古式ゆかしい武者祭り、相馬野馬追・本祭りを初観戦しました

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福島県に家族で出かけて参りました。目的は勇壮な戦国絵巻が繰り広げられる相馬野馬追の観戦です。自宅を出発して相馬中村藩の国歌たる「相馬流れ山」を車内に響かせながら常磐高速を北へと走りました。守谷SAで休憩中に「これから行く相馬の国のお殿様はむかし守谷周辺(増尾)にいた相馬重胤という人で、喧嘩をして福島県に移り住んだ」と子供達に刷り込みをしていきます。このお祭りは20年以上前から見てみたい思っていたましたが、思っていただけで時間は過ぎてしまい、あの大震災が発生してしまいました。相馬地方は震度6の大揺れと共に9メートルにも及ぶ大津波が海岸線を呑み込み、甚大な被害を受けたのでした。

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常磐道を北に進みほど、か行とた行に濁点が増えて行きます。茨城県も北部になると話す一節の短いこと、短いこと(*Ü*)善哉。南相馬市は福島第一原発より最短10キロしか離れていない場所にあります。持参した簡易放射線測定器を見ていたところ、いわきー南相馬間の常磐高速上で最も数値が高かったのは浪江付近で2.6マイクロシーベルト/時。その後は原発から離れて行くほど数値が落ちていくのですが、小高あたりで再度急上昇(撮影した表示は0.86マイクロシーベルト/時)。南相馬ICの手前で0.48uSv/hという場所もあり、あの事故より8年が経過しても原発事故の影響が見られます。

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催事会場である雲雀ヶ原祭場地にシャトルバスが出る大型ショッピングモールにクルマを停めました。此処でも放射線を測定しましたが0.28uSv/hでした。直線距離で1,700キロ離れた沖縄・那覇の数値の方が高いので、そう慌てる数字ではない数値とも言えますが、"直ちに影響はない"と連呼された放射線は住民にとっては心配の種に違いありません。相馬市は玉野地区(全村避難をした飯舘村の北側に位置)をはじめ、放射線数値が高い場所が広くあったと推測されますが、年間1mSv基準で農地を含めて南相馬は全市除染済となっています。

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相馬野馬追は武家の文化を継ぐ行事として有名で、鎌倉時代より戊辰戦争までの700年の長きに渡って福島県東北部支配した相馬藩に由来する伝統行事です。伝承によると相馬氏の遠祖にあたる平将門が下総の地にて放牧した馬を追い掛け、武芸を競ったのが始まりとも言われているそうです。冒頭で触れた「相馬流れ山」のイントロを流しただけで相馬の人々の脳裏には馬蹄の響きと、馬の嘶く姿が映り、尺八の音色共に「相馬流れ山 習いたかござれ 五月中の申 お野馬追」と聞こえれば、涙を流さずにはいられない程地元に根付いた祭り。

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そんな長い伝統を持つ野馬追の会場にやって来ました。宇多郷、北郷、中の郷、小高郷(南相馬市小高区)、標葉郷(浪江町、双葉町、大熊町)の5地区より雲雀ヶ原祭場地へ行軍する武者行列を是非とも見たかったのですが諸事情により叶わずでした。相馬家の子孫の方が務める総大将が持つ、敵将の首をいれる大籠を1度見たかったので残念でした。できれば、「陣中なれば馬上での工場、平にお許しを願います。雀ヶ原本陣に進軍し...」などの各サムライの口上も見たかった...。

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雲雀ヶ原祭場の東側に広がる丘に陣取りました。前日に台風が近づき開催が危ぶまれていましたが、台風一過の青空と天候に恵まれました。日差しが強く30度を超える猛暑日でしたが、3キロ東に広がる太平洋から吹く風が時折吹き抜ける心地よい場所でした。この祭りは東北の熱い夏祭りの先駆けと呼ばれており、3日間で20万人に及ぶ来場者があるそうです。

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平成の大津波は国道六号線に至るまで迫り、人口7万1千人のうち千人を超す方々が犠牲となり、6万人の人達が続く原発事故による全国各地へと避難を余儀なくされました。そのような状況下においても相馬野馬追神事は大震災発生年にも継続され、相馬のサムライ達は祭りの規模こそ違えど、「大津波や原発ごときで1000年続く野馬追をやめるわけにはいかない」と強い心意気をみせたのでしたのは有名な話しです。

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兜を脱ぎ白鉢巻を締めた若武者が先祖伝来の旗指し物を靡かせて、人馬一体駆け抜ける甲冑競馬。スタート地点にはゲートがあるわけでもなく、ワイヤーが張られている訳でもない状態でのスタートとなり。合図と共に地響きのような蹄の音を鳴り響かせ、砂煙を巻き上げながら1周1,000メートルを疾走する武者姿は圧巻です。令和第一走目のスタートから第1コーナーまでの動画を撮ってみました。

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昔は士族の男性のみの参加が許されたものが、現在であれば五郷の騎馬会に入会すれば女性でも参加することができます。現在は500人の会員のうち、旧士族はおよそ1/3ほどではないかと言われているそうです(この話しを聞いて息子を将来...と固く誓いました)。甲冑競馬は速度を出そうとすると前傾姿勢となり、背中の旗指物が風で後ろに引っ張られてしまいます。この自身の目印となる旗指物が倒れているのは武士の恥となるらしく、ゴール時に旗指物が倒れていると失点になってしまいます。

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総大将(相馬行胤公)が陣取る本陣。甲冑競馬にて見事ゴールした武者と神旗争奪戦にて神旗を手にした武者は、観客席の間にある羊腸の坂を馬にて駆け上がり大将の元に武功の報告をし、総大将より御褒めの言葉と褒美を授かるのでした。威勢よく駆け上がる武者を出迎え、その活躍を讃える観客の大きな拍手がこの祭りの素晴らしさを表しているかの様です。

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総本陣あたりをプラプラして、自分達の場所に戻ってみると子供達がテレビ局の取材を受けていました。「すっごく迫力があった」と息子が言った観戦コメント場面は全国ネットで流れ、息子と娘+赤べこ人形がその晩と翌朝のニュースで放映。遠くは福岡の人より「相馬野馬追に行ってなかった?」と連絡が沢山来ることになったのでした。

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相馬野馬追は相馬中村神社、相馬太田神社、相馬小高神社の三つの妙見社(相馬一族が信仰した妙見菩薩を祀る社)の祭礼であり、神旗争奪戦終了後には雀ヶ原祭場地より妙見社への参拝をおこなった後に各郷へと戻るのです。江戸時代初期まで相馬市の居城のあった場所に鎮座する小高神社へ戻る武者軍団を自分達はクルマで先回りしつつ追いかけてみました。

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南相馬市小高区役所前にて左に曲がり、相馬小高神社へ向かう騎馬行列。小高地区は南相馬の最南端に当たり、福島原発事故により全区避難が帰還困難区域となった場所であり、相馬小高神社も例外ではありませんでした。この"帰り馬行列"が再び行われるまでには7年の歳月を要しています。また、現在も帰還困難区域となっている区域を抱える標葉郷(浪江町、双葉町、大熊町)の参加は震災後8年を経てやっと叶いました。2019年の標葉郷よりの名簿を見ると、出場者は浪江、双葉、大熊の3地区全てより参加とありました。

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「相馬恋しや 妙見様よ 離れまいとの つなぎ駒」と唄われる妙見様を祀る相馬小高神社の馬場。「野馬懸」と呼ばれる荒馬素手で取り押さえ、神社に奉納する神事がおこなわれる場所です。令和二年の相馬野馬追は7月24日-26日と東京オリンピックの開始時期とピッタリ重なってしまいます。今回は本祭りと呼ばれ"見せ場"の要素が多い甲冑競馬と神旗争奪戦を主に見ただけでしたので、次回は出陣式や総大将御迎の24日宵祭りと26日に小高神社でおこなわれる野馬懸に軸足を移して、武家の祭りをより深く堪能したいと計画を練り始めました。「また、時間とお金がかかる遊びを...」と言われましたが、息子を甲冑競馬に出場させる計画も密かに開始(*´艸`*)ウシシ