北海道で1番小さい村・音威子府にある砂澤ビッキ記念館を尋ねて

f:id:tmja:20180903153943j:plain

北海道の彫刻家・砂澤ビッキ(砂澤恒雄)氏のことを知ってからだいぶ月日が経ちました。三国志に出てくる虎の髭の張飛、もしくは夷酋列像で蠣崎波響が描かいた国後のツキノエの様な魁偉な風貌に先ず興味を惹かれ、その大きな手で産み出されるモダンで原始的な彫刻作品に驚かされたのでした。

f:id:tmja:20180903153957j:plain

その砂澤ビッキ氏が眠るお墓が旭川にあると耳にして、とある平日に旭川市営旭岡墓地に立ち寄ってみました。アイヌ様式の墓標と並んで本州で多く見かける角石の墓石があるも、この明治38年に開園した墓地に眠るのはアイヌの血を受け継いだ人のみなのだとか。昭和のユーカラの伝承者だった杉村キナラブック女氏もこの墓地に眠られています。

f:id:tmja:20180903154003j:plain

砂澤家は和式の墓石なのかと思いきや、墓誌が前面に置かれていました。その後ろに3本は「クワ(杖)」と呼ばれるアイヌの風習に習ったもので、死者が先祖のもとまで辿り着く案内を担うのだと本で読んだ事があります。砂澤ビッキは昭和6年(1931)に父・砂澤市太郎と母・ベラモンコロの間に旭川で産まれ、戦後の木彫の先駆者として大きな足跡を残し、1989年に若くして亡くなったのでした。

f:id:tmja:20180903154023j:plain

旭川市から北へ120キロ。日本で最も寒くなる豪雪地帯で有名な名寄、美深と越えたところに音威子府(オトイネップ)村がありました。道北を流れる大河・天塩川の流れる谷間にある北海道で唯一人口が3桁のちいさな村です。

f:id:tmja:20181023175713j:plain

音威子府村の面積は276.5km2で人口は僅か770人。大阪市の面積と比較すると大阪市は音威子府より2割ほど小さい223km2であるものの、その人口はと言うと269万人が住んでいます。人口密度で比較すると大阪市の12,063人/km2に対して音威子府村2,78人/km2と4,000倍以上にもなります。

ちなみに国内で人口密度トップは東京都・豊島区で22,887人/m2。人口が強制的にゼロ人となっている福島原子力被災地を除く最小は福島県・檜枝岐村で1.48人/km2....( ゚д゚)

f:id:tmja:20180903153930j:plain

我が家にも砂澤ビッキ氏の木版画が一枚あり、BIKKYと書かれたサインをどうしてか「ビッケ」と読み間違えて記憶をしたままで、音威子府村にある「エコミュージアムおさしま」までクルマを走らせてきました。稚内に向かう国道40号線脇に掲げられた看板に「砂澤ビッキ記念館」と書かれているのを見て、橋の上でハザードランプを出して停め、歩いて戻り2度見をしました。この日にスマホで撮影した墓誌の写真を見直してもビッキと書いてある...。

f:id:tmja:20180903154053j:plain

国道から脇道に逸れて天塩川を渡ると、のどかな筬島集落に入って行きます。ここは宗谷本線の筬島駅前へと続く道です。筬島駅は利用者がほぼゼロな為に存続が危ぶまれていますが、かつては数百人の集落で明治期に建てられ小学校(昭和53年に閉校)もあり、子供達の遊ぶ声が響き渡っていた時期もあったのだとか。

f:id:tmja:20180903153932j:plain

名前を勘違いする程なので察しの通り、自分はあまり砂澤ビッキ氏のことには詳しくありません。何度か企画展で作品を見た事と、だいぶ古い本ですが、武田泰淳著の「森と湖のまつり」に登場するアイヌ復興を目指した主人公の青年のモデルがビッキ氏だと知り読んだ事があるぐらいの予備知識だけで訪れたのでした。

バイクで来ていた若い兄ちゃんが駐車場にいたので話し掛けると、建築を学んでいると分かり、写真に映る緑の蒲鉾型の物置場所には講堂が昔はあった(現在はアトリエ兼倉庫)等を教えてくれ、たまたま来られていたオーナー?に紹介をしてくれたりして貰えました。

f:id:tmja:20180903153914j:plain

f:id:tmja:20180903154032j:plain

この赤い屋根の木造建築の校舎が砂澤ビッキ記念館/アトリエ3モアで、昭和53年より砂澤ビッキ氏が旧筬島小学校をアトリエ兼住居として晩年10年を過ごした場所です。正面玄関の上には馬蹄が並べられており、更にその上には小学校の校章と思われる雪囲いにフクロウの図が見られました。音威子府村の村章が"音"の一文字を雪囲いしたモノなので何か関係があるのかも知れません。

f:id:tmja:20180903154043j:plain

元小学校であったことを彷彿とさせる「ちりとり」や「ほうき」掛け。音威子府村で現在唯一の音威子府小中学校の全校生徒ですら現在は26人と少なく、全校生徒数が1,000人を越すマンモス小学校に通って自分には想像だにできない規模の小ささです。自分が半袖半ズボンで通っていた小学校は1クラス40人 x 5クラス x 6学年 = 1,200人規模。息子が現在通っている小学校は1クラス30人 x 3クラス x 6学年 =540人。このような僻地と呼ばれる学校を子供達見せてみたいものだと思いました。

f:id:tmja:20180903153911j:plain

入口に入ると小学校の面影は見えなく、元廊下だった場所出ました。筬島の森林で収録した音が天井から流れる、木材を多用した「風の回廊」と名付けられた通路です。右壁に飾られている畳一条ほどの大型な木製看板には「あいぬ民藝 トアカン ノ ビッキの店 阿寒湖」とあり、ビッキ氏の兄弟が阿寒で経営していた土産店の看板。その手前には同店舗正面に飾られていた大型レリーフが飾られています。

記念館の方より教えて頂いたことによると、「トアカンノ」はビッキ氏の父親のお名前(和名 砂澤市太郎)で、一本矢(二本の矢はいらぬ)の意味だそうです。その父親が亡くなった後にビッキ氏家族は旭川の開拓地から阿寒町へと移り、土産屋を手伝いながら工芸にも携わる生活を始めたのだとか。

f:id:tmja:20180903153940j:plain

窓際には1975年より作製した"木面シリーズ"が並んでいました。木面の木を別な文字と入れ替えて揆面、器面、姫面、棋面等の文字を創り、そこから浮かぶイメージを彫ったもので120作品程あるそうです。アフリカの儀式仮面にも通じるような、なにか呪術的なもの感じさせられる仮面のようでした。

f:id:tmja:20180903154008j:plain

ビッキ氏が手掛けたアクセサリーのデザイン画。記念館の方の説明によると、これらデザイン画はビッキ氏オリジナルであること主張する為ものであったらしく、お土産物製造&商売も競走が激しかったのかと感じました。

f:id:tmja:20180903154048j:plain

f:id:tmja:20180903154018j:plain

"樹海老"。胡桃材の硬さで甲殻類の硬さを表現したかのようで、塗られている青銅色の塗料と併せて太古の大海老が天塩川から上がってきたかのような迫力を感じさせます。凝った造りで、ひとつひとつ節が回転軸で動かせる様になっており、グィー、グィーと金属同士が擦れる音を出して威嚇してきそうな迫力があります。

f:id:tmja:20180903154046j:plain

f:id:tmja:20180903154026j:plain

こちらはまさに天塩川から打ち上がったばかしかと思わせる、大きな"樹鮭"。日本海に面する天塩町河口から、産卵のため懸命に遡上した傷だらけになった身体に見えます。鮭の口の稼働部分を少し動かして貰いました。

f:id:tmja:20180903154015j:plain

f:id:tmja:20180903153925j:plain

風の回廊を抜けると「トーテムポールの木霊」と名付けられた薄暗い部屋に出ました。ここには音威子府駅前に1980年に建てられたオトイネップタワー(高さ15m)の朽ちる残骸が展示されていました。車輪は鉄道、乳牛は酪農、野鳥ブッポウソウは広がる森のシンボルで音威子府の特徴を表しています。樹齢300年といわれるヤチダモの巨木より切り出されたタワーは1990年の強風で破損してしまい、乳牛の上に載せていたものは安全上の配慮で切断。現在ではその一部が砂澤ビッキ記念館に展示されています。

f:id:tmja:20180903154034j:plain

ビッキ氏の代表作のひとつ "樹華" 。この部屋に展示してある物は地元・音威子府産のやなぎの枝を組み合わせて作られた作品。昨年か一昨年に神奈川県での企画展示で見て以来に目にしました。

f:id:tmja:20180903153949j:plain

「ビッキからのメッセージ」と名付けられている部屋に移ると、細く薄暗いなかに、ビッキ氏のデスマスクと骨壷と思われるツボが置かれた静かな空間がありました。  生前の大きなポートレートがその後ろに掲げられており、自分は居ずらさを感じて早々に退去しました。

f:id:tmja:20180903153938j:plain

f:id:tmja:20180903154005j:plain

その隣り部屋は製作現場だった場所「アトリエ午前3時の部屋」です。午前三時に旭川発稚内行きの深夜列車が通過する音を合図に目覚め、制作に取り掛かった事が名前の由来。鑿、鉋、斧、鋸と制作を支えた無数の道具が立て掛けられており、部屋の中央には大輪の花のような"樹華"が咲き誇っていました。

f:id:tmja:20180903153923j:plain

阿寒湖時代にはお土産用工芸品を多数作るも、「森と湖のまつり」で"観光アイヌ"と表現された事への反発なのか、木彫りの熊は殆ど彫らなかったとか。ビッキ氏が自ら彫った珍しい木彫りの熊がありました。

f:id:tmja:20180903153908j:plain

f:id:tmja:20180903153935j:plain

ビッキ氏晩年の代表作「午前3時の玩具」。人のような、妖精のようなビッキ氏が創作した生き物達。奥には阿寒湖にいた頃の代表作「ANIMAL目(B)」、その隣には悩めかしい後ろ姿の作品も奥に写っています。最初の方に出た海老や鮭のように直接それと判るものでなく、抽象的な創造物が生み出された制作現場「アトリエ午前3時の部屋」が見られたのは今回訪れた最大の収穫でした。

f:id:tmja:20180903153906j:plain

"樹蝶" 。案内をして頂いた方と緑色の塗料の話しとなり、自分が「ビッキさんのビッキは蛙と言う意味らしいので、よく天日干しした緑蛙を磨り潰して、膠と混ぜてたのでは?」と冗談を言ったところ、オイルステインと油絵の具らしい(聞き間違いかも?)との回答を頂きました。この緑色は何かをビッキ氏は生前秘密としていたらしいのですが、現物が多く残り成分分析をすれば明白になるのをしない(公表をしない)のは何故かが気になるところです。

f:id:tmja:20180903153919j:plain

部屋の出口付近にはガラスケースに入ったビッケ氏の仕事道具が近くで見られました。アトリエの隣りにはまだ展示室があり、暗闇の中に十字架のような作品展示「樹気との対話」があるそうですが、次の場所が先に目に入り飛ばしてしました。稚内へと向かうクルマのなかで、「そう云えば、最後の展示室見てなかった(°0°)!!」と気付くも後の祭り。

f:id:tmja:20180903154021j:plain

なんと、館内には久保明宏氏がオーナーだった札幌の人気スタンドバー「いないいない ばぁー」が再現されていました。久保氏が構想し、ビッキ氏がそれ造った酒場。カウンターにある女性のカタチのライトスタンドはそれぞれ体付きが違う等の遊び心イッパイな場所で、ここが小学校の元講堂だった場所だとは信じられない変貌ぶりに目を見張ります。

f:id:tmja:20180903154029j:plain

f:id:tmja:20180903154041j:plain

音威子府の村おこし協力隊に参加し、北海道の生き物を色鉛筆で描かれている男性がカウンター内におり、お酒はダメでも珈琲はお出しできると言われ、是非ともとお願いしました。砂澤ビッキ氏が創作した作品の凡そ2割が音威子府村に現在はあり、写真映る木彫の鳥は最近寄贈されたモノで、その数は増えていると伺いました。マッチから看板に至るまでビッキ氏の作品に囲まれた贅沢な空間を充分に楽しみ、満足して稚内へと向かう事にしました。