三毛別熊事件と石狩沼田幌新事件、人喰い熊に襲われた開拓地

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石狩平野の最北部にあたる空知地方北部は水田が広がる北海道の米所です。日清戦争が勃発した明治27年(1897年)に、沼田喜三郎翁が郷里富山県より入植したのがこの地・沼田の開拓の始まりで、稲作と炭鉱の町として大いに栄えました。上の写真は「沼田あんどん祭り」と呼ばれる夜祭で、立ち並ぶ屋台に派手な夜高あんどん、「ヨイヤサー、ドンドン」と威勢のよい声と太鼓の響き渡っていました。祭りの楽しげな雰囲気と賑わいは、現代も開拓時代も同じだったはずです。

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ここ沼田の開拓地において、大正12年(1923年)夏に日本史上2番目の被害者数となる死者5名を出した熊害事件「石狩沼田幌新事件」が発生しています。赤丸は自分が推測で比定した留萌本線・海老島駅から沼田ダムの途中にあった現場位置。この事件は残る資料が極端に少なく、ネット上でコピーが繰り返されている以上の情報がないかと新編沼田町史を入手し読んでみましたが、目新しい収穫はありませんでした。

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事件の発生した現地に真夜中にやって来ました!しかも、沼田あんどん祭りが終了してから...。クルマのヘッドライトを消すと平成の現在でも黒闇が広がる場所で、周囲を山々に囲まれた人ひとり歩いているのが見られない寂しい道。

およそ100年前の大正12年、沼田町恵比島地区で夏祭りが催されていました。娯楽の乏しい地で一時の楽しみを求め、近郊よりも多くの人々が祭会場を訪れ賑わいをみせていました。その祭りも夜中には終わりを迎え、会場から幌新部落に戻る一行8人に羆が突如襲いかかったのは、恵比島駅より4キロ程奥の幌新小学校(廃校)の近くの道を歩いている時でした。

f:id:tmja:20181001142842j:plain  記録には残っていないものの、この熊は既に人を襲い、人を食った事のある雄のヒグマだったと思われます。家路へと向かう列の先頭を歩いていた村田幸太郎(15)を闇夜のなかで一撃で撲殺。その兄・村田由郎(18)に重傷を与えた上で土に埋め(後に死亡)、幸太郎の腹部に食らいついたのでした。

不意打ちによるヒグマの攻撃を受けた一行は、慌てふためき近くの民家・持地乙松宅に逃げ込みます。銃を持たない農家で出来ることは限られ、玄関に篝火を焚き、囲炉裏の火を強めた上で、不穏な物音が屋外にしないかと耳を澄まし、息を殺してヒグマが来ない事を祈り続けていたのでした。

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家屋の周囲を徘徊して様子を伺う熊。先に襲われた兄弟の父・村田三太郎は玄関からの侵入を防ごうと必死に戸を抑えるも、圧倒的な力で戸を打ち破りヒグマは持地乙松宅へ侵入。目にも止まらぬ早さの一撃で村田三太郎に重傷を負わせ、その妻・村田ウメを咥えて屋外へ悠々と去っていきます。漆黒の闇夜のなかからは「助けてくれ」との叫びが何度か聞こえた後に、微かな念仏が暫く聞こえていたとか...。

この惨劇の話しは沼田中にあっという間に広まり、近郊の熊撃ち名人砂澤友太郎(彫刻家・砂澤ビッケ氏の叔父)をはじめ狩人達が集まりました。そのなかの一人、義憤に駆られた恵比島集落の狩人・長江政太郎は銃を手に取り、単独で羆退治をすると山に入るも、その後行方不明になってしまいます。

その翌日には幌新/恵比島の全ての男子を含む300名からなる熊討伐隊が結成されました。山に入り暫くした時に、最後尾を歩いていた上野由松(56)が突如現れた熊に襲われて死亡。その傍にいた折笠徳治も重傷。人間は弱いと見下した熊は更なる攻撃を討伐隊に加えようとするも、討伐隊による一斉射撃を受け凶悪たる大熊は討ち捕られたのでした。ヒグマは体長2メートル、体重200キロを越す雄熊で、近くには行方不明となっていた長江政太郎が変わり果てた姿で発見されました。討ち取ったヒグマの胃袋からはザル一杯の人骨と未消化の指が出てきたと言われています。

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道北の大河・天塩川の西側に広がる天塩山系の山々は、長い間ヒグマが統べる土地でした。この北の大地に「北海道」と和人が命名してからまだ150年しか経っておらず、開拓と称して人間が入り込んだのはたかだか100年程やそこら。石狩沼田幌新事件の8年前にあたる大正4年(1915年)、幌新地区より北に30キロほどの山中に入植した開拓地にて、史上最大の熊害事件「三毛別熊事件」が起きていました。

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日本海に面した苫前町は7キロ程北にある羽幌町と並び留萌管内の中心市街地です。ここの郷土資料館には日本最大級のヒグマ「北海太郎」の剥製が展示されており、ひと目見たく訪れてみました。北海太郎は昭和55年(1980年)5月6日、苫前町三渓の辻優一さんと大川高義さんの二人で羽幌町内築別の山で討ち取ったヒグマです。

偶然に二人の猟師と出会してしまった北海太郎は後ろ足の大きさ27センチ、体重は500キロを優に超える巨大熊。剥製を拵えた方の志向でか大人しい顔付きをしていますが、この北海太郎が獰猛な唸り声でも響かせようものなら、1歩も動けずに死の覚悟を決めるしかないと思わさせられる堂々たる体躯に目を見張ってしまいます。この記事の下から7番目の写真の熊は、平成になり近郊にて撃たれた体重400キロにも及ぶ巨羆です。天塩山系はこのクラスの大熊が現在でも徘徊しているのだとか...。

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熊がいれば、その熊を撃つマタギ(猟師) もおり、古丹別にある「とこやはどこやここや」という面白い名前の床屋さんのご主人は猟だけでなく漁もされる方です。既に日が暮れはじめていたので、三毛別熊事件の現場訪問から戻ってから髪を切って貰おうと決め、まずは先を急ぐことにしました。

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県道1049号(通称 ベアーロード)の一本道を山に向かってクルマを走らせて行きました。苫前町は農業が盛んらしく、道の左右に耕作地や牧草地が広がっており、田圃も多く見られました。米は南方を原産とする植物ですが、北国のこの地で稲穂が広がる光景はナカナカ壮観なものです。

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北海道天塩国苫前郡苫前村大字力昼村三毛別御料農地6号新区画開拓部落六線沢。略称・六線沢。日本海から内陸に15キロ程入った地に隣村・鬼鹿開拓地より15戸が入植したのは明治の終わり頃でした。山にわけ入り、鍬を大地に打ち込み、川沿いの六線沢に夢の新天地を切り拓くために原野・密林の開墾がなされていました。六線沢の地図(上図)の赤丸は入植者の家の凡その位置を示しており、手前側が上流、向こう側が下流(古丹別方面)になっています。

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現在ではアスフォルトで舗装された道路が整備されており、苫前の町から熊害事件が発生した六線沢までもひとっ走りですが、当時は川沿いの獣道が多少ましになった程度の小路で、町と呼べる苫前までは六線沢の入植地から徒歩で丸一日を要する僻地でした。

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人間がこの地に入るまでは正に自然のまま、数千年前よりの先住者たる蝦夷鹿、狐、兎等の住処で、ヒグマがその領主として長く君臨している土地でした。ここは俺の領地だと言わんばかりに現在も羆の傷跡が木々に残っていたりします。

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「土壌豊かで、秋には鮭が川を埋め尽くす」との甘い言葉に乗せられて辺鄙な地へやって来た入植者達の生活は厳しく、住む家も草囲いの掘っ立て小屋で入口は筵が下げてあるだけの簡素なものでした。もちろん風呂等はあるはずなく、冬にもなれば冷下20度の極寒の地で、家族みんなが寄せ集まり、夜通し囲炉裏を炊き続けなくては寒さを凌げない程です。

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大正4年11月初め、軒に吊るしたトウモロコシが動物に食われ、大きな熊の足跡がその近くに残ってるのが発見されたのは開拓集落の最下流にあった大川宅そばでした。繰り返しヒグマがトウモロコシを目当てに来るのに困った家主は、地元の猟師・谷善八と金子富蔵 に駆除を依頼します。

二人の猟師と共に家主の大川与三吉が息を殺して待ち伏せをしていると、身の丈2.7メートルもある大熊が目前で立ち上がりトウキビに食らいついて来ました。狙いすまし発砲した弾はヒグマの身体に命中するも、山へ逃げる熊を取り逃してしまいます。ヒグマは秋の飽食で分厚い皮下脂肪を蓄え、12月頃までには冬眠するのが常ですが、六線沢に現れたヒグマは自然の節理である冬眠の機会を逃した「穴持たず」だったと言われています。

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最初の惨劇が起こった太田家があったと思われる場所です。大正4年の12月9日午前10時頃、六線沢に現れたヒグマは太田家に突如乱入し、家中にいて小豆の選別をしていた蓮見幹雄(6)を咬殺。また、阿部マユ(34)を近くの林中に咬み去り殺害し食害に到りました。ヒグマは此処に至る前に既に3人の女性を襲っていると見られ、太田家へは初めから人を獲物と認識した上での襲撃でした。ヒグマは少なくとも、この日には人肉の味を知る人喰い熊となったのでした。

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30名からなる阿部マユ救助隊が翌朝結成され、太田家より150メートル程山に入ったところの椴松の影で、待ち構えていたヒグマの急襲を受けてしまいます。襲い来るヒグマに怯え四方八方に人々が逃げ惑うなか、猟師・谷善八が発砲。その銃声にヒグマは山中へと消えてしまいます。ヒグマの居た場所には行方不明となっていた阿部マユの遺体の一部だけを発見し回収。

太田家ではその夜、蓮見幹雄と阿部マユの二人の通夜が営んでいる最中に、自分の獲物を奪われたと激怒したヒグマが居間の壁を突き破り再度乱入。狭い家屋のなかでパニック状態となった参列者9名のうち一人が発砲し、ヒグマは棺をひっくり返す等室内を荒らすも、"獲物"を取り戻すことなく逃亡していき、奇跡的に被害者をださずに済んだのでした。

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二番目の惨劇が起こってしまった明景家跡地付近。太田家にて通夜が営まれていた晩は、上流から6軒目にあたる明景家には斉藤家(上流から2軒目)より3名が避難していました。家の主・明景安太郎は所用で開拓地にはおらず、護衛を務めるはずの者が太田家での熊再出没の報を受け出動している中、女性・子供ばかし10名が熊に怯えながら、寒い冬の夜を過ごしていたのです。

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ヒグマが太田家を再度襲ってから20分と開けずに今度は明景家を襲撃。火を囲みながら恐ろしい熊の噂話しをしていたとろ、家外に不穏な雰囲気が...。身重の斎藤タケは手頃な火のついた薪を持ち、「こんちくしょう!!」と叫びながら熊を力一杯に叩くも、獰猛な熊は斎藤タケ(34) 及びお腹の中にいた胎児、斎藤巌(6)、斎藤春義(3)を次々とその鋭い爪で殺害。明景ヤヨ(36)は背負っていた梅吉(1)共々に熊の噛み付きを受けるも、ヒグマが余所見をした機を見て子供達を連れて脱出しすることに成功。明景家で起きている事が彼女により村に伝わったのでした。

骨を噛み砕きながら、肉を食む音が響く明景家を救援隊50余名が包囲。空に向かって鉄砲を放ちヒグマを屋外に誘き出すも、猟師達の鉄砲の不発にて再びヒグマを撃ち損じてしまう失態を晒してしまうのでした。ヒグマに噛まれながらも生き残った赤子・明景梅吉(1)はこの時の後遺症で2年8ヶ月後に亡くなります。彼をこの熊害事件の被害者として数えるならば、その犠牲者は七名でなく八名となります。

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六線沢での惨事は瞬く間に外界知るところとなり、北海道庁は管轄する羽幌警察分署へ巨熊の討伐を指示。六線沢の開拓民全家は更なる襲撃を恐れ、夜の山中で列を成して皆下流の三渓神社となりの三毛別別分教場へと避難していました。

自分の獲物に執着する熊の習性を利用して、11日の夜には明景家で犠牲となった遺体を囮にして熊討伐を図ろうとするも、用心深いヒグマは家の周囲を彷徨くばかりで逃げられてしまいます。この後、川の右岸にあった無人の家々はヒグマの侵入を受け、家畜を喰い殺され、ニシン漬け等の保存食を荒らされると略奪の限り尽くされていました。

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射止橋の上から大川家があったと思われる場所の眺め。12日朝には270名、鉄砲60丁、アイヌ犬よりなる熊討伐隊が結成され、開拓集落の最も下流に位置する大川家に熊討伐隊本部が置かれました。

少し脱線してしまいますが、北海太郎が展示されていた郷土資料館の係の方は大川家の親戚筋だそうです。また、この家にいた大川与三吉の三男・春義は巨熊との衝撃的な血腥い事件を現地にて見聞きし、齢六歳にして「将来マタギとなり、殺された人一人につき熊10頭を討ち取ってやる」と誓ったと言われています。

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13日朝に本部前に姿を現したヒグマを氷橋付近にて発砲。翌14日には雪の上に発見された血痕を辿りヒグマを討伐隊が氷を踏んで進軍を開始。山の頂上付近にて、討伐隊が迫るのに気をとられているヒグマを熊撃ちの名手・山本兵吉が背後から心臓に一発、頭に一発を放ち巨熊を遂に倒したのでした。金毛で身の丈十尺、大きな頭を持つ体重340キロの大熊だったと言われており、その骸は三毛別の地に埋めたとも、肝や毛皮を金銭に替えて被害者家族の救済に充てたとも言われています。

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そのヒグマを討ち取った山は自分の様に物見遊山で、現地を見ようとして地主に無断で入山しようとする不届き者が多いのか、「入山禁止」の立札に加えて「はいって死んでもしらない」や「はいったら100万円もらう」等の立札がありました。早朝と夕方は熊の活動時間にあたり、木に残る熊の爪傷を見たばかりの自分には恐ろしく感じられ、例え100万円を貰えてもお断りだと思っていました。

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射止橋より最寄りの町・古丹別方向へ2キロ程戻ったところに三渓(三毛別)神社があります。事件当時に六線沢の多くの人々が避難していた分教場はこの傍にあり、その跡地に建つ三渓小学校(廃校)の校舎や門柱等は現在でも見ることができました。

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熊討伐隊本部にいた六歳の大川春義氏はヒグマを強く憎み、犠牲者のために立てた請願「1人につき10頭の計70頭をもって仇討ちをする」を実行するために、生涯で300頭、三毛別羆事件のヒグマも葬った猟師・山本兵吉に師事します。大川氏は大願としていた70頭を達成した後にも熊撃ちを続け、68歳の時に銃を置くまでに計102頭目のヒグマを討ち取りました。

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大川春義氏はその後、人喰い熊の犠牲となった開拓民七名の名前を刻んだ「熊害慰霊碑」を地元住民共に三渓神社の境内に昭和52年に建立。昭和60年に三渓小学校でおこなわれた三毛別羆事件の70回忌法要で、壇上に立った氏は数語を口にすると卒倒してしまい亡くなってしまいます。その日は70年前に阿部マユ、蓮見幹雄の2人がヒグマに襲われて死んだ12月9日でした。

不遇にして三毛別羆事件の目撃者となり、生涯を熊に捧げた大川春義氏の息子・義高氏(故人)も父と同じく鉄砲撃ちとなり、 北海太郎を初めとする数々の熊を撃つ人生を歩みました。大川親子二代で使用した狩猟刀は二人とも猟に出て、共に熊を撃った古丹別の理容店「とこやーどこだここだ」の主が受け継いでいます。

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100年前に尊い七名の生命を奪った三毛別熊事件。この地はその惨たらしい熊害事件が収束した後、入植者達はひとり、またひとりと離れていき、六線沢開拓地は下流から2軒目の辻家を除き皆無人の地となってしまいました。

六線沢を抜けて、辻家のそばにある射止橋あたりまで下ると農地が現れ初め、開拓時代から続くであろう稲穂がたなびく風景が山間に広がっていました。そして、その背後には人々がこの沢に足を踏み入れる前から既にあった山々が横たわっていました。

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北海道の資料を見ると平成元年から26年までで、羆による死亡者は14名、重傷者が20名の合計34名。そのうちの7割が本州ツキノワグマとの事故と同じく春秋の山菜・キノコ採り時に熊と遭遇してしまった事故で、そのなかには報道文から判断して食害の被害を受けたと思われる事故も含まれていました。津軽海峡を越えたツキノワグマの生息地・本州では、秋田県で近年連続発生した食害事故の様に現在進行形の事故もあり、"人喰い熊"の事件は明治大正の昔に起きた遠い話しだけではなく、現在も続いています。

ネット上の記事で「人喰い熊に会わないために、こんな道具を持っていこう!!」という内容のページを偶然に目にして、妻と二人で「おいおい、道具以前に人喰い熊がいる可能性のある山に入るなよ」と相手のいないツッコミをしていました。その後に突如としてクマに興味を持ち初め、マタギの家や宿に泊まったり、猟に同行させて頂いたりと少しづつですが熊のことを学び始めています。今回は熊害史上で突出した被害者数を出すに至った悲劇、沼田幌新事件と三毛別羆事件がどの様な土地で起きたのかを自分目で確認したくなり訪れてみました。