十勝の大地に根付いた甜菜と製糖を学びに日糖「ビート資料館」を訪問

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北海道・帯広に行って参りました。帯広のある十勝平野は大規模農業がおこなわれている穀倉地帯として有名で、訪れた時は小麦が緑の芽を出している眩しい頃でした。「きたほなみ」や「ゆめちから」等の秋まき小麦の芽が一面に広がる素晴らしい景色。北海道では9月末頃から種を撒く冬小麦の栽培が多く、ある程度の成長のところで雪の下で越冬し、翌年の7月頃に収穫の時期迎えます。

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帯広に来たら是非とも訪れてみたかったのが此方、日本甜菜製糖株式会社が創立70周年を記念して平成元年に設立した「ビート資料館」です。帯広市稲田町にあります。スーパーカブ90改で毎日16時間走り続けての北海道一周で立ち寄った事があるので本当は2度目の訪問だったりしますが、前回の記憶が全く抜け落ちてしまっているので初訪問という事にして訪れてみました。因みに、ビート資料館の隣には11,000平方メートルと日本一大きい敷地を持つパン屋「麦音」さんがあり、広い駐車場にクルマが平日にも関わらず沢山停まっていました。

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煉瓦造り風の建物内部に入ると十勝の田園風景を描いた大きなステンドグラスがドーンと現れます。背の高い館長さんが2階から降りて来られたので、入館料を支払いガイドをお願いしました。清水館長の懇切丁寧なガイドが好評だと事前情報を得ていたので、「お時間は大丈夫でしょうか?」との問いに、「無制限で」と即答してしまいました(*´艸`*)ウシシ。

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ビート(甜菜)は砂糖大根とも呼ばれる蔗糖を含む植物で、サトウキビと並んで砂糖の原料として多くの国で栽培されている作物です。甜菜は地中海が原産で、当初は根っこではなく葉の部分を食していました。18世紀にドイツの科学者アンドレアス・マルクグラーフが飼育用の甜菜から砂糖を分離し、その弟子のフランツ・アシャールが砂糖の製造の成功。プロイセン国王・フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の援助を得て、1802年に世界初の製糖工場を設立し、甜菜からの量産製糖が始まりました。現在では全世界で1億7千万トン生産されいる砂糖のうち、甜菜を原料とするものが4千万トン、砂糖黍を原料とするものが1億3千万トンとなっており、主にロシアを含むヨーロッパ地域(3千万トン)で生産されています。

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甜菜もサトウキビも日本国内で生産されており、寒冷地作物である甜菜は北海道でのみ栽培がなされており、イネ科の砂糖黍は暖かい南西諸島にて栽培されています。砂糖の原料というとサトウキビが先ず浮かぶのですが、日本国内においては甜菜を原料とする砂糖生産の方が砂糖黍のものより5倍近くの生産量があるとオドロキました。砂糖は塩と違い産業用需要(塩はソーダ等)がないので、国内年間消費量は食用200万トン程をベースに国内自給率を大雑把に計算すると4割ほど。

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日本国内で初めて製糖がおこなわれたのは江戸時代初期の琉球で、琉球の正史・琉陽によれば1623年に中国福建省より黒糖製造技術を導入し、薩摩へ税を納める琉球王府の役人をしていた儀間真常がこれを広めたと伝わっています。薩摩藩の指示で1945年に琉球は専売制を導入、長崎の出島経由でもたらされる中国/オランダ舟よりの輸入砂糖と併せて国内砂糖市場への大きな供給源となっていくのでした。

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江戸時代には饅頭や羊羹等の和菓子類をはじめとする砂糖の味は広く庶民まで普及していき、砂糖消費の日常化が定着。享保の改革で知られる第八代将軍・徳川吉宗(1684-175)は砂糖輸入の制限化/国産推奨へと政策の舵を切り各地で砂糖黍が栽培され、なかには四国讃岐の高松藩のように一時は全国三割もの国内シェアを獲得し、讃岐三盆白と呼ぶ現在まで続く良質な白砂糖を造るまでに至った藩もありました。琉球、奄美と砂糖黍最適地を抱える薩摩藩はシェアトップを堅持し続け、砂糖需要の高まりをビックビジネスの好機と捉え、安永六年(1777)には奄美三島(大島、喜界島、徳之島)の砂糖惣買い入れ制を開始して砂糖黍以外の作物を植えることを禁ずるまでの極端な政策を打ったのでした。

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明治27-28年(1994-95)の日清戦争の結果として獲得した台湾において、近代製糖工場が三井財閥を中心として設立され1902年より稼働します。民政長官であった後藤新平の同郷で、後に「台湾砂糖之父」と呼ばれることになる農学者・新渡戸稲造が招聘され、製糖事業は台湾の経済基礎を築くまでとなる功績を遺すことになります。上の写真はWikipediaの台湾製糖本社前の写真。台湾には内地資本を中心に数多くの製糖会社が設立される事となり、そのうちの後発組に日本甜菜製糖の”種”となる帝国製糖株式会社もありました。

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勧農局長としてパリ万博(1867)に渡欧し、現地の甜菜製糖が盛んな有様を目にした松方正義は北海道・旧西紋鼈村に官営の製糖工場を設立するも失敗。松方正義首相の子息であり帝国製糖の社長であった松方正熊は、第一次世界大戦で日本経済が活況を呈する時代に北海道製糖(帯広)と旧日本甜菜製糖(川上群人舞村)の2社を興します。この2社は昭和十九年(1944)に一緒になり、戦後すぐの昭和二十二年に社名を変更したのが現在まで続け日本甜菜製糖株式会社です。

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 北海道に甜菜栽培が奨励されたのは、北海道の自然条件に適した近代農業を振興させるという明治政府の方針で、当時ヨーロッパで盛んだった製糖事業を導入しようという趣旨からでした。帝国製糖は台湾で後発組だったために、砂糖黍生産最適地を他社が抑えられた後での事業開始という苦渋を味わい、新天地である北海道では優良地に大規模投資をして甜菜による製糖事業を始めたのでした。

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当初は自社農園の生産したビート及び工場周囲の農家の人達に栽培を依頼した原料であるビートは、馬車によ運搬をおこなっていました。工場設立翌年には帯広駅ー帯広製糖工場間の3.4キロの軽便鉄道を開通させ、5年後にあたる大正十三(1924)年には新帯広ー大平と途中分岐の藤ー八千代駅までの合計40キロ程が開通。子会社である十勝鉄道が運営にあたります。砂糖の原料となるビートの効率的な輸送と、川西村や十勝山麓に暮らす人達の貴重な交通手段として地域の開拓に大きな役割を果たしたのでした。壁に展示されていた川西村地図を見ると、計画的に開拓で入植したのが一目瞭然な区割/家の配置となっていました。

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鉄道敷設後には各農家が馬車で収穫した甜菜を最寄り駅まで運び鉄道輸送で工場へ運んでいましたが、昭和40年以降は殆どの作物が電車ではなくトラックで工場まで直送されるようになりました。資料館の掲示によると営業54年間で1,600万人の旅客と1,100万トンの貨物を運び、昭和52(1977)年2月にその使命を終えて廃止になったとありました。地元での結婚式がある時には花嫁を駅でなく嫁ぎ先近くで下ろしてくれる「花嫁列車」も運行されていたそうな。

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甜菜の平均的な成分は水分が76%、糖分が17%、タンパク質、アミノ酸、繊維等の非糖分が残り7%となっています。カットした根っこを温水抽出して繊維分を除去し(牛の飼料となる)、石灰液やイオン交換樹脂で非糖分を除くと高い純度の糖分が得られます。1キロの甜菜の根っこからコップ一杯分(170g)の砂糖が取り出せる計算で、展示されている甜菜から取れる分量の砂糖をグラスケースにいれて視覚的に理解ができるような展示がなされていました。帯広近辺では近年良い収穫ができ、最高20%の糖分を含む甜菜も入荷したそうです。店頭で販売されている上白糖は、糖分を煮詰めて濃縮→種糖を入れて結晶化→遠心分離機で分蜜作業おこないと工程を経たものが製品として出荷されています。

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会社の歴史や製糖方法などは、何を尋ねても即答して頂ける豊富な知識をお持ちな館長さんが声を大にして言っていた事(甜菜糖の宣伝)がありました。ひとつは上白糖は漂白をしているから白いのではなく、雪の結晶と同じく純粋な砂糖の結晶なので真っ白な色をしている。黒糖以外の精製糖(上白糖、グラニュー糖、双目糖)は不純物が全く含まれていないので腐ることがなく、商品パッケージにも消費期限なし。長期保存ができ、品質の劣化が極めて少ない商品なので表示義務もないとのこと。同社の製品パッケージにも同様の主張が...。

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甜菜は北見、網走、斜里等のオホーツク海地域と帯広、音更、芽室等の十勝地域の2地域で主に栽培されており、日本甜菜製糖、ホクレン、北海道糖業の3社8工場(道南1、道北1 、十勝3、オホーツク3)で製糖をおこなっています。この体制はそれぞれの地域との結び付きや各社の共存関係等もあり、直近50年間変わらず続いているそうです。色分けされた地図を見ると、この土地で収穫された甜菜はこの製糖会社に売らなければイケナイと決まっているのだとか。「他社はもっと高く買ってくれるから今年は其方に販売した」と甜菜農家が言うのは認められているのか等を質問したかったのですが、新しい訪問者が来た合図がチリンチリンと鳴り、蜜度の濃かった案内ツアーはおしまいとなりました。

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ビート資料館のロビーに模型が展示されていた日本甜菜製糖の帯広工場は、昭和45年に操業した芽室製糖工場との統合で40年前に製造こそ終了しているものの、旧帯広製糖所の建物は現在でも研究所として使用されていると館長より聞き、同旧帯広製糖所跡地にできた大型商業施設「ニッテンスズランプラザ」にクルマを置いて外観のみ見学してました。

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同じ作物を続けて植えると発育が悪くなるので、甜菜はそれを避けるために植える輪作の代表的な作物とも言われています。現在では全道の2割にも当たる農家が甜菜栽培に携わっている程にもなっているのだとか。140年前の北海道にて始まった甜菜による製糖事業は帯広の開拓と共に育ち、戦争に大きく翻弄され、戦後復興時には三白(砂糖、紙、セメント)景気と呼ばれる繁栄を迎えた時もありました。その後には昭和38年の粗糖輸入自由化/糖価調整法を経て、昨今は砂糖摂取制限への世界的な流れに加えてTPP合意と新しい岐路に現在立っています。帯広郊外の農地では至る所で甜菜が栽培されており、十勝晴れの明るい陽にもとで秋の収穫期を迎えていました。