氷川女体神社・祇園磐船龍神祭に参加させて頂きました - 息子編

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手前に流れるのが奥秩父に源を発する荒川。その向こうには平成十三年(2001)に大宮、浦和をはじめとする都市合併により誕生した人口130万人を有する「さいたま市」が広がる街並み。隣県である東京に産まれるも埼玉にあまり縁がなく、大宮と浦和のどちらが東京に近いかを自分が理解したのは埼玉県で育った妻と結婚をしてからでした。その埼玉県(旧武蔵國)の一宮と称される「氷川女体神社」にて、5月に催された祇園磐船龍神祭に少し参加させて頂いた時の話しです。

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上の空中写真の中央上が周辺と比較して緑に覆われた地帯になっているのが見えるかと思います。此処はむかし見沼と呼ばれた広大な沼地地帯で、江戸時代初期におこなわれた利根川東遷/荒川西遷の副作用で発生した下流域の水不足を解消する為に、見沼に流れ込む水を堰き止めて巨大な貯水池・見沼溜井が造られた場所でした。上の写真は現在の芝川調節池(92.3ヘクタール)で、見沼溜井のあった場所の南端にあたり、寛永六年(1629)に造られた見沼溜井はこのような風景が広がっていたと思わせられる姿が見られます。

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その見沼溜井の大きさは1,200町歩にもなり、現在の日光中禅寺湖や信州諏訪湖に近い大きさあったそうだとか。江戸時代中期の八代将軍吉宗がおこなった「享保の改革」の新田開発奨励にて、この巨大な溜池は全て干拓されて農地となり、現在の通称「見沼田圃」へとつながっていきます。

今回の龍神祭り舞台となる氷川女体神社は、その江戸時代に干拓された見沼の耕作地の目の前に建つ古社です。この地は出雲より入植した人々がはじめ開拓した地で、氷川女体神社の由緒書によると第10代崇神天皇の御代に杵築神社(現在出雲大社)より祭神・奇稲田姫を勧請をしたと書かれています。年初に天皇陛下が遥拝される神社のひとつ・氷川神社の御祭神である須佐之男命と奇稲田姫は夫婦であり、その氷川神社も干拓される以前は見沼のほとりに鎮座していました。

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農耕と水に関連するところで祀られる事の多い 龍神は、この地でも人々崇敬を集めていました。見沼は田畑を潤す水源なだけでなく、鮒や鰻等水産物も豊富で人々は太古より沼の恵によって生かされて暮らしてきたのです。この沼には見沼の主たる龍神が棲んでいると言い伝えられ、この龍神への感謝の意を表す祭りが長く執り行われきました。

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氷川女体神社のある場所は三室と呼ばれています。女体神社から程近い場所に「武笠」の性を持つ人達が多く住まわれている地区があり、武笠氏は天日稲命を祖とする氷川社の神官家の一員で長い歴史を持っています。氷川女体神社の由緒書には武笠氏の祖先は白鳳四年(664)に足立郡の国造となったとあり、国造は中央から派遣されたのではなく、旧来より在地にて勢力を持っていたものが選ばれていたと考えると奈良時代より以前より三室の地にて勢力を誇っていたようです。

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氷川女体神社から西へ10分程に歩いたとこに縄文時代中期〜晩期の集落跡の馬場小室遺跡跡があります。出土品より数百人の人口持つ集落がある場所だったらしく、2,600年も間手付かずの状態で近年発見されました。その遺跡の麓には氷川女体神社と同じく奇稲田姫を主神とて祀る祠が控え目に鎮座しており、蜂の攻撃を躱しながら中覗くと武笠氏奉納の絵馬が多数見えました。ここは遺跡のある小室山を祀る、氷川女体神社の奥社にあたる場所だと思われます。

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氷川女体神社にやって来ました。江戸時代後期に描かれた「江戸名所図会」に載る三室村・元簸河神社は現在の氷川女体神社に当たります。江戸名所図会の解説を読むと元簸河神社は三室山の南麓にあるとの記述や、見沼を背にして氷川神社、もしくは小室山を遠拝するかの様な配置と不思議に思える事の多い神社ですが、今回は龍神祭りメインなので割愛!

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社殿の北側に竜神社がありました。急激に増え続ける江戸の人口を養うために開始した見沼の干拓事業。先祖代々に渡り恵みを施してきた見沼の主たる龍神は、「人間は己さえよければ、 沼の生き物はどうでも良いのか!?」と怒りをなし荒れ狂い、牛久沼や印旛沼方面へ飛んで行った話しが残っていたりします。

住処を奪われ、お怒りになった龍神がこの地に戻って来るはずはなく、見沼への感謝を捧げることから、その怒りを鎮めて頂くと氷川女体神社の役割は江戸時代で大きく変わったはずです。竜神社には人間が自ら拵えた「龍神」が保管されており、中を覗くと祭神である龍神を暗闇に見ることができます。この龍神様がこの日の祇園磐船龍神祭の主役です。

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上の地図は昔は沼であったであろうと思う高さまで水位を上げて再現をしてみました。左側の赤マルはこの日の祭祀場で、その左にある緑の敷地が氷川女体神社のある場所です。まさに見沼の目の前に昔もあったことが窺えます。「龍神」は沼の反対側にある国昌寺(右赤マル)より出発し、現在は耕作地なった芝川沿いを練り歩き、住宅地を抜けて氷川女体神社前の祭祀場に至るまでがこの日の練り歩きコースです。

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出発地の国昌寺の山門には見沼に住んでいた龍が作物を荒らすので、江戸の名工・左甚五郎に龍を欄間に彫ってもらい、釘づけにして門に収めたとの伝説があるのだとか...(>_< )  もし閉じこめた龍が見沼の主でだと考えると複雑な思いになってしまいます。この閉じこめた龍神を年に一度解き放ち、元見沼を挟んだ対岸へと誘うのです。

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そして、こちらがゴールになる氷川女体神社の祭祀場。女体神社は太古より続く「御船祭」と呼ばれる祭事がありました。神主以下、神事に興かるものは荒川で禊をおこない、神霊を神輿に移し船に載せ、湖の中央で四本の竹と注連縄によって造った斎場に漕ぎだし、餅・米・御酒、神主による祝詞、御神楽を奉じた後に神霊を社に戻すのが一連の儀式でした。

見沼の干拓により、この御船祭ができなくなった氷川女体神社は享保十二年(1727)に神主・武笠宮内により干拓地の一部に祭祀場を設ける許可を幕府に求め許可を得ます。御船祭りで使用した神船も、村人の漁をする小船も、満々とした御沼もなくなった地にて、享保十四年九月、船上でなく、盛土を固めた柄鏡型の地にて「磐船祭」が執り行われたのが目の前の祭祀場です。江戸から明治になり磐船祭が絶えていたものの、さいたま市が誕生した時に「祇園磐船龍神祭」として有志の方々により再び復活したのでした。

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国昌寺に息子と自分にジジババの三世代でお昼前に到着! 子供を龍神の担ぎ手にしたいと思い、既にこのお寺には2回訪れていたので3度目の訪問でした。竜を閉じ込めている"開かずの山門"の前には見覚えのある住職が、門前に設けられた祭壇の前で読経を開始していました。山門の内側を覗いてみると、二柱の龍神が春の暖かい陽射しのなかで、ゆらゆらと蠢いているのが見えました。

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読経が終わると山門が開け放たれ、龍玉を持つ人を先頭にして2柱の龍神様が門を通って出て来ます。龍玉は太陽の象徴とも言われ、水神である龍神とあわせて農業に欠かせないものです。この龍玉と二柱の龍神が元見沼の耕作地を練り歩いて行きます。

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竜神と入った法被を着る担ぎ手達の最後部でチャッカリ参加している息子。国昌寺には2度訪れていたのですが、一度目はご住職が不在、二度目はお会いできるも龍神祭は国昌寺主催でないので、管理団体に問い合わせをして欲しいと言われていたのでした...。それで自分の熱が冷めてしまい放置していたのですが、この手のことに強運を持つと自負する我が家の子供は、いつの間にやら確りと参加する場所を得ていたのでした。

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この辺りは江戸期の干拓時に造られた見沼代用用水路が流れる「さいたま緑トラスト1号地」のそばです。この祇園磐船龍神祭は何の為の祭りなのかチグハグな印象を自分は受けてたのが正直な気持ちですが、龍神様を緑のトラスト活動地にご案内して、緑の保全活動をご覧になって頂く事には意味があるかもと思いました。

この近辺は梟や大鷹等の猛禽類も見られ、バズーカ砲の様なカメラを三脚で構える人達が普段いる場所です。見沼の田園風景を長閑に練り歩いてゆく二柱の龍神に恐れをなしたのか、この日はそれら猛禽類を目にする事できませんでした。

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地元で採った藁で拵えた龍神様を中央にして、三柱の龍神を並べての記念撮影でした。右の龍神は宿ふじ会、左はさいたま竜神まつり会が作成したもので、うちの息子が担がせて貰った左の龍神様は2008年に披露された長さ125メートルの龍の1/10スケール版だと教えて貰いました。ギネスブックにも載った125メートルの龍神は膨らませるのに数十万円分のヘリウムガスが必要なので、長い眠りに現在も着いているのだとか...。

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見沼の耕作地をユラユラと、街中でもユラユラと龍神様が女体神社へと還幸されます。この龍神像ですが持ってみると横風に弱く、抑えているのにも結構な力が必要でした。二柱の龍神様の唯一の子供担ぎ手だった息子は周りの方々にチヤホヤされ、写真を撮られたりで気分が良かったらしく絶好調でした。JCOMの取材が祭りの取材に来ていると知り、龍神を担いでいればTVに出られると思ったらしく満面笑みでカメラ前を通るも、放映された映像には妻と娘だけしか映っておらずで打ん剥れた後日談もあったりします。

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龍神の顔部分が結構な大きさで、国昌寺の山門では御顔を横に倒して通ったり、耕作地では横風に煽られたり、祭祀場へと向かう沼の上の小道では木の枝に当たらないようにと押さえつけたりしながら目的地に到着。国昌寺から氷川女体神社までの1キロ程の道程を飛び入りで参加させて貰い、二柱の龍神を祭祀場に安置するまで一緒に歩かせて頂き感謝ばかりです。ここらで今回の息子編はおしまい。次回は祇園磐船龍神祭ー娘編へと続きます。