氷川女体神社・祇園磐船龍神祭に参加させて頂きました - 娘編

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前回の息子編の続きになります。さいたま市東部に広がっている見沼田圃は、今年まで40年間続いた政府の減反政策を受けて水田は減り続け、多くは畑作へ転換するも、昨今では農業の後継者不足により荒地も見られるようになってきております。この地は縄文期より海/沼が広がっていた水の豊かな土地で、江戸時代におこなわれた新田開発のための干拓事業にて農地へと大きく姿を変えた場所でした。

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その見沼の水利権と漁業権を持ち、太古よりこの地で強い影響力を持っていた氷川女体神社にて、5月におこなわれた「祇園磐船龍神祭」に少し参加させて頂いた話しの後編となります。この祭りは古くは「御船祭」と呼ばれ、神霊を神輿に載せた船を御沼中央に漕ぎだし、その自然の恵みへの感謝を表す儀式でした。江戸幕府の厳命にて見沼を埋め立て農地とした後には、「磐船祭」とその名を替え、陸地に特別に設けた祭祀場にて同様の儀式を続けていました。

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出典:さいたま市 氷川女体神社神輿(室町時代)

 その祭りも明治には途絶えてしまい、近年になり有志の方々の尽力により「祇園磐船龍神祭」と呼び名も新たに再興された経緯を持ちます。息子編にて現在の祇園磐船龍神祭には否定的なニュアンスの文を書き並べました。住処より追い出した龍神は戻らない、人の拵えた龍神を祭神としている、山門に打ち付けて幽閉している龍神を呼び出し、その龍神を祭祀場に呼び出し神事をおこなう等々...。

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氷川女体神社、国昌寺、この龍神祭の再興にあたった方々もその様な事は百も承知で、新しいかたちの祭りで協力する事に同意したのだと思います。国昌寺は打ち付けられている龍を解き放つことに、氷川女体神社は龍神の怒り鎮めるために儀式を行う事に意義を見いだしているのではないでしょうか。そもそも、国昌寺と女体神社の伝承は本来別々の話しであった筈で、新しい祭りにて龍神を模した像が国昌寺を出発して女体神社へと向かうのは偶然に過ぎないはずです。

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氷川女体神社のある三室の地及び氷川神社には縁もゆかりも我が家は有りませんでした。妻が何処で話しを得てきたのか、五月に開催される祭にて娘が巫女舞を奉納することになり、ほぼ毎週の様に三室の氷川女体神社へと通って巫女舞の稽古をする日々が始まりました。前編にあたる息子編より細々とした昔の話しを書いたのは、氷川女体神社の神事に娘が参加すると言うので、その由来に興味を持ち、娘の送迎の合間(稽古時間)に周辺を散歩した結果です。

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この空中写真はさいたま市東部を映したものです。西北にあたる左上より氷川神社(主祭神 須佐之男命)、中氷川神社(主祭神 大己貴命)、氷川女体神社(主祭神 奇稲田姫)と一直線に並んでおり、一番右下の「御船祭跡」と書いた場所(現在の芝川調節池)は見沼に水が溢れていた時に四本の竹を東西南北に立て祭事をおこなった御旅所だった場所です。

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ここは昭和三十三年(1958)に千人近い人命被害を出した狩川野台風を契機に、将来の洪水対策の遊水池として1979年着工した場所で、江戸期に干拓した場所を再度水辺へと戻した土地です。その工事中に790本の竹が出土しました。四本竹を立てての祭事を2年に1度おこなっていたと考えると、御船祭りは少なくとも200回(400年)近くは続いていた筈です。

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祇園磐船龍神祭りの当日に国昌寺から龍神様を掲げ、息子と共に祭祀場へとご案内した後に娘と妻が巫女舞の準備をしている社へ向かいました。この日は男子禁制(巫女舞を踊る他の子供達も着替えをしている)と言うことで、スゴスゴと神社から戻る時に祭場のある方面を階段の上から撮った一枚です。祭祀場は階段下から続く幸道の先にあり、その沿道は木々が芽吹く新緑が眩しく、好天に恵まれた一日でした。

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上の写真はとある稽古日に訪れた静かな祭祀場の姿です。20間(36m)の土壇場の築山の周囲に10間の池を巡らせており、女体神社が干拓事業を前にして幕府に願い出た嘆願書の内容とほぼ一致します。池を御沼に、築山を御船と見立てた島内に祭祀場が三百年ちかく前に神域として設けられました。

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神社より石段降り、神主・巫女の行列(稚児衣装の我が家の娘含む)が両脇に並ぶ見物客の間を通り祭祀場まで来ました。完璧にこなさなくてはと儀式を前にして極度の緊張状態にある娘を宥め、励まします。石段の階段で転ばないかとサポートし、午後になりグングン気温が上がるなかで暑いと騒ぐ娘のご機嫌を取り続けていたので、式が始まる迄の写真は一切有りません<(; ̄ ・ ̄)   滅多に見る機会もない、本物の釵子と日陰の糸を纏う女神主の姿を目にするも、写真も撮れず見るだけでした...。

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この日は「朝日舞」を奉納いたしました。この祭祀舞は本来は神職である男性が舞うのを本旨とする勇壮な舞ですが、続く巫女しか踊らない「豊栄の舞」と違い、女性が踊る姿を各地の神社でも目にします。うちの娘も花を挿した天冠を被り、依り代の榊を掲げ、囃子と周囲の舞人の調子に合わせて一生懸命に踊っていました。

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一首目「さしのぼる 朝日のごとく さはやかに もたまほしきは 心なりけり」は、空高く昇っていく朝日のように,いつもすがすがしく,明るくさわやかな心を持ちたいとの意。二首目の「目に見えぬ 神にむかひて はぢざるは 人の心の まことなりけり」は、目に見ることのできない神に向かい、恥ずかしくない心境というものは誠の心であるという意で、共に明治の大帝・明治天皇による御製の歌詞です。

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続く「豊栄の舞」は前の朝日舞と共に、大戦終結後すぐの昭和25年に神社本庁によって制定された祭祀舞です。雅楽の名曲と言われる越天楽の旋律にあわせて、羽織・緋袴の巫女装束の2人が舞う姿は優美で、「しら雲の かからぬ峰こそ なかりけれ」と見ているだけで清々しい気持ちになりました。

豊栄の舞の歌詞は「あけの雲わけうらうらと 豊栄昇る朝日子を 神のみかげと拝めば その日その日の尊しや」と、「地にこぼれし草の実の 芽生えて伸びて美しく 春秋飾る花見れば 神のめぐみの尊しや」の二首です。その二節目は特に自然の力強さと恵み讃える歌詞となっていて、龍神様の御心を慰めし、感謝の意を表すに相応しい奉舞だと感じられました。かしこみかしこみ白す<(_ _)>

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そのあとの幾つかの行事を終え、クルマに乗って帰路に着くところで急な雨が降ってきました。その雨は通り雨だったらしく直ぐに降り止み、雲間から眩しい陽光が刺してきました。クルマの後部座席から「龍神様がお帰りになったかな」と妻が娘に話しかけているのが聞こえてきました。