現代の首里城「沖縄県庁舎」見学と、県庁周辺をさんぽ

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沖縄県庁に行って参りました!!   那覇空港へ向かう途中に県庁地下一階にある食堂「南天」と展望台にただ立寄っただけですが...。「県庁前」と最寄り駅を調べるまでもなく分かる駅でホームに降り、南の方角を眺めると見える威圧感のある大きな白い建物が沖縄県庁です。

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那覇は安里川/国場川の河口に拓けた琉球王国の貿易港でした。慶長14年(1609)の島津藩侵攻の後に薩摩藩の琉球支配の拠点とした出先機関は現代の那覇市街を二手に分ける久茂地川右岸にありました。上の地図だと中央左の緑丸位置(薩摩藩在番奉行所跡/初代県庁)になちます。明治12年(1879)の沖縄県設置で仮県庁となり、明治14年(1881)に沖縄県庁へと昇格。大正9年(1920)に現在の庁舎のある場所へ移転するまで沖縄行政の中心でした。

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県庁前駅の隣りには久茂地川が流れ、首里城正殿や那覇大綱引きの旗頭をモチーフとした御成橋が県庁前通りにかかっているのが見えます。この橋は昭和天皇が皇太子の時に那覇を御訪問されたのを祝して御成橋と名付けられたのだとか。

那覇は戦後に米軍の占領で、那覇港を中心とする半径1キロが立ち入り禁止区域となりました。美栄橋辺りから現在の那覇空港手前辺りまでの土地がその対象となり、多くの人々が焦土と化した街にすら住めないという悲惨な生活を強いられたのです。旧市街地は長い米軍接収期間を受けた後に再開発をされたので整然とした街並みが広がり、新市街地は国際通りを経て首里へと無秩序に拡大していきました。

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2つ上の地図は現代の那覇市街地ですが、現在から100年程前の地図(白黒)と比較してみると面白いです。国際通りを青線で、現県庁の位置を赤丸で示しています。地図を見比べると那覇の市街地が大きく拡大しているのが明白で、戦前は田畑の広がっていた久茂地川左岸(特に旧真和志市地区)の変貌が見て取れるかと思います。現在では那覇の目抜き通りとなっている「国際通り」は人足まれな田圃や畠でした。

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出典: Wikipediaより 1950年代の国際通り

昭和19年に始まった空襲及び、翌年4月から開始された沖縄本土での激烈を極める地上戦。米軍は戦後すぐに那覇市の大部分を接収し、そこから追い出された人々は那覇市郊外に移動を余儀なくされました。久茂地河右岸の旧中心街へのアクセスが断たれたため、現在の国際通りの南側にあたる開南・上町小を初めとする地域に闇市が立ち並び、人々が集まる場所へとなっていきました。

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観光客を中心に賑わいを見せる「牧志公設市場」はガープ川沿いの闇市の公的管理を目的に1950年に開設された市場です。周囲の平和通り・神里原通りにはデパート2軒を含む多くの商店が集まり、戦前の那覇中心だった旧市街地が1951年に解放されるのを待つことなく、牧志公設市場周辺は商業集積地と変貌を遂げていきます。

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公設市場にも近く、アクセスの良い国際通りに劇場や百貨店が立ち初め、追従するかのように多くの商店も国際通りに店を構え始めました。昭和47年の沖縄返還後より国際通りの観光地化に拍車がかかり、現在では通りに並ぶ9割の店舗が買い物、食事、宿泊と地元民でなく、国内外から来る観光客相手の商売をするに至っています。

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戦後の那覇復興の象徴、奇跡の1マイルと呼ばれた国際通りの西側出口に聳え立つのが沖縄県庁です。沖縄諸島、先島諸島、大東諸島の東西1,000キロに渡る広域な沖縄県の行政機関。昭和47年5月15日に迎えた日本への沖縄返還で、それ迄の統治機関だった琉球政府からバトンタッチを受けたのでした。

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現在の県庁舎は黒川紀章氏の設計で、1990年に竣工しました。地上14階、地下2階の高さ71.7メートルを誇り、沖縄県で現在8番目の高さを誇る建物です。屋根にあたる部分が窪んでいる特徴的な姿をしているのは、美栄橋付近にある琉球放送が発する放送電波を豊見城方面に飛ばすために中央部を切り取ったのだとか。

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沖縄県庁。"沖縄" という言葉の成り立ちが自分にはハッキリとは理解できず、沖縄と聞く度に考えてしまいます。8世紀の大和上東征伝に「阿児奈波」 と出てくるのが国内最古らしく、平仮名の元字から考えて奈波は「なは」と読ませたのでしょう。これが那覇(なは)や沖縄の縄(なわ)の由来だとはなんとなく推測できます。

沖縄の沖は陸地(日本本土)より離れた海にある意で、前述のナハ/縄と合わせて沖縄となったのかと推測はするのですが、松浦武四郎という名付け親がわかってる北海道と違い推測の域を出ません。沖縄の人に聞くと「うちなー」が「おきなぁー」に聞こえたんじゃないとかえってきたりします。

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庁舎へ向かう通路の左右の壁はトラバーチン(琉球石灰岩)でできています。雨風に晒されて、月日を重ねたトラバーチンと南国の植物に囲まれると何処かの遺跡にでも迷い込んだかのようです。

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入口の上部には沖縄らしくシーサーが5頭並んでいます。正面を向く中央のシーサーから30度づつ向きを変えて設置されており、現代の首里城たる沖縄県庁舎入口の警備は万全の様子でした。

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庁舎に足を踏み入れると広々とした「県民ホール」と名付けられた全石造りの玄関。足元には白、赤、緑の石で読谷村の伝統的な織物柄を表した装飾となっており、天井からは沖縄各地の染物や織物と月桃紙で作られた7匹の蝶。柱の上には1対のシーサーと沖縄色満載の空間です。

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庁舎の最上階にあたる14階には展望台があり、誰でも利用することができスペースになっています。大正時代から現代までの県庁舎の変遷を写す写真が飾られていたり、ちょっとした休憩スペースに喫茶「リバティ」があったりします。

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北西向きの窓からは、眼下にはパレット久茂地や沖縄タイムス、遠く水平線上には慶良間諸島が望めました。建物の構造上、窓際まで迫れる訳ではないので迫力には欠けるところですが、市内のランドマークを高くから確かめられるのは愉しいものです。

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建物の外から見えないので余り知られていなそうですが、県庁舎の6階より上部には大きな吹き抜けがあります。その空間には枯山水のような石庭があり、沖縄の島々をその島々で採石した石で表しています。1番左が大東諸島、中央が沖縄諸島、奥にあるのが先島諸島となっています。ちなみに、位置から判断して奥の1番右側は尖閣諸島のはずです。

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その石庭を6階から中庭を眺めるとこの様な感じに見えます。この中庭の左手奥にあるのが沖縄県知事の部屋です。要人が沖縄を訪れるとよくテレビに映る、交易で栄えた琉球王国時代を偲んだ「万国之津梁」の書かれた屏風のある知事応接室もこの階にあるとのことでした。

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沖縄県議会を挟んだ沖縄県庁の隣りには那覇市役所もあります。こちらも役場としては一風変わった姿で有名らしく、白い柱が神殿のように並び、壁面には至る所に植物が植えられている緑溢れる庁舎。ひな壇状の低層部と深い庇の組み合わせが格好良い!

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その入口には建替前の旧庁舎を守護していたシーサー達がいました。県庁同様に那覇市役所の内部もまた探索したかったのですが、時間の都合で次回のお楽しみとなってしました。