正6年に薈 芳里と改称)の写真です。「白さぎ荘」の旧名・満州楼の名前の由来をご主人に尋ねるのを忘れてしまったのですが、佐世保/高雄温泉に開業した満州楼の名前は中国東北部”満州”を訪れた日本人が上の写真(平康里の美妓生活 前庭にて憩う美妓)のような風景を見て名付けたのではないかと思うのですがどうでしょうか。

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階段は往時の手摺と思われる鎖が吊り下げられ、一階には立派な赤い太鼓橋が渡されております。太鼓橋は中庭と隔てがないために雨風を受け、手摺等はだいぶ傷んだ感じとなっていました。初めて遊びに来た男性は引付座敷で遊女と対面し、杯を交わした後に手を引かれて此の太鼓橋を渡ったのでしょう。昔遊廓だった建物で現存するものは多くはないですが、まだ各地に宿や食事処等として"現役な場所"が残っています。普通の建物と違い、艶やか装飾や語られない背景もあり、ちょっとした妖しい時間旅行がお手軽にできてナカナカ愉しい場所です。