南條亮ジオラマ記念館にて、人々の懐かしい姿を見る

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国内第3位の高さを誇るSiSりんくうタワー(256.1m)よりの大阪湾の眺め。海上に浮かぶ関西国際空港の実質的な窓口となっている対岸の泉佐野市は、江戸時代には漁業や廻船業が盛んな地域で佐野浦と呼ばれる港町でした。現在では埋め立てに継ぐ埋め立てを受けて古い港町は海を失ない、沖合を埋め立てた海上空港の玄関口として開発が進み、泉南の中心都市として賑わいみせています。

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泉佐野といえば身近なところでが後晒しの泉州タオル、大盤振る舞いで総務省と喧嘩となった「ふるさと納税」が有名ですが、現在でも国内シェア7割を占めるワイヤーロープの主要産地だったりもします。今回訪れた「いこらモール泉佐野」も泉佐野市の最も北側にあったワイヤーロープ国内最大手の東京鉄鋼社の泉佐野工場敷地跡に開業した大型ショッピングモールでした。関空を利用する時に時間調整で立ち寄る機会があり、その時に「南條亮ジオラマ記念館」なるものがあると知ったのは全くの偶然だったのでした。

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南條亮ジオラマ記念館はいこらモール泉佐野内に現在もあるのですが、自分が2017年に最初に訪れた時と最後に訪れた間でも、同じショッピングモール内で展示スペース拡張の為か何度も移転したうようです。この"記念館"はいこらモールを運営しているザイマックス社と、いこらモールの所有社である東京製綱株式会社により場所が提供され、地元の教育委員会の後援もあり常設展として無料で見学することができるのです。此処に載せている写真は殆どが初回訪れた時のもので、その後に訪れた時の物を幾つか追加しています。

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南條亮氏は大阪生まれ、武蔵野美術大学造形学部を卒業した後に舞台人形やカラクリ時計に携わってきた経歴を持つ方で、上はパンフレットの南條亮氏を撮ったもので、下は自宅にある南條亮氏のサイン入りの本となります。記念館に置かれていた案内を見ると、展示されている作品群は2001年に南條亮氏が「人間、この愚かですばらしきもの展」という題名で発表されたものがメインとなり、明治から戦後復興期までの市井の人々達の姿を1/8スケールで再現した作品が展示されているのだとありました。

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明治時代の小学校。学び舎である木造校舎を背にしての入学式の記念館撮影の場面でしょうか? 丸坊主におかっぱ頭の子供達が前後3列で並び、洋服や靴ではなく和服に草履姿で並んでいます。この子供達が明治から昭和へと移り変わる激動の時代を生きた主人公達となるようです。十人十色な子供達の表情を見ていると、現在では無くなった表情というものがあるのかもと考えてしまいました。

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校舎と人形模型のそばに掛けられていた作者のスケッチと実物を見比べると、前列で先生と生徒1人づつ、後列で生徒2人が足りないのが分かります。ほかの展示物を見ても作者が各人形の配置に目を配っているのが強く感じられるので、スケッチはあくまで原案だとしても2列目端っこの男の子が完全はみ出してしまっているのに少し違和感を感じました。並べ方が誤っているのではないかと思案してみるも展示会場は無人だったので回答は得られず...

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長い、長いコロナ禍の自粛期間が開けた令和三年十月の大阪出張時に「ジオラマ記念館」を再訪。明治時代の道頓堀から始まるジオラマ物語を順に追っていくと、木造校舎の前に並ぶ子供達の数が9人から10人へと増えているのに気が付きました。十人!!  何度も会場を訪れているので過去にも小さな変化を見付けては独り喜んできましたが、今回の"変化"の発見はことのほか嬉しかったです。

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明治、大正、昭和は国内外で度重なる戦争を経験した時代でした。大東亜戦争末期の昭和二十年には大阪にも爆弾や焼夷弾が連日降り注ぎ、焼野原となった市街地を逃げ回り、佇む人々の姿の景色を再現したジオラマの舞台とスケッチがあり、「大阪大空襲」との題が掲げられた一角がありました。玉音放送が全国で流れる前日の14日まで続いた空襲は1万人以上の人々の命を奪い、大阪の市街地を焼け野原にしたのでした。防災頭巾を被り呆然とする少女、言葉にならない叫び声を絞り出す男。瓦礫と化した建物だと思われる背景のままと製作途中ですが、再現された人々の姿や表情、服装などからだけでも物語りが見えるかのような作り込みです。

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国力の全てを注いだ戦争で社会インフラは無惨にも崩壊し、「食べるものすらない」という貧困が襲ってきたのです。戦後も暫くは街中の歩道や建物にもその空襲の傷跡が残り続け、物乞いやスリ、強盗など敗戦の置き土産とも呼ばれるものが溢れる、酷い状況が続きました。途方に暮れながら当てもなく素足で歩く者、泣き叫ぶ子供、他人の温情に縋るしか生きる術をなくした家族。生命さえ軽視する、混沌とした様相を社会は見せていたのでした。

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この場面は後から写真で見た時には、荒廃した街の様子から「父の帰還」の場面だと理解できたのですが、40代ほどの父親の確固たる表情から「出征」の場面だと初めて展示場で見た時には勘違いしてしまいました。この止まった瞬間から時間が動き始めれば、父親も迎えた家族も笑顔で抱き合う場面が予想できるのですが、反対側から見ると手前にいる小さな男女二人の子供は泣きそう表情をしています。たぶん、彼らの父は戦地から戻っていないのでしょう...

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長い戦争期間中には厳しい物資統制が敷かれ、戦後は更に厳しい物不足に晒される苦しい生活が続きます。 あらゆる物が不足しており、生活必需品ですら闇市で法外な値段で買い求めるしかありませんでした。米国から入ってきた小麦粉。その小麦粉を溶いた汁に少しの野菜を混ぜた粗末な食べ物を貪るように食べている人々。戦後であっても男性は国民服で、女性はモンペ姿です。

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少し前まで「鬼畜米英」と鬼扱いをしていた駐留軍兵士にチョコレートやキャンディなどをねだる子供達。荒廃した国土で極度の貧しさに喘ぐ人々と、その貧困の日本にいながらでも豊かさを維持する元敵兵との我彼の差は大きく、国内の大都市の街角には米軍将校目当ての派手な服装をした女性が数万人はいたのだそうです。米兵に擦り寄る場面の脇で、同じくハデな姿の女性が浮浪児に芋をあげています(芋はどこかに消えてしまった模様...)。

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「もはや戦後ではない」と新しい時代の幕開けを象徴する名言が経済白書に書かれたんが昭和31年(1956)。平均成長10%が15年続く高度成長期へと向かい、 市井の人々の生活も明るいものと変わっていきました。その世相は子供達の表情からも見てとれます。

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 戦中は統制を受けていた“お笑い”も娯楽を求め人々の要請に応じて大衆娯楽として再開がなされ、各地の公園や空き地で盛んに催されました。喜怒哀楽を自由に表せる時代の到来です。舞台で観客を前にして立つお二人は吉本新喜劇の立役者エンタツ・アチャコのおふたり。下の動画で流れるのは野球中継をパロディ化した演目「早慶戦」で、これまで寄席で和装した芸人が演じていた萬歳を、舞台に立ち、背広姿で初めて演じたのでした。

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 街頭紙芝居はテレビが普及するまで子供達の娯楽の王様でした。紙芝居見たさに菓子を買うための小銭を親にせびり、紙芝居のおじさんの声色や言い回しにとりこになったものです。飴や菓子を買った子供達が最前列に陣取り、見るだけの子供は遠巻きに楽しむのでした。少し"いかがわしい"紙芝居屋の演じる紙芝居は現在言うところの漫画 x 講談のようなエンターテインメントで、大阪府では最大1,500人もの紙芝居屋が戦後は活躍していたのだとか。

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また、貸本屋から借りた少年・少女漫画に夢中になる子供達もたくさんいました。所得が上がるにつれて、10年後には週刊漫画誌へと移行していくまでは全国に貸本屋がありました。トタンを敷いた鶏小屋の上で漫画を貪るように読む二人の子供。本の中は分かりませんが、さいとうたかおや赤塚不二夫、白土三平、水木しげる等がこの時代の貸本漫画出身ですので、もしかすると子供達が読んでいるのは彼らの作品かもしれません。

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 子供達が上で漫画を読んでいる小屋の近くでは、今晩の夕食とするために鶏を絞めています。そのニワトリを可愛がっていたのか号泣する少年の姿も背後に見られます。自家飼育/消費が一般家庭でも以前は広くおこなわれてきましたが、騒音、異臭などで鶏を家庭で飼うのは現在では一般的ではなくなり、血の滴る鳥を刃物と一緒に持っていたら現在では警察沙汰で、ご近所さんから変質者、犯罪者扱いされること間違えなしです。

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鋳掛屋さん。現在の様に使い捨てが前提ではなく、品質も良くなかった時代の金物は穴が空いてしまったら治して使い続けるのが普通でした。溶かした金属を破損した部分に流し溶接して直す職人。この鋳描屋のオジさんは戦後すぐの橋の上(17枚目の写真)の闇市でも姿が写っており、おそらくは同一人物だと思われます。

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鋳掛屋と同じく、現在では目にすることのなくなったポン菓子屋さん。大きな炸裂音を合図にして米菓子ができるポン菓子。米などの穀物を入れた釜を密閉して加圧し、蓋をハンバーで叩いて開けると原料の水分が急激に膨張してできます。ドカンという音が原因なのか、路上販売がしにくくなったのが原因なのか、昭和30年代には街中から姿を消していった行商のひとつでした。

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学校での一番の楽しみはやはり昼食の時間で、先生による「それでは皆さん、いただきます」と食事開始の合図が聞こえるかのような賑やかな教室の風景です。ご飯に梅干しの日の丸弁当を持参する子あり、近くの農家さんを手伝ったら薩摩芋をいっぱい貰ったと自慢している子供もいます。戦中には習字の題材とならなかったであろう「平和」の文字も教室に高く掲げられており、和装をした子はもう一人も居らず、みんな洋服を着ています。

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守備側のひとりが壁際で股を広げ、そこに他の守備側の子供がクビを突っ込むを繰り返して長い馬の胴体をつくる。攻撃側はそこに馬乗りになっていき、馬が崩れれば攻撃側の勝ち。上に乗っている子供を守備側が先に振り落とせば守備側の勝ち。この遊びは色々な呼び名があるようですが、関西では「胴馬」なのだとか。その胴馬どころか土俵を地面に描いての相撲遊びですら日常では全く目にしなくなり、記録すべきものとなったようです。

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南條亮氏の構想では明治から戦後復興期まででは収まらず、更に先の高度成長期までの人々の姿をジオラマで再現する壮大ものでしたが、2019年12月に全ての完成を見る前に亡くなられてしまいました。明治時代の戎橋で街灯を見上げていた少年が、「大大阪」として繁栄した頃の大正期に孫と通天閣を一緒に見上げる場面。その子供達が大阪万博で太陽の塔を見上げるという物語もあったのではないかと想像してしまいます。