J君と一緒に巡る、自らミイラとなった即身仏に出会う旅へ

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映画製作の仕事をしているJ君が米国ニューヨークより来日。彼の希望により山形県に多くある即身仏巡りを一緒にする事になったのでした。アジア圏の文化に興味があり、ネットで偶然見た即身仏になるまでに至る10年にも及ぶ長い苦行と自らの意思で自殺と同義の土中入定に非常に驚いたのだとか。Mummy(ミイラ)、Mummy(ミイラ)と繰り返してJ君が言っていたので最初はハテナとなったのですが、話しを聞いてみると恐くは即身仏だなと分かってきたのでした。

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肉や魚の干物をミイラの一種であると捉えらるのであれば、ミイラは地球上のあらゆる場所にあり。それを人間に限定した場合でもアメリカ大陸からアフリカ大陸至るまで世界各地でその姿を確認する事ができます。古くは乾燥/寒冷地帯に放置された遺体が、"自然"のチカラで偶然にできてしまう事に始まりました。上の画像(出典Wikipedia)は標高6,000メートルを超す南米ユーヤイヤコで登山隊により発見されたミイラで、インカ帝国時代に人身御供にされたと考えられている三人の子供達のうちのひとりです。まるで生きている様な姿。

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人類が"人為的"にミイラを作った最初の場所は南米の海沿いの砂漠地帯で、チリ北部にいたチンチョーロ人は現在より7,000年前には死後の遺体から人皮を剥ぎ、内臓を取り出して防腐処理を施したミイラを作ってました(上の写真: 出典Wikipedia)。人は死後に放っておくとミイラなるもので、死後も生前と同じく社会の一員であるという考えが根底にあり、それを実現するために死後の遺体をミイラ化をする技術が試行錯誤の中で生み出されたようです。人体は体内の細菌による分解を止めない限りは腐敗していきます。成人で6割あると云われる水分が2割以下、もしくは湿度が5%などの極度の乾燥状態がそれを止める条件となり腐敗が抑制されます。

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この写真は自宅にあったフィルム写真をスキャンしたモノです。ミイラと言えば話題に欠かない古代エジプトでは、塩を用いる事による脱水技術により1万体以上のミイラが作られたと推測されています。南米のミイラ文化とは違い、死後の再生の為に人為的なミイラ化がおこなわれていました。南米と違い文字があった為に凡その製造方法が判明しており、ミイラ作りを専門におこなう人間までもおりました。
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湿気の多い気候帯に位置する日本はミイラ化には全く不向きで、偶然にミイラ化した遺体が国内で発見される事は偶にあっても、遺体を人為的にミイラ化させることは幾らかの例外を除いてなかったと考えられています。その例外が「即身仏」と呼ばれるミイラ群で、京都から東側、新潟/山形にかけての寺院にのみ残されています。その中で即身仏の拝観が許されている場所に今回は訪れてみました。

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神代の時代に国造りをおこなった伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)。伊弉冉はカグツチを産み落としたときに火傷を負ってしまい死んでしまいます。悲しみに包まれた夫・伊弉諾は妻のいる黄泉の国に出かけ、醜くなった伊弉冉を姿を見て穢れを感じ、九州日向にて禊をおこなったのでした。この時より死は穢れとして捉えら、忌み嫌われるモノとして扱うのが日本人の常となったのでした。それが変わっていくのは鎌倉時代に起こった浄土宗の普及で、死後に極楽浄土に赴くという概念(死は穢れでない)が仏教により導入され、穢れであった死の概念に大きな変化をもたらしたのでした。

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「即身仏」作成の指導的立場にあった湯殿山の東3キロ程に聳える月山上空より、鶴岡/酒田市を含む30万人以上の人々が暮らす庄内平野を撮したものです。六世紀末に臣下である蘇我馬子により暗殺され崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(能除太子)が馬子よりの脅威より逃げるために北上し、三本足の大鳥ヤタガラスに導かれて出羽三山を拓いたとの伝説があります。

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中央で剣を携えているのが月山大神、手前の老人が湯殿山大神、たわわに実った稲穂をの持つ女性が羽黒山大神。月山、湯殿山、羽黒山が出羽三山と一般的には称されております。修験の地、真言宗の影響が強い土地だった出羽の地に大きな変革が起きたのは徳川家が天下を握った江戸時代。出羽山主導にて月山、出羽山の二山が真言宗から幕府の庇護を受ける天台宗へ改宗をおこない、旧来の真言宗を維持する湯殿山と激しく長きに渡って対立します。この対立が湯殿山を即身仏に力をいれざる得ない遠因となっていくのでした。

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弘安二年(1279)建立の国内最古の仁王門。伝わるところ運慶作の風神・雷神像が鎮座する見事な山門を、大雨が降るなか小走りで駆けていくJ君。即身仏巡り1日ツアーで最初に訪れたのは真言宗豊山派(総本山: 長谷寺)の大日坊でした。真言宗の開祖である空海が招来した密教は、それまでの教義である顕教の教えと異なり、この世に生を受けた自身の身体で仏になる「即身成仏」を教義の中心とする宗派です。

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古代中国では遺体を土葬にしてから一定期間を経てから掘り返す遷墓という制度があり、掘り返した時にミイラ化した遺体を発見する経験を通じてミイラ化する事を経験的に学んだようです。唐代の高僧・慧能(638-713)の即身仏が中国には現存しており、ミイラ化した遺体を祀る文化があった事を示しています。その習わしは日本の留学僧により国内へと伝播しました。記録に残る国内最古の即身仏は慈恵大師良源の弟子・増賀上人だと云われ、平安時代の長保五年(1003)に87歳にて亡くなり、その時に「三年後に墓穴を掘り返してみよ」と遺言を残されました。記録に残る国内の古い即身仏/ミイラには高僧が多いことより中国の強い影響を感じさ、即身仏は大陸より仏教と共に渡って来たと感じられます。

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大日坊には国内で最も"有名"な即身仏である真如海上人がおられます(写真は鶴岡市の観光パンフレットより)。諸外国のミイラは死後の腐敗を防ぐために臓器を取り除く作業が必須となっているものの、国内の即身仏の多くは脳や内臓がそのまま残っているにも関わらず、身体の腐敗を逃れているのが特徴となっています。鶴岡地域に現存する即身仏のうち、本明海上人(入定1683年)、忠海上人(入定1755年)に次ぐ天明三年(1783)に入定された上人様です。

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大日坊で真如海上人の元へ案内をしていただいた方は、度重なる飢饉で疲弊する人々の為に、自身が土中入定することでその苦しみを代わりに受ける事を誓願して入定したと言われていました。度重なる飢饉や人々の疲弊する姿を慮った僧が、自らの命をかけたという美談は聞こえが良いのです。上述の通りに天台宗に鞍替えする羽黒山に対して、湯殿山は空海からの法灯を継承する真言宗であると幕府に訴訟を続けていた時でした。ですので、自らの正当性を内外に示すための”即身成仏”を見せる必要に迫られたのではとも考えてしまいました。完全に蛇足となってしまいますが、忠連寺にある鉄門海上人の即身仏はニセモノだと明言されていました。

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大日坊の次に訪れたのが同じ朝日村にある忠連寺さんです。こちらには即身仏となられた鉄門海上人(入定1829年)が安置されています。大日坊で忠連寺の”悪口”を聞いたJ君は「日本のお寺同士は仲が悪いのか?」と聞いてきたので、「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」と論点を少しずらしてクルマの中で答えていました。鉄門海上人は他の湯殿山系の超人的な苦行とも言える”土中入定”によって”自然乾燥”した即身仏ではなく、死後人為的にミイラ化した違いを指摘しているのだろうと鉄門海上人を拝観後にJ君に説明しました。

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旧朝日村には3体の即身仏があり、真如海上人/鉄門海上人に続いて訪れたのが本明海上人(入定1683年)がいらっしゃる本明寺でした。本明海上人は庄内藩の下級武士で、出羽庄内藩二代目藩主・忠当の病状の回復祈願にて湯殿山に逗留。そこで強い霊感に打たれ忠連寺にて出家したと云われています。上の写真は本明海上人のお身体を安置しているお堂で、灯明の見える場所に即身仏となられた本明海上人が座られています。前述の鉄門海上人は本明寺の住職を務めたことがあり、本明海上人の即身仏を見て感じることがあったのでしょう。生物である人間の根本的な欲である「食欲」を制御し、肉体的/精神的に飢餓感と長きに渡り闘い続け、深い瞑想により打ち勝つ。そして、最後には自らの生命を終える道を進むのは並大抵の人間にできる事ではないはずです。J君と「お前はできないだろう、お前もだろう」と話した記憶があります。

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即身仏となるには偶然による自然乾燥でもなく、死後に人為的に加工をするでもなく、極度の食事制限を自らに課すことにより脂肪を落とし、肉を落としと生きながらにしてミイラに近い状態にする必要があります。 千日の五穀(米、麦、粟、黍、大豆)断ちをおこない、更に五種を加えた十穀断ちを続けて千日。それに続き、松の甘皮や木の実だけを食べるだけの木食行と続けます。除湿を目的とした木炭を敷き詰めた石室に入る前には漆を飲み、温泉で採れるヒ素を大量接収することにより体内のバクテリアの活動を止めたと推測されています。空気入れとなる竹筒を刺した土中に埋めた松板の棺にに入り、暗闇中にて仏の名を呼びながら鈴を鳴らし続けます。この鈴の音が絶えた後に空気穴を埋め、更に千日後に掘り起こしてミイラ化していれば即身仏、そうでなければ白骨となるのです。上の写真は延宝元年(1673)より即身仏となる修行を開始した本明海上人が実際に入り、入定をなされた入定塚の上に碑文を建てた場所です。

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庄内地方には本明海上人の甥にあたる忠海上人(入定1755年)、鉄門海上人の弟子と云われる円明海上人(入定1822年)の2体を祀る酒田の海向院、鉄門海上人の愛弟子にあたる鉄龍海上人(入定1881年)を祀る鶴岡の南岳寺があり、庄内地方に現存する合計6体の即身仏を拝観させていただきました。南岳寺に安置される鉄龍海上人が入滅する前年にあたる明治十三年(1880)に(旧)刑法が制定され、墳墓発掘や自殺幇助が禁じられました。神仏分離令が出ている事により羽黒山と湯殿山の争いに決が付いた後のことです。「入定留身して、後世の人々を済度せん」と請願を立てて、鉄龍海上人は即身仏となる行を断行し、信者によって秘密裡に掘り起こされて現在も即身仏として祀られております。

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最後は山形県のお隣にあたる新潟県・村上市内にある大悲山 観音寺。こちらには佛海上人の即身仏が祀られている湯殿山系の祈祷寺です。佛海上人は忠連寺で出家し、海向寺や本明寺にて修行の後に本明寺や忠連寺の住職を務めました。明治六年(1873)の神仏分離令にて山を下り、生まれ故郷である村上市の観音寺の住職に就任したのでした。

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20世紀に入りライト兄弟が初飛行に成功した年でもある明治三十六年(1903)。佛海上人は即身仏になる為に漆の樹液を愛飲しているとの噂を聞いた憲兵の度重なる警告を無視して、入定を断行(実際には亡くなってからの入定らしい)。上の木棺の写真は佛海上人が実際に使用されたものとして寺内に展示されているものです。佛海上人は信者達に三年後の掘り起こしを依頼するも、実際に日の目を見たのは死後58年経た後の新潟大学ミイラ研究グループによる「発掘調査」を名目とした。ご遺体は長く土中にあった為に崩れてしまっていたそうです。その佛海上人が国内で最も新しく、最後の即身仏となっています。室内に掲げられた写真が残る佛海上人は人徳があった方らしく、時代が若いこともあり村上の人々に慕われていた事が分かる沢山の逸話が残っています。

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ドイツの博物館主導の「特別展ミイラ」が国立科学博物館にて昨年開催されました。展示物のなかで非常に興味を惹かれたミイラ(上の写真は台東区のページより)があったので、写真と説明をJ君に送りました。展示されていたミイラは天保三年(1832)に江戸で亡くなられた本草学者で、「自分はミイラになるので、後で掘り出してみろ」と遺言を残していたそうです。戦後にお墓を移転するのでと、子孫の方が掘り出してみると実際にミイラ化した遺体が出土。皮膚にはタンニンが塗られ、何百粒の柿の種が体内にありと前例のない方法を自ら実践し成功した事だけが分かっています。ミイラとなる方法を独自の研究で200年も前に解明していたと考えられるのですが、その理屈は現在でも不明ままだとか。J君の返信には一言だけ、「おぉ、さすがは日本人...」とありました。