三は佐倉のそうごろう、日本義民乃鏡とされる佐倉惣五郎の物語

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「いちばんはじめは いちのみや〜♪」で始まる数え唄を自分が初めて知ったのは、自分の子供達が学校か何処かでこの歌を覚えて来たからでした。全国の一の宮で始まり、日光東照宮、善光寺、出雲大社、成田不動、宇佐八幡宮、高野山と全国的に名が知られており、御利益の強そうな神社仏閣が歌詞に並んでいるのですが、3番目の歌詞にある「佐倉のそうごろう」という聞き慣れない固有名詞となっています。此の「そうごろう」がどんな人物なのかを確認したくなり、今回は千葉県成田市に行って参りました。

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そうごろう(通称・佐倉惣五郎)は江戸時代前期の下総国佐倉藩北部、印旛郡公津村の名主だったと云われています。印旛沼は戦後の食糧難打開の開拓と治水事業により大きく姿を変えた土地です。印旛沼に流れ込んだ水の唯一の出口であった長門川に加え、東京湾へと流す印旛放水路を完成(1969年)させ、印旛沼の大きさは当初の半分ぐらいとなってしまいました。惣五郎はこの印旛沼の近くの集落で暮らしていました。

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この地域の人文はとても古く、伝承では日本武尊の東征時に現在の台方麻賀多神社にある大杉に戦勝を祈願したとの伝説が伝わっております。また平安時代の初めには征夷大将軍・坂上田村麻呂が戦没者供養に建てた寺のひとつが東勝寺で、佐倉惣五郎を祀る現在の鳴鐘山東勝寺がこれに当たります。東勝寺とは東国に勝った事を直接的に表した寺名です。

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東京上野と成田空港結ぶ京成本線に宗吾参道という駅があり、畑の広がる駅西口より宗吾霊堂のある東勝寺への参道がありました。佐倉惣五郎の本名は木内惣五郎で、宗吾は追諡であり、信仰の対象として語る時には宗吾とどうやら呼んでいるようです。大きな山門を通り、坂道を10分程歩くと東勝寺に到着しました。東勝寺には惣五郎の生涯を人形で再現した宗吾御一代記館があり、まず此方にお邪魔してみました。

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「佐倉城内饗宴の間」。佐倉藩初代藩主は春日局の孫にあたる堀田正盛で、13歳より三代将軍家光に近侍。瞬く間に出世を遂げ、慶安4年4月20日に主君家光の後を追い殉死しました。その正盛の後を継いだのが長男・正信で、慶安四年(1652) 20歳にして家督を継いだのでした。江戸勤めをする正信が国許を留守にしている間の藩政は国家老の池浦主計に任されており、池浦主計とその取り巻きは主君の留守を良い事に私利私欲を貪っていたのでした(異説あり)。

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「農民の苦しい生活、将門山の説得」続く凶作に加えて、承応元年も地域を襲った台風により不作となってしまいました。日増しに困窮陥る生活のなか各地域の名主は佐倉藩に年貢の減免の嘆願を繰り返すも、全く認めて貰えずに困り果てていたのです。要求を書いた筵を竹竿に巻いて作った筵旗を立てて、人々は手に鎌や鍬を持ち将軍山(大佐倉)に集結しているところに慌てて駆け付けた惣五郎は群衆を宥め、代表者を出して藩に嘆願するとして百姓一揆を収めたのでした。

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年貢を納められず、土地を失って路頭に迷う農民も多く、追い詰められた佐倉領389ヶ村を代表する名主達は国許では埒が明かないと見切り、密かに江戸に向かいました。江戸城前にあった佐原藩上屋敷前に集まった名主達は藩主・堀田正信に門訴をおこなうも役人達は願いを受け入れず、名主達を無慈悲にも門前払いにしたのでした。

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「代表名主密議の場」佐原藩への直訴は全く相手にされず、困惑した表情で上野の茶屋に集まった名主代表達。万策尽きて押し黙る名主達に総代表である惣五郎は天下の御法度である徳川将軍への直訴の決意をその場で打ち明け、国許で苦しむ領民を救う覚悟を披露したのでした。これに賛同した名主達は、連名での直訴状を作成し、惣五郎が失敗して捕らえられた時には他の者が続くと固く約束を交わしたのでした。

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「老中への訴え」家光の跡を継いだ4代将軍・徳川家綱はまだ10代と若く、惣五郎は熟慮の末に将軍家御用人・久世大和守の登城を待ち受けて願書を差し出したのでした。訴状は受理されるも「籠直訴ではなく、筋を通すべきだ」と、7日後に呼び出しを受けた屋敷にて差し戻されてしまいます。この時に惣五郎は最後の手段として将軍直訴を決意したのでした。

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「甚兵衛小屋」惣五郎は妻子に塁が及ぶのを恐れ、妻子と離縁をする為に故郷へと向かう途中の印旛沼吉高にて渡し舟を営む甚兵衛小屋に辿り着きました。久世大和守への直訴の報を受けら佐倉藩の役人達は、惣五郎達を捕らえようと躍起になっていました。そのために、印旛沼を渡す舟も酉ノ刻より卯ノ刻までは舟を鎖で錠をされていました。

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「義侠のなた」領民への惣五郎の想いと将軍への直訴の決意を聞いた甚兵衛は「誰が何を言おうとも、舟の出入れは甚兵衛次第だ」と、鎖を鉈で裁ち切り舟を出してしまいます。惣五郎を対岸へと送り届けた後に、禁を犯した甚兵衛は汚れた役人に捕まり老体を哀れみに晒すよりはと、その身体を雪降る冬の印旛沼へと自ら投げ入れたのでした。

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「妻子の決別、雪の子別れ」自宅に戻った惣五郎は家族にその決意を伝え、妻への離縁状と子供達への勘当状を押し付けます。水杯を交わして最後の別れを終えた惣五郎は、家族を残して江戸へと再び向かっ行くのでした。

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「惣五の赤心」承応元年の12月20日。上野寛永寺の三の橋に前夜より隠れていた惣五郎は、翌朝参詣する将軍に向かい「恐れながら、佐倉領百姓総代名主・惣五郎お願いがございます」と竹の先に挟んだ願書を差し出しました。赤心を持って直訴に臨んだ惣五郎姿を見て、二代将軍のご落胤であり、名君として名高い保科正之公がこれを預かる事となり、佐倉藩の農民は三年間の年貢減免が叶えられる事になりました。

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「悲しみの刑場」惣五郎らの直訴にて面子を失った佐倉藩の役人達は、翌年の夏に惣五郎を磔獄門、子供達1男3女を牢外での死罪としました。当時女子は処刑逃れる決まりだったので、惣五郎の子孫を絶やす為にと佐倉藩は娘達の名前を男に変えてまでして打首にとしたのでした。妻の欽は人々の助命嘆願により連罪免れ、剃髪をして刑場の近くで生涯家族の菩提を弔う事で生涯を終え、他の5人の名主達は佐倉十里四方への追放となり、この事件は幕を下ろしたのでした。

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東勝寺の境内にはかつての処刑場だった場所があり、そこに惣五郎親子の墓が立っています。また、寺内にある宗吾霊宝殿には惣五郎親子の位牌が置かれており、惣五郎は「道閑信士」、4人の子供達にもそれぞれの法名が記されていました。

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惣五郎が処刑されて間もなく、藩主・堀田正信の妻が懐妊中に変死を遂げ、正信は老中・松平信綱、保科正之宛に幕政を糾弾する上書を出して、無断で佐倉へ帰ってしまう等の不可解な事が起こりました。この責により堀田正信は改易・所領没収の上、弟である信州飯田藩主・脇坂安政預かりとなりました。惣五郎が処刑されてから8年後の万治3年(1660)の事で、佐倉の人々は宗吾様の祟りだと噂をしたのでした。正信は遠流先の徳島にて将軍家綱の訃報を聞き、(預かりの身で切腹は許されず)鋏で喉を突いて自害してしまいます。

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宝暦二年。惣五郎の百周忌に当たる年に、山形県より転封された堀田正亮が惣五郎を顕彰した事を契機にして、怪異を起こした惣五郎の話しは堀田家公認と世間は捉える事となりました。幕末には惣五郎をモデルとした歌舞伎「東山桜荘子」が大ヒットし、芝居、浪花節、講談で積極的に取り上げられ百姓一揆物の代表作として広く知られていきます。物語化した事で、義民・惣五郎は史実から独り歩きをしていきます。

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境内にある宗吾霊宝殿には惣五郎実在の裏付けとなる名寄帳があり、惣五郎は実在した人物らしいのですが、その人物がどの様な生涯を送ったのかは定かではないのだそうです。直訴をおこなった人物を幕府が佐倉藩に預け、佐倉藩がその人物を私怨にて処刑にしたとなれば、安易に引き渡しをした幕府の責任も問われます。ですので、実際に直訴を将軍にしたのであれば、佐倉藩による処刑は有り得ないのではないかと思えます。将軍への直訴→幕府の善政により民が救われるという筋書きは話しを面白くする効果を狙ったのと、幕府に目を付けられない為にと劇作家が付けたのかもしれません...

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f:id:tmja:20190318230015j:plain 宗吾御一代記館で販売されていた資料を見ると、佐倉藩初代藩主・堀田正盛の時代にはどんぶり勘定であった検地が、二代目・正信の代に変わり再度綿密に検地をすると決めた年がちょうど事件の起きたとされる年だったとありました。そうであるならば、検地に反対すべく藩に圧力をかけようと将門山に農民達が集まったのも事実だったのかもしれません。そこには惣五郎を初めとする名主達が話し合いで間に入っており、役人との口論で惣五郎達が刑罰を受けたという説も本当だったのかもしれません。いずれにせよ、平等や権利といった概念がない時代であっても、領民の為に奮闘をした人達がいたのは間違えない筈です。物語の佐倉藩惣五郎ではなく、そのモデルとなった木内惣五郎もその一人だったのだろうと思ったのでした。