五稜星★を北極星にかざせ。国産ビールの黎明期とサッポロビール

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有史以前より飲まれていたと云われるビール。麦とホップ、水より醸造され、記録に残る最古の現役醸造所はドイツにあるヴァイエンシュテファン醸造所で現在から遡ること凡そ1,000年前の1040年にはビールを造っていたとか。茨城県笠間にある須藤本家が記録にのこる現役最古(1141年)の酒蔵なので、それより1世紀遡って醸造していたことになります。

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日本で初めての本格麦酒(ビール)醸造所ができたのは明治九年(1876)の夏。北海道開拓使の産業振興により製糸所/葡萄酒醸造所と共に札幌・創成川の東の広大な場所に設けられたのでした。「そうか、国内初のビール工場は本州でなく、北海道だったのか」と何かの雑誌で最近知ったのでした。蝦夷地を北海道と改称して、明治二年に札幌が本府となるも、人口もまだまだ数千人の小さな街。開拓使時代、明治二年から明治十五年の期間のことでした。f:id:tmja:20190306163055j:plain

薩摩藩士で後に北海道開拓使官吏となる村橋久成は英国に留学し、東北・函館戦争に従軍。あの五稜郭の榎本武揚と降伏交渉をおこなった経歴を持つ人物。明治七年に北海道初の屯田兵村・琴似兵村を立ち上げ、日本初の官営ビール醸造事業の責任者も担った人物でした。

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ビール造りに必要なホップが自生し、ビールの大麦育成にも適し、低温発酵用いる氷も入手しやすい気候の北海道。当初は開拓使のショールーム効果を狙い東京・青山に設置されるはずだった日本初のビール醸造所「開拓使麦酒醸造所」は村橋久成による嘆願により、道庁赤れんが庁舎から伸びる札幌通り(現在: 北三条通り)に建設され、現在でもその建物が札幌に残っています。左から旧仕込み室、汽機室、貯酒発酵室。

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その麦酒醸造所でビール造りの任を受けたのが越後国出身の中川清兵衛。16歳にて家を出され横浜のドイツ商館で勤務。死刑にあたる幕府の禁(海外渡航)を犯してイギリスに渡り七年を過ごした破天荒な人物です。揺籃から墓場まで毎日ビールの独逸に明治五年に渡り、商家で働いていたところ後の外務大臣となる青木周蔵に遭遇。北ドイツ留学生代表であった彼の勧めで当時ドイツで1番のベルリンビールで働き、日本人として初めてドイツの醸造技術を現地にて習得したのでした。

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ベルリンビールより中川清兵衛に発行された修業証書が残っています。「1873年より今日に至るまで、旺盛な興味と熱心さを持ってビール醸造と製麦の研究に精励し、その全部門にわたり優秀な知識を...」と羊皮紙には書かれています。その裏面には「有能にして勤勉な他国の一青年を教育しえたことは我々の喜びである。彼を送るのは忍びがたいが、前途に幸多かれと祈るものである」と結ばれていました。

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札幌の市街地の南北を貫く創成川。伏流水が豊富で冬場には氷が取れる川岸に近い場所に日本初の官名ビール工場は建てられました。中川清兵衛が学んだドイツのビール造りは下面発酵で、麦汁を摂氏10度未満に冷やし続けて発酵させる必要があります。なので、寒冷な土地でも更に冷却に用いる雪や氷な豊富な場所が最適だったのです。

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開拓使麦酒醸造所の開業時の写真が残っています。敷地面積3千6百坪、建屋75坪。生産能力は45キロリットル。現在の酒税法ではビール醸造が認められる最低限の60キロリットルを下回る、小さな、小さな蔵。積み重ねられた樽に書かれた文字を左から読むと「奈ふル者製ツ麦る酒とビすプとにゆイ連をホ」でチンプンカンプンですが、反対側の右から読めば「麦とホップを制す連者(れば)ビイルとゆふ酒になる」と書かれています。この記念式典の写真でビールは何かを見る人に伝えようと用意したに違いありません。

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開拓使長官・黒田清隆に宛てた書簡です。東京より大麦が到着したので明治九年(1876)9月21日にビール製造に着手した旨が書かれています。現在では当たり前すぎることですが、当時の捉え方は全く違い、農産物を加工し、製品として広く販売するのは近代的な産業そのものだったのでした。

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明治十年、北海道札幌にて醸造された初ビールが東京へ送られたことを伝える書簡。ビール製造歴がたった二年二ヶ月ほどの経験しかない中川清兵衛には、工場建設からビール完成までを指導をするのは荷が大き過ぎる事業だった筈です。醸造初年は運悪く暖冬であったため、仕込み開始が数ヶ月後ろ倒しになったり、酵母入手のために奔走したりと試行錯誤の繰り返しの日々でした。

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明治十年(1877)、第一号商品「冷製ビール」が開拓団シンボル・五稜星の付いた開拓使旗を掲げる船に乗せられ札幌を出航し、函館等の港を経て六月に東京に到着したのでした。ただし、残念なことに政府高官の手に届いた実際のビール便には肝心のビールが一滴も残っていなかったと云われています。コルクで締め付けをしていたものの、ビールの内圧で栓が飛んでしまい中身が吹き出してしまったのでした。 

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最も左が明治十四年「札幌ビール」、右側に沢山並んでいるのは明治十六年「札幌ラガービール」。開拓使の五稜星マーク★は札幌ビールのマークとして受け継がれて行き、現在のサッポロビールの製品にもその星を見ることができます。

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明治十年九月には早くも東京にて札幌ビールの販売が開始されました。1瓶16銭、現在の価値にして3,000円程。この値段は東京で販売されている国内外製ビールの最も安いビールが17銭であったための設定であったようです。ビール製造原価7銭2厘、氷代含む輸送費4銭7厘、瓶/コルク等4銭2厘...合計16銭1厘「(゚ペ)?   地元・北海道にはビールを購入する様な富裕層は多くおらず、東京の市場に輸送しなくてはならない事業は赤字操業を余儀なくされます。

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明治十年6月23日。東京での一般販売に先駆け明治天皇に札幌ビールが献上されました。また、明治十四年の明治天皇・札幌御幸の際には開拓使麦酒醸造所を御覧になり、重ねての所望(札幌ビール、もう一杯)を賜ったのだとか。また中川清兵衛は明治十三年に自らが修行したベルリンビールへ自社のビールを送り品評を求めました。その回答は「品質も良好で、ドイツ産に比べても少しも劣るところはない」でした。

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北方に迫るロシアに対抗するために、10年間で1,000万円の予算(最終的に2倍となった)で明治四年に始まった北海道開拓を担った開拓使。官から民へ移る時代となり開拓使麦酒醸造所は大倉組に払い下げられ、明治20年には再度所有者が変わり札幌麦酒会社と社名も変更となりました。これまでアルコール度数を上げるか、氷で冷却することで品質を保持していたビール造りは熱処理による殺菌という技術革新の大波押し寄せ、創業時よりビール造りに関わってきた中川清兵衛は押し流されるかの様に明治二十四年に醸造所より去る事に退職。

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100年続くビヤホールライオン狸小路店。庶民には高嶺の花だったビールも徐々に浸透していき、明治20年台にはビールの将来性を感じてか多くのビール会社が設立されました。明治初めは無税だった麦酒も、明治三十三年の北清事変を機に酒税が課せられ、小規模醸造所は負担に音を上げ、札幌(現サッポロ)、大阪(現アサヒ)、麒麟(現キリン)、日本(現エビス)と現在も残る大手が大きなシェア握っていくようになります。

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札幌の観光名所ともなっているサッポロビール園に立つ煉瓦造りの旧工場建屋。砂糖黍と並ぶ製糖作物ビート(甜菜)の製糖工場として明治二十三年に建てられたもので、明治三十六年に札幌麦酒会社が買取。昭和四十年までビールの材料となる麦芽が作られていました。札幌ビールは大消費地から遠く離れた札幌での製造に加え、東京工場(吾妻橋、現在のアサヒビール本社)を稼働させ、明治38年に他3社を抑えて製造量で首位に躍り出るまでになったのでした。

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 国内最大の市場のある東京圏では、街灯の明かりが初めて灯った明治二十年にサッポロビールの前身となる「日本麦酒醸造会社」が設立され、恵比寿ビールが明治二十三年に東京のビールとして発売開始されます。ドイツより醸造設備を輸入し、技術指導者を招き輸入原料で完成させたという当時の舶来信仰型ビール。Wikipediaを見るとその技術者の名前はカール・カイザーと皇帝の様な名前を持つ人らしいので興味を持ち、恵比寿にあるエビスビール記念館で聞いてみるも詳細不明との回答でした...。

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明治三十二年の夏、東京・銀座八丁目に日本初のビアホール「恵比寿ビール BEER HALL」が日本麦酒・社長馬越恭平の着想で開店。馬越恭平氏は旧三井物産にて生糸輸出業で頭角を表し、日本麦酒が経営難に直面した時に三井物産から派遣され様々な販売戦略で建て直しに成功した人物でした。煉瓦造りの建物の2階40坪と手狭な空間でしたが、グラスジョッキ1杯(500cc)で10銭で評判となり大変繁盛したそうで、上のビアホール模型には下戸の夏目漱石の顔も...。

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 明治三十四年には急増する出荷対応のために、貨物専用駅・恵比寿停車場が工場脇に設けられます。この駅は周辺人口が増えていくと旅客も扱う様になり、現在の恵比寿駅へとつながっていきます。それに由来してか、現在のJR恵比寿駅では恵比寿ビールのCMメロディ・映画「第三の男」のテーマ曲が発車メロディとして流れるのを聞くことができるのです。

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主要4社による激しい市場争いのなか、日本麦酒・馬越社長の豪腕にて札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒の合併話しが進められ、市場全体のシェア七割を持つ巨大ビール会社「大日本麦酒株式会社」が誕生。朝鮮半島にて朝鮮麦酒株式会社(現ハイトビール)を設立、中国山東省の青島ビールの経営権を得て東洋のビール王とまで呼ばれる様に巨大化の一途を辿ります。

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昭和十二年(1937)に日中戦争が勃発すると、戦時下でビールを含む品が配給制となっていきます。昭和十八年には製造会社に商標ラベルが廃止され、麦酒、用途、製造社名だけが記載されたものとなり、戦後の昭和二十四年(1949)までビール商標は姿を消すこととなったのでした。大日本麦酒は戦後の巨大企業/財閥解体を受け、西日本を基盤とする朝日麦酒(アサヒビール)と東日本を基盤とする日本麦酒に分割され、日本麦酒はエビスとサッポロの商標を継承します。

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日本麦酒は当初は新たな商標「ニッポンビール」で販売を開始したものの、旧名「サッポロ」を懐かしむ多くの声を受け、昭和三十一年にサッポロビールの商標を復活。ビール瓶には五稜星が大きく輝いていました。昭和三十九年には会社名を日本麦酒からサッポロビール株式会社へ変更。それから7年後にはサッポロビールからのエビスビールが発売と、少々あたまが混乱してしまいそうですが、サッポロ/エビスの両ブランドがサッポロビールから復活するに至りました。

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昭和六十三年、工場の周辺都市化が進みサッポロビール恵比寿工場の千葉県船場への移転&再開発決定により閉鎖。高級ビールと言えばエビスビールと同義で、ここで生産されていたエビスビールは国内の高級ビール市場をほぼ独占していました。平成七年には恵比寿ビール記念館、サッポロビール本社もその一角を占める恵比寿ガーデンプレイスとして開業し  多くの人が訪れる場所へと変貌を遂げました。

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サッポロビール札幌第二工場が平成十五年に閉鎖となった敷地には、サッポロビール博物館、サッポロビール園、アリオ札幌、北海道日本ハムファイターズ屋内練習場を含むサッポロガーデンパークが開業しました。こちらは必ずガイドブックに載る札幌観光で外せない名所となっています。

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日本で初めての日本人による国産ビール工場であった開拓使麦酒醸造所(サッポロビール札幌第一工場)も、最新設備を備えたサッポロ恵庭工場の完成を待って平成元年に閉鎖。他工場と同じく広大な敷地を利用しての再開発を受け、大型商業施設「サッポロファクトリー」となりました。サッポロビール北海道本社、在札ドイツ連邦共和国名誉領事事務所、そして此処には開拓使の五稜星★を掲げるサッポロビールの小さなビール醸造所「札幌開拓使麦酒醸造所」があり、当時と同じく酵母を荒濾過しただけの開拓使麦酒を造っています。