宮崎県・椎葉村「民宿焼畑」にて少し昔の生活を垣間見る

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 何年か前のことですが、福岡/熊本出張に行って参りました。その時に宿泊場所として選んだのが宮崎県の山間部にある椎葉村の「民宿焼畑」さんという民宿業界でも指折りのインパクト名を持つ宿で、仕事での訪問先より凡そ190キロ/片道4時間をかけての訪問。帰京する飛行機の便が出る福岡空港に民宿焼畑から戻るのも5時間を要する場所で、仕事に行ったのか、宿泊がメインの旅行だったのか、自分でも理解に苦しむ出張日程のなかで訪れたのでした。

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椎葉村はその山間部ゆえの僻地性から「九州のチベット」とも呼ばれる地域で、九州最高峰の祖母山(1,756m)や、国見岳(1,729m)を含む標高1,000メートルを超す九州中部を北東から南西に貫く幅150キロにもなる脊梁山地の山中にある集落です。岐阜県白川郷、徳島県祖谷と併せて「日本三大秘境」と呼ばれているらしいのですが、秘境とは言っても立派な道路が通っていますし、お祭りの日には大型バスで観光客がゾロゾロと練り歩いている"観光・秘境"というのが現実です...

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熊本阿蘇から宮崎小林までを結ぶ国道265号を北から南下し、この国道最大の難所であった国見峠にブチ抜いた3キロ程続くのが国見トンネルです。このトンネルができて、平成八年(1996)に国見バイパスが完成するまでは椎葉村はどの方角からアクセスするにも狭隘な道を経なくてはたどり着けない”僻地”でした。戦前には発電を目的として塚原ダムが、昭和二十五年(1950)には国内初の大規模アーチ型ダムである上椎葉ダム(堤高110m)が労働者延べ人数500万人により建設される等、外界と隔離された地域ではありませんでした。

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但し、その”僻地性”により伝統的な社会システムが残っていることが高く評価され、同じ宮崎県の高千穂郷と併せて椎葉山地域はFAOより世界農業遺産(GIAHS)として平成二十七年(2015)に認定。この日にクルマを走らせて向かっているのは、その世界農業遺産登録の目玉ともいえるのが「焼畑農業」を現在も継続的におこなっていることで有名な「民宿焼畑」さんなのでした。 

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山深い里である椎葉村の厳島神社よりの眺め。此処は有名な平家の落人伝説が残る場所です。壇ノ浦の合戦で負けた平家方の者たちが追っ手を逃れるために日本各地の山奥へと分け入り、隠れるかのように息を殺して暮らしていた場所のひとつと看做されています。平家全滅を目論む源氏の棟梁・源頼朝は椎葉に平家残党が潜んでいるとの報を受け、弓の名手として名高い那須与一の弟・那須宗久(通称・大八郎)に討伐を命じたのでした。

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重要伝統的建造物群保存地区に指定されている椎葉十根川地区。平家の残党狩りにて椎葉に辿り着いた大八郎は、十根川に身を潜めていた平家の落人達を討ち、此処を拠点にしたとの伝承が残っております。全国各地で平家の隠れ里と言われる集落はありますが、源氏側が落ち武者狩りをした話しまで残っている場所は珍しく、この十根川地区の住民の性は「那須」が8割以上というのも物語の信憑性を高めているように思えてなりません。対する平家の残党は白鳥山の山頂付近の御池にて陣を敷き、決戦の時に備えていました。霧が濃く立ち込めるある日、霧の向こうに見えるこぶしの花を源氏の白旗と見間違えてすまい平家側は大混乱。このような源氏の大軍には敵わないと悟った平家の残党は、熊本側の五家荘へと逃れる者、もはやここ迄と御池にて自害する者もあったとの伝説も残っております。

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一説には壇ノ浦より豊後、阿蘇を経て迷った末に至った椎葉で慎ましく暮らす平家の人々の貧しい姿を見て、平家再興の気持ちなしと感じた大八郎は、「残党は皆討伐を致した」と幕府に報告。この地に屋敷を構え、平清盛の末裔ともいわれる鶴富姫を寵愛し、航海の安全を司る宗像三女神を祀る厳島神社を山奥である椎葉の地に建立したのだとか。

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椎葉村の村役場が現在ある集落の、もっとも上椎葉ダム側に那須家住宅、通称「鶴富屋敷」が建っています。山間部に流れる耳川沿いの僅かな土地しか平地がない椎葉では横一列に部屋が並ぶ並列型住宅が一般的なのですが、文政6年(1823年)建築と看做されている鶴富屋敷も同じ様式で建てられており、椎葉様式で同じものは建てられない貴重な建造物として重要文化財に指定されています。此処が那須大八郎と鶴富姫が暮らした場所であると云われており、那須家32代目が現在も管理されいます。

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敷地内には鶴富姫の墓と、鶴富姫を祀る廟堂があります。那須大八郎が幕府より帰還命を受けた時に鶴富姫は懐妊しており、仇敵平家の姫を連れて戻る訳にもいかず、「生まれた子が男子ならわが故郷下野の国へ、女ならこの地で育てよ」と伝え、名刀・天國丸を残して椎葉を去ったのでした。屋島の戦いで、平家の浮かべた舟の扇の的を射抜いた那須与一の弟とされる那須宗久、平清盛の孫娘とも云われる鶴富姫は椎葉だけに伝わる伝説上の人物。また椎葉に逃げこんだとされる平家の将・平清経は能の有名演目「清経」でも知られるとおり宇佐で入水しており、椎葉における源平合戦は創作話である可能性が高そうです。椎葉村に限らずですが、山奥にある集落は「なぜ、こんな山奥に自分先祖は住み始めたのか?」と自問自答をしたくなるようで、椎葉村は源平の争いに答えを求めたのではないかと考えました。

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"僻地"と呼ばれる場所に行く時の恒例行事ですが、ダム湖の縁に設置されたクネクネ曲がる矮小な道を1時間ほど走らされました。田舎のダム湖故に、かっ飛ばして走る軽トラックやダンプカー等とすれ違う時もあり、車両がすれ違う時には退避所まで距離があったりと涙目になって運転していました。

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途中で携帯電話の電波が届かない場所も多く、本当に正しい道を走っているのか不安なる時もありましたが不土野集落の郵便局に到着。近くの掲示板には村内全域有害駆除中だから鉄砲ンバンバン気を付けろ(意訳)が掲げられており少し緊張。日本民俗学の柳田国男がそ始めの著書となる「後狩詞記」は、明治後半に訪れた椎葉村の狩猟について書いていたのを思い出したのでした。草むらに隠れてしまっている「民宿焼畑」の看板を見つけ、上の写真の道路を走っていると、少し大柄な犬が綱を付けずに正面から走ってきたのにはビックリさせられた(飼い主がクルマで後から追ってきた...)。

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椎葉村最大の集落にある鶴富屋敷のあたりが標高400メートル。そこから登って標高900メートルにある宿「民宿焼畑」に到着しました。クルマを停めた場所にも「世界農業遺産」と小豆色に白字で抜いた旗が谷から風を受けてたなびいており、平家の隠れ里であれば赤旗にした方がと思ったのですが、少し色味を変えて平家でないとしているのか シーd(ºεº;)

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玄関を開けて挨拶をしたところ、客間のある別棟へと案内を頂きました。そこでお会いしたのが椎葉クニ子さん、大正十三年(1924)に椎葉村生まれ、生まれてすぐはハナ子、それがトエ子となりクニ子に。10歳より親おこなう焼畑を手助け、若い頃に大阪で働いていた時以外は椎葉村にて焼畑を含む農業に従事。百町歩の大地主だった家の事、焼き畑や雨乞い/日和申しと、日が暮れるまでクニ子さんのお部屋で伺うことができました。山で育ったので、食べられる野草や土、薬になる草や各種保存食の作り方など豊富な知識をお持ちです。山作(焼畑)のお話しを伺った時の音声の一部がこちら↓

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椎葉家母屋の内部の様子です。鶴富屋敷と同じく部屋の奥に戸棚を並べて配した伝統様式。民宿焼畑に宿泊した人達が残したサイン色紙。平成十七年に伝統的焼畑農法にて椎葉秀行氏とクニ子さん夫婦が森の名手・名人とし認定された時の認定証も室内に飾られていました。

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その森の名人が営む民宿で頂いた夕食がこちらです。右上の目を惹く艶やかな一品は椎葉の郷土料理「菜豆腐」です。大豆は重要なたんぱく源でごちそうも椎葉では、少しでも嵩を増やすために野菜を入れたのだそうです。椎葉の豆腐は硬めにつくられ、昔は引き割って食べたのだとか。椎葉産の野菜6種の鶴富漬け、イタドリの酢漬け、ウドの三杯酢等もみな宿周辺のものばかりというお品書きでした。

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山菜の天婦羅、自宅敷地で養殖している山女の塩焼き。白米の隣りにあるのが郷土料理「わくど汁」。そば粉の団子が入った味噌汁です。民宿の切り盛りを実際にされている奥様にわくど汁のレシピを聞いてみたところ、「椎茸とイリコ出汁に味噌を加え、粗びきした蕎麦をゆるくこねて小分けにして投入。ネギと三つ葉をのせれば完成」だそうです。蕎麦団子が火をかけた鍋の中で上下する姿がわくど(カエル)の動きに似ていることより「わくど汁」との名前になったとか。

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夜が明けてすぐに宿周辺を散策してみました。民宿焼畑は西から東に水が流れる水無川の南側の山腹にあり、北を向いているので「日添」地区と呼ばれており、谷を挟んで南側を向く反対側は「日當」地区と呼ばれているそうです。椎葉クニ子さんは子供の頃に実際の「雨乞い」に参加したそうで、上述の白鳥山山頂近くの平家の人々が自害したと伝わる「御池」にまで登り、太鼓を叩いて歌ったというお話しを伺ったのでした。御池はその様な伝説があるので普段は近寄るべからずの禁足地でしたが、雨乞いの時だけは集落皆で山を登り、御池を掻きまわして濁らせると雨が降ったのだとか。

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民宿焼畑が育てている椎茸栽培の原木の脇を通って、白鳥神社(向山神社)に到達しました。この社は白鳥山にて自決した平家の落人達の御霊を白鳥の名で祀ったのが始まりで、自害した平家の兵の亡骸を見て源氏兵が追うのを止めた場所とも言われる「追手納」地区に日当地区、日添地区三地区の氏神様です。クニ子さんによると雨が止み、日が出るようにと柏手を打ち拝む”日和申し”がなされた場所だったそうです。

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更に坂道を登っていくと、クニ子さんの息子さんより場所を伺っていた焼き畑がされる”予定地”?を発見しました。焼畑は谷底から天を仰ぐように高く、日当たりの良い土地が用いられるのが常で、火を入れる日は椎葉村に限らず、枝や枯葉がよく乾くようにと晴天が3日程続いた夏日が選ばれるなど幾つか共通する条件があります。訪れた夏に焼畑予定日を聞くことができたので、家族を連れて再訪を検討しましたが、天候次第が気にかかり、その夏には奈良県の山奥・前鬼に実際は訪れたのでした。焼畑をする火入れ日は予定より3-4日延期されたと後日知り、やはり天候相手の作業を遠方に見に行くのは難しいものだと感じました。

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「これより焼畑に火を入れ申す。ヘビ、ワクド(蛙)、虫けら達早々に立ち退きたまえ。山の神様、火の神様、どうぞ火の余らぬよう、お守りたまい申せ」と唱え、お酒で場を清めてから火を入れるのだとクニ子さんより教わりました。現在はクニ子さんの息子さんが焼畑農業の伝統を継いでおり、毎年の焼畑をおこなっています。

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その土地の近くには過去に火を入れたと見られる焼畑跡もありました。焼畑はそれまで育っていた地上の植物を焼き払う事で整地を容易とし、その草木灰を土に混ぜ込むことで栽培生育を促します。また、土中の細菌等が死滅するので除草の手間を省くことができると利点も多いです。民宿焼畑では1年目に撒くのは蕎麦、2年目は稗か粟、3年目は小豆で4年間使ったら自然に返すと宿に張り紙で説明がありました。

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見晴らしの良い景色、白鳥神社と焼畑を見学した帰りに民宿焼畑の母屋に至る道の脇に山女を養殖している湧水池を目にしました。昨晩の夕食の卓にのぼった山女はここから来たのでしょう。上椎葉ダムより上流に位置する向山地区の水で育つ山女は美味しそうです。

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朝食の準備ができるまで母屋に飾られたものを拝見。秋篠宮文仁親王が椎葉村に平成21年に来村された時のクニ子さんとのツーショット写真(宿泊は竜神館だったとか)や、クニ子さんの夫・椎葉秀行氏が蕎麦畑で映る写真などなど。「原始ばばじゃけ、日本中(公演などで)歩いてけど、父さん(秀行氏)と韓国・釜山に一緒に行ったのが楽しかった」との、お話しを写真の前でクニ子さんより伺いました。

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民宿焼畑で頂いた朝食。稗か黍か?を混ぜたごはんだったかな。昨晩と同じく菜豆腐もありました。庭に山椒の木が幾つかあったのですが山椒は夕朝食には供されずでした。椎葉村の民謡で「ひえつき節」という歌があり、「庭の山椒の木 鳴る鈴かけて ヨーオーホイ 鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれ」と歌詞の出だしに山椒は出てきたりします。

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民宿焼畑の敷地内にある稗の保管庫です。日本では神代の時代より稗は主要穀物として育てられており、近代になっても寒冷地や山間部にて栽培が盛んにおこなわれていましたが、現在は岩手県南部で100町歩を下回るのみ生産されているのみ。稗は米と比較して生産効率は劣るものの厳しい環境下でも育ち、50年にも及ぶ保管が効く備えの作物でもありました。ここでも「ひえつき節」を歌いながら重労働である稗の殻取りをしていたことでしょう。

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 「これより撒く種は根太く、葉大きく、虫も食わんよう、一粒万倍、千両万俵おおせつけやってたもうれ」と、実りを願われ撒かれた三角の蕎麦の実が黒焦げした大地に根付き、白い花を咲かせていました。椎葉クニ子さんは自分の父方の祖母と近い年齢です。自分の祖母は結婚するまで村を一歩も出たことのない箱入り娘だったらしく、茨城方言が強くて孫の自分とも言葉での意思疎通が難しい程でした。母はそれで非常に苦労したと聞いた事があります。醤油、味噌、豆腐、酒はクニ子さんと同じく自宅で全て拵えていたと聞きます。元気いっぱいに喋る椎葉クニ子さんと接して強く感じたのは、そんな村内だけで育った祖母も先祖から受け継いできたものがあったと思うので、話しを聞いたり、各家庭で味が違うらしい豆腐の郷土料理等の手ほどきを受けておけば良かったと思ったのでした。