金の王なる哉、日本古来よりの製鉄の地であった神話の故郷・出雲

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神話と伝説の故郷とも呼ばれる島根県に行って参りました!  写真の左手に見える浜は國引きの神話で知られる「園の長浜」で、出雲の祖・八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が三瓶山と伯耆大山を杭にして島根半島を引き寄せた綱の跡だと伝えられています。また、その浜が北の山と交わる場所には神代の時に創建されたと名高い出雲大社が鎮座しているのが見えていました。

右手方向にある宍道湖へと流れる斐伊川(ひいがわ)の上流側から2本目に映る橋は「神立橋」と呼ばれ、旧暦の10月の神在月に出雲の地に集った神々がそれぞれの国へ戻る時に出雲より旅立つ場所と、何処を眺めても神話に溢れている土地です。

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直近に鋳造だ、鍛造だと原料である金属を加工してモノ作りを子供とする話しを連続したので、今回はググッと遡ってみて日々の生活で最も普及している金属のひとつ"鉄"を追い掛けてみるかと思い、出雲の地までやって参りました。鉄の正字は鐵で、「金の王なる哉」と書きます。古代に経済性と硬度で青銅に勝り、現代に至っても金属製品の9割を占める程に鉄は人類にとって欠かすことのできない金属です。

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金属を含む石・鉱物から金属を取り出す事を"製錬"と呼んでいます。中国の古書「魏志 東夷伝弁辰条」に「国出鉄韓濊倭皆従取(国、鉄を出す。韓、歳、倭みな従いて取る...」と有り、国内で製錬が本格的に開始するまでは朝鮮半島南部の弁韓や辰韓等にて製錬された金属塊を日本に輸入し、金属の供給は朝鮮半島に依存していたと考えられています。

その朝鮮半島にて7世紀に大きな戦乱が起こり、日本は百済救済のために出兵するも新羅・唐の連合軍に大敗を喫してしてしまいます。友好国・百済と高句麗が相次いで滅亡し、自前の鉱物資源確保が国家を挙げての急務となりました。地質調査を任務とする役人が全国に派遣され、ゴールドラッシュならぬ鉱物ラッシュが文武・元明・元正天皇の時代に官民挙げての探索が続くのでした。

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その様な人達が鉄を求めて辿り着いた場所のひとつが中国地方でした。瀬戸内海側の吉備国(後の備前、備中、備後)では鉄鉱石が採れ、盛ん製鉄がおこなわれました。和銅六年(713)には備前北部の六郡を割き、新しく「美作国」を設置し鉄資源の開拓を進めました。しかしながら、吉備国の鉄はそれから百年も満たない間に取り尽くされてしまいます。延暦15年(796)には「備前では既に鉄を産出せず、今後は鉄でなく糸で税を納めたい」との書簡が都に送られた記録が残っており、吉備の枕詞であった「まがね吹く 吉備」のまがねはあっという間に枯渇してしまいました。

中国地方の日本海側は瀬戸内海側と異なり、加工の容易な鉄鉱石はあまり産出しないも、海辺の浜に、川に、山肌に砂鉄が多く見られる場所でした。上の写真は砂鉄が採れると有名な斐伊川に架かる神立橋そばの川面の様子です。砂鉄はひとつに固まる習性があり、千数百年前の鉱物ラッシュ時に山野を渡り歩いた人達も「あの川面の黒いヒダは黒鉄でないか?」と心踊らせたであろう風景が現在も見られます。

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総延長153キロのこの斐伊川を遡って辿っていくと、島根県東部・奥出雲町に聳える船通山(せんつうざん)に辿り着きます。ここの麓の鳥髪の地はスサノオ神(素戔嗚尊/建速須佐之男命)が降臨されたと比定される場所で、船通山に住むヤマタノオロチを退治して天皇家の三種の神器となる草彅剣を得て、櫛名田比売を娶ったという有名な神話の舞台です。

この船通山周辺を源とする飯梨川、日野川等も斐伊川と同じく砂鉄が良く採れる川で、一説にはスサノオ神によるヤマタノオロチ退治の話しは、洪水を頻発する荒れ狂う川の治水に成功し、そこに産出する"鉄"を得たという意味ではないかとも言われています。

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砂鉄は地球内部でマグマが冷却し生じた花崗岩や閃緑岩に含まれるものが風化して出来たものです。山陰地方は山陽側より地質が若く、不純物の少ない真砂砂鉄地帯を形成しています。上流域の川沿いの砂を靴で少し掘ってみるとこの通り。黒い部分は本物の砂鉄を含む砂で、特別な技術がなくともスコップとバケツで簡単に砂鉄を採取することができる程に砂鉄が豊かな土地なのです。

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スサノオ神が降臨された横田盆地と背後に連なる中国山地の眺め。砂鉄はあの山々から流れ出して来ます。朝廷が大号令をかけた鉱物資源により対馬から東北まで発見が相次ぎます。その中には埼玉県秩父郡の山中で発見された自然銅も含まれ、その慶事を祝い国も年号を和銅に改める事すらありました。

今回の主題である鉄はと言うと東北南部と山陰地方が主な産地となり、原料となる砂鉄の一大産地であり、製造時に必要な火力となる豊かな森林恵まれた中国山地へ鉄生産は集中をしていきます。明治34年に八幡製鐵所が稼働するまでは、全国の製鉄の実に9割以上が中国地方で産出するなど、中国山地は我が国の鉄の需要を満たし続けてきた土地なのです。

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その中国地方での採鉄方法は風化した砂鉄が土砂と共に川に流れたものを浜辺や川で集めるか、山肌に露出した岩を探し直接採取する原始的な方法が主でした。母岩に含まれる鉄量は数パーセントと低く、下流に下れば下るほど不純物が混在し質が低下していきます。江戸時代中期の宝暦年間に「鉄穴ながし」と呼ばれる新しい採集方法で砂鉄を大量に取り出す事に成功します。これは風化した花崗岩等が露出した山に貯水池と水路を設置し、山を切り崩して砂鉄を含む土砂を水路に流すことに始まります。

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土砂を堰き止めて砂鉄を沈殿させると、軽い土砂は流れ、重い砂鉄は底に残る。この比重選鉱を繰り返しておこない、沈殿させた砂鉄を最後にすくい上げれば純度の高い砂鉄が手に入る寸法。この金穴流しは下流の農地や灌漑施設に大量の土砂が流入してしまう為、秋の収穫後から春の彼岸までの農閑期の間のみにおこなわれる寒さの厳しい中での作業でした。

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たたら製鉄が実際におこなわれた高殿が現雲南市に現存しています。上の地図の奥側に流れる吉田川の岸辺に広がっているのが旧吉田村で、昭和初期には現在の大阪市と同じ程の面積(二万五千町歩)の土地を所有していた松江藩鉄師筆頭・田部家の本家が現在でも居を構えています。その田部家が財をなしたのが寛正元年(1460)より大正十二年(1923)に渡り続けた家業の製鉄で、菅谷たたらは田部家で最も大きく長く続いた炉でした。

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その菅谷炉に用いる砂鉄の主な供給源のひとつが菅谷たたらと吉田村の間に聳える栃山で、吉田村から菅谷たたら山内の間に聳え、外部からの訪問者を拒む山でもありました。

高殿のある集落から菅谷川沿いに少し下った所に、栃山でおこなった「鉄穴ながし」の遺構が見られる場所があります。ひとつ上の地図の「鉱選場」跡付近で、山から流れる水が川に注ぐ場所です。小さな橋を渡ると尾根沿いに水路跡があり、山を100メートル程登った場所に砂鉄採取場、その更に上に貯水池(未確認)があった筈です。自分の目ではその遺構の確認ができていませんが、栃山には煉瓦積みの水路を含めた水路が無数に走っており、この山からは主に赤目と呼ばれる砂鉄が採れたそうです。

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中国地方の山地で採取される山砂鉄には、赤目砂鉄と真砂砂鉄の2種類に分けることがあります。中国山地の南側にあたる山陽地方に赤目系が多く採れ、日本海側の山陰地方では真砂系が採れると言われております。赤目砂鉄は鉱物名を赤鉄鉱と呼び、擦り付けると赤い色の筋を引き、粉末にしたものはベンガラという赤色の顔料にもなります。

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もう一方の真砂砂鉄は鉱物名を磁鉄鉱と呼び、光沢のある褐色または黒色で粒が大きめの砂鉄です。赤目砂鉄は母岩の5-10%と含有量が高いのに対して、真砂砂鉄は0.5-2.0%程しかないものの、不純物が少ないため日本刀等の鍛造(叩いて成形)に要する鋼はコチラの真砂系を用いて金吹きをし、赤目砂鉄は主に鋳造(型を造って成形)に用いられてきました。

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冬季の山に入り、山肌を削り、比重選鉱にて集めた砂鉄の小山は鉄を造る原料になります。現在では鉄穴流しは勿論おこなわれておらず工場にて磁力選鉱にて砂鉄は採取されていますが、当時は鉄穴場ひとつでひと冬に100トン採れれば御の字だと言われていたのだとか。

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製鉄作業場である杮葺の高殿とそれを支える山内集落が国内唯一残る菅谷たたら。周囲を山林に囲まれた、風の通り抜ける標高350メートルの川合いの谷間に天和元年(1681年)創立されました。写真中央にはタタラ集落の守り神たる金屋子神が好む桂の木が真っ赤に芽吹いているの見えます。自分が訪れた半日前が本当の盛りだったらしく、夕陽を浴びた樹齢200歳の古木の姿は火が燃え上がるようだったと高殿の施設館長より話しを聞き、あと半日早く訪問ができていればと悔しい思いをしました。

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高さ8.6メートルの高殿は1850年の火災後に再建されたもので、大正10年(1922)5月に操業停止後は高部家の炭蔵として利用されていたのが幸いして現在まで維持されてきました。中央に縦3メートル、横1メートル、地面高1.2メートル程の台形の土で造られた角炉があり、その両側には炉に風を送る鞴装置。ほの暗い中で、古代が地中から現れたかのようないでたちで、これから特別な儀式が始まる前の沈黙を感じさせるような神秘的な空間でした。

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この製鉄炉を拵える時には炉を構築する場所に人の高さ程の穴を掘り、そこに薪を積み上げて燃やし、炭化した炭を叩き潰し固める作業を繰り返し炭で穴を完全に埋めます。純粋な鉄の融点は1538度と非常に高温で、炉が高温に熱している時に水分が触れると水蒸気爆発を起こしてしまう可能性があるため、非常に重要な工程となります。炉の地下構造は他にも保温と保湿のための大掛かりな工夫が施されています。

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たたら操業(製鉄作業)の秘訣として、「一 床、二 土、三 村下」と言う言葉があり、炉の地下構造と釜の土の選定は金吹きの成果に直結するために、現在で言うところの工場長たる村下(むらげ)の腕の見せどころでした。赤土で拵えた炉は操業中に高温に晒されながら溶媒剤として働き、科学反応を起こしてノロ(鉱滓)を出し、ケラ(鉧)を産み出します。この築炉は菅谷近くの尾根より採土した土を用いてなされていました。

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実物の炉の舟の中の様子です。舟底はV字型となっており、この炉底がひとつの仕掛けとなっています。V字型の壁面が高温となった金属の侵食を受けると、送風管から金属塊との距離が離れる事により温度変化がもたらされて生成物(鉧)を産むと、一見神秘的に見えるタタラの操業は長きに渡る先人達の試行錯誤による工夫が多く施されています。

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たたら製鉄は炉に炭と砂鉄を絶え間なく交互に投入する事でおこなわれます。用いられる木材はナラやクヌギで、1回の操業に必要な量は10トン以上。木材6あw生木の状態だと2倍近く重くかさばるので、運搬上の制約より「粉鉄七里に、炭三里」と言われていました。砂鉄(粉鉄)の取得範囲を七里(28km)としているのに対して、炭は三里(12km)と狭い範囲内での供給が求められていたのです。

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三里七里では実感がわかないので、これを東京駅を中心とした地図で描いてみると七里は東京23区が殆ど入る大きさで、1つのタタラ炉を稼働する目安の広さはナカナカ広範囲に及ぶことが分かります。1トンの製鉄をおこなうのに0.5ヘクタール/年の森林が必要と考えると、菅谷たたら規模の製鉄を年間60回継続しておこなうには山手線の内側(6,300ヘクタール)程の森林面積が、森林再生期間を短めの20年で計算しても必要となります。

現在の日本は中国に継ぐ世界二位(年間1億トン)の鉄鋼を生産しています。これをもしタタラ操業で生産すると仮定すると年間5千万ヘクタールもの薪炭林が必要で、日本の国土面積3,779万(森林面積2,510万)ヘクタールでも全然足りません。伐採した森林の回復を短く見積もって20年としても、生産サイクルを考慮すると10億ヘクタールが必要となり、それは全世界の森林面積1/4と途方もないスケールです。

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スサノオが降臨した横田盆地には伊賀多気神社(旧五十猛神社)があり、スサノオ神と櫛名田比売の子で植林の神として知られる五十猛神が祀られています。スサノオ神と息子の五十猛神は初め朝鮮半島南部の新羅・曽戶茂梨地に降臨し、その地の樹木の種子を持って本土の五十猛の浦(島根県太田市)に上陸します。稲田の里の村人より「オロチ族」の製鉄による伐採で山々が禿げてしまい、雨季の洪水で皆苦しんでいることを訴えられたと神社の説明書にありました。

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ちぎっては投げ、ちぎっては投げとオロチとの死闘を繰り広げる父親スサノオ神にオロチ族との交渉を依頼した五十猛神は、神社のある地に留まり住民と共に樹木の苗育て、荒れ山に植樹をして治山治水をおこなったのでした。

この神話はあたかも製鉄による山林乱獲の時代から、持続的な生産を可能とする時代への移行が古代におこなわれたのを暗示しているように受けとれ、前述の「粉鉄七里に、炭三里」と同様に急激に地力を使う移動前提の金吹きでなく、その土地で長く留まり継続して金吹きが出来る条件を考えた痕跡の様に思えてしまいます。

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高殿から菅谷川沿って暫く歩くと金属と鍛冶を司る神として崇められる金屋子神(かなやごかみ)の祠があります。菅谷で鉄を吹く時には村下が必ず身を清めてからお参りをし、立派な鉧の誕生を祈ってから作業に取り掛かるの厳格な仕来りがありました。

木炭をくべて真っ赤に燃える炎と漆黒色の砂鉄が交わったモノが炉の中で徐々に育ち、鉧と呼ばれる金属塊として取り出されてすぐに鉧池の産湯に入れる工程は出産として捉えられたのか、金屋子神は女性の神だと言われています。祠がこの場所に建てられたのは推測ですが、背後にある大岩の割れ目が女陰として見えたからだと祠を目にして感じました。

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話しを元に戻して、「粉鉄七里に、炭三里」より掻き集めた砂鉄と炭を用いて"鉄"を作り出します。鉄は放っておくと酸化してしまう性質があり自然界に存在する鉄は総て酸化鉄です。酸化鉄から酸素が離れると純粋な鉄になるのが理屈で、酸素の流入が制限された炉の中で木炭を燃やすと発生する一酸化炭素を利用して鉄から酸素を奪うのが製鉄(還元)です。

純粋な鉄の融点は1538度と非常に高温なのですが、炭素を鉄に2%含ませると融点は1,400度に、含有量が4%の時には1,200度弱で液体にすることができます。木炭を炉に大量くべるのは、一酸化炭素発生に加えて鉄に炭素を結合させての融点降下という狙いもあるのです。

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たたら炉を木炭で満たして着火した後に、先ず酸化度が高く、溶けにくい砂鉄を溶かす呼び水の役割をする「籠り砂鉄」を投入することで金吹きを開始します。木炭/砂鉄を30分ごとに交互にくべ、天秤鞴で風を送り込んで高温まで加熱すると砂鉄に含まれる不純物を熔融したものはノロ(鉄滓)となり、V字型の溝を喰いながら溜まっていきます 。

砂鉄と木炭を投入し続け、メラメラと炎が立つ炉の底が1500度を越える頃になると、銑鉄や鉄涬が湯口から沢山に流れるはじめます。炉壁も最初の頃の半分程の薄さとなり、送風口の羽口も広がって還元された鉄がジジジという音と共に鉧の塊となってきます。鉧とは固体の状態で酸素抜いたスポンジ状の鋼です。実際にたたら製鉄の体験をした事を別記事で設ける予定なので順を追っての詳細は割愛٩(*´︶`*)۶

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炉底いっぱいに鉧塊ができ30センチ程の厚みとなり、炉の側壁がこれ以上耐えられないと村下により判断がなされると、送風を止めて鉧を取り出すために炉を破壊します。ここに至るまでが凡そ三昼夜かかり、たたら場では火入れから鉧出しまでの不眠不休の一連の作業を「一代(ひとよ)」と呼びました。安政三年(1856)までは四日押操業でしたが、各種工夫を加えて1日短縮するに至った経緯があります。

砂鉄13トン、炭13トンで取れる鉧が2.8トン。そのうち玉鋼と呼ばれる上等な鋼が取れる量は1トン未満...。投入量に対して4%という歩留りの物凄い低さで、真っ赤に焼けている鉧塊を転がしてして、鉧池に落として焼き入れしたくなります。

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 製鉄炉の両脇にある木製のゴツイ機械は天秤鞴(ふいご)と呼ばれ、元禄4年(1961)に出雲で開発されたと伝えられる送風機です。この天秤鞴を差吹吹子の代わりに用いる事により、炉の更なる高温化に成功し真砂砂鉄だけでなく赤目砂鉄でも製鉄ができる様になった一大発明品です。天秤鞴の開発前の17世紀初頭製鉄量と、天秤鞴開発後の18世紀初頭で比較すると国内産鉄量が10倍以上に飛躍したのが、この機械の有能性を物語っています。この大増産によって造られた鉄製農機具は、江戸時代の新田大開発への大きな下支えとなっていきます。

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そして充分に冷却した鉧塊を大銅場 に持ち込み、500貫(1875kg)ある分銅を打ち下ろし、40貫程の小分を更に分割したものを選別します。鉧塊は部位により品質がかなり異なり、中心部の良質な部分・玉鋼はそのままで出荷され、そうでないものはわり錬鉄として鍛冶場で頓珍漢トンチンカンと叩いて調整した上で出荷。ちなみに寛永末年(1750年代末)にこの鉧割り装置ができる前には、鉧は捨てていて銑だけを送り出していたのだとか...。

出雲鉄師御三家のひとつ絲原家の明治初年の資料を見て驚いた事がありました。道具に用いる割鉄の値段が刃物向けの鋼より高かったのです。これは需要の強さによることが大きく働いたようですが、これを見た時に"たたら製鉄"で造られる玉鋼は特別という自分の思い込みが崩れた気がしました。

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たたら製鉄で造られた鉄は包丁から大砲の玉まで色々な用途で過去は使われていましたが、現在は日本刀にのみに玉鋼は製造/使用されております。世界で唯一のたたら製鉄を操業している日刀保たたらも奥出雲町にあり、1代で2.5トンの鉧だけが造られ、3代の金吹きのみが毎冬なされています。

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既に操業を終えて100年を経過した高殿にも、金屋子神を祀る神棚が砂鉄置場奥の元山柱に見えました。この高殿の後ろには化粧池と呼ばれる1m x 2m程の小池があり、女神・金屋子神は毎朝この池を鏡として化粧をされているのだそうです。金屋子神の高殿への出入りの為に、夜明け時には裏口の木戶を操業中も開けていたという話しを聞かせて頂きました。この話しは換気という知恵を神話として後世に伝えようとしたのかと考えたのですが、どうでしょう...?  

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明るい山吹色の炎を吐く角炉と、溶岩のように炉の下より流れ出る輝くノロ。たたら製鉄者には日本刀の刀匠と同じく、どこか神がかった能力を持ち、猩猩なる鉄を神事のように操る人々だというイメージを自分は持っていました。出雲の製鉄関連地を実際に訪れ目にしてみると、神代の時代より続く製鉄を含む技術と工夫の伝承を少し窺えた気になりました。

今回の次に書こうとしている記事が本命の内容で、今回の記事はその前振りのはずでしたが、八雲立つ考えを詰め込んでいくうちに随分と長々としたものになってしまいました。