グアム島にて自給自足の潜伏28年間、横井庄一氏の記念館を訪問

 

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広島から東京へ戻る途中の名古屋駅で途中下車をして、太閤口からタクシーで大治南IC近くの横井庄一さんのお宅に行って参りました。お子さんが9人もいると言うタクシー運転手に行先を聞かれたので、「横井庄一さんの自宅をご存知ですか?」と尋ねたところ、「あのグアムから帰ってきた横井庄一さんですか? 名古屋に住まわれているとは知りませんでした。凄い方とお知り合いなのですね...」と驚かれた声での回答。以前に訪れた時のタクシー運転手は所在地を知っていたので、みんな知っているものだと思っていました。

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ご自宅前の道路が拡張工事の最中で、以前あった門柱はなくなり、10年程前から道路に出されていた「横井庄一記念館」の案内板が玄関前に置かれているのが目に入りました。事前に訪問の意は伝えていたので、迷うことなく呼び鈴を鳴らし、出てこられた奥様に「ご無沙汰しております、もみじ饅頭をお土産に持って来ました」と挨拶をしました。

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横井庄一氏(1915-1997)は愛知県佐織村に大正四年に生まれ、旧制小学校(富田高等小学校)卒業後に豊橋市の花井洋品店に軍服仕立て職人として勤務。「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と戦陣訓を叩き込まれた兵役を終えた後に洋服の仕立て屋を実家にて開いたのでした。

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昭和十六年に再招集を受けて満洲へ渡り、昭和十九年三月にはサイパンを初めとするマリアナ諸島防衛のために大宮島(グアム)へと移動し、横井氏は飛行場建設等や補給部隊の業務に携わっていました。同年七月には米軍の急襲を受け八月にはグアム守備隊が玉砕。グアム島に集結した2万人以上の兵士のうち、9割以上が戦死する壮絶な戦場となったのでした。

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日米両軍の戦力差は大きく、生き残った日本兵はジャングルへ逃げ込みました。太平洋戦争終結後に米軍は解放したグアム島で残留日本兵を探し続け、投降する者、潜んでいた日本兵の大半を見つけ出すも、最後の日本兵となった横井庄一氏を発見したのは28年を経てからでした。横井氏は敗走時に武器等の軽装備しか持っておらず、グアム島の全員が彼の敵であるという極限状態にて生き続けたのでした。

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その横井庄一さんは20年も前にお亡くなり、現在は奥様の美保子さんが2006年に自宅の一角に設けた横井庄一記念館の御親族の協力を得ながら館長を努められています。奥様は昭和二年のお生まれですが頗る元気で、来館する人々の求めに応じて横井庄一氏や平和の大切さを話されています。上の写真はその記念館にあたる二間を撮影したもので、襖を経て反対側の部屋には横井庄一氏の仏壇があります。

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この記念館の目玉展示は実物大"横井ケーブ"です。どこそこ大学の方が造られたとかで、本物の奥行6メートルは部屋2つを埋めてしまうのを奥様が嫌ったので、片方の部屋で収まるサイズとなっています。人通りがなく、食料が得られ、雨季でも浸水しない土地に幅1.2メートルx高さ1.5メートルx奥行き4メートル程の空間を1ヶ月以上掘り進むことで拵え、換気口、井戸、竈、排水溝、水洗便所まである暗い空間に長く潜みました。このような隠れ家(塹壕)は何個も造ったので、改良に改良加えられた姿だと思うのですが、ジャングルに潜みながら、個人でここまでできるのかと驚きを禁じ得ません。

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本来の器用さを発揮して、横井氏は多くの道具を作りだしました。洞穴を掘るために砲弾から鍬を作り、銃弾の薬莢からは縫い針を、椰子の繊維からは火縄や草履、グアム島に生える竹からは魚類を採る籠をと周囲で得られる資源を最大限活用して生きるための道具を自分で加工したのでした。そのなかでも洋服職人だった横井氏の真骨頂とも言えるのがハイビスカスの木の繊維で仕立てた襟もボタンもある衣服。繊維を作るのに1ヶ月、織り上げて布にするまで3ヶ月、それを縫い合わせて衣服に仕立てるのに1ヶ月と半年近い時間を要したのだそうです。背負っている袋も同じくハイビスカスでできており、その肩紐は椰子の繊維から成っています。

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ハイビスカスから布を織った時に使用した自作の織機も記念館に展示されています(展示品は国内で横井庄一氏が再作製したもの)。病院に入っていた時に造った織機が気に入らず、再度作り直したと奥様が言われていました。此処にも横井氏のモノづくりへの強い拘りが伺えるように思えました。

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戦後復興から東京オリンピックの騒ぎを経て、札幌オリンピックを迎えようとしていた直前にあたる1972年1月末に猟に来ていたJesus DuenasとManuel De Graciaの2名により横井氏は取り押さえられ、長かったサバイバル生活に終止符が打たれたのでした。上の写真は拘束された時のもので、横井氏が籠を持っていることより海老取りの途中で2名の現地人と遭遇してしまったと思われます。

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記念館に飾られた写真には救荒植物として知られる蘇鉄の実を食べていた事を示す写真も飾られていました。食糧獲得は28年に渡る生存の最も困難な課題だったようでした。椰子の実、パンの実、パパイヤの木の芯や山芋を初めとする植物、人目を避けて夜間に狩った鼠や蛙、蝸牛、海老、鰻等の目に付く全てを食料としてのだそうで、なかでもネズミの肝を好んだのだとか。ジャングルでの心がけは、生水を飲まない、暴飲暴食をしない、虫や動物が食べるものしか食べない...。

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終戦後より5年を経た1950年にグアム島は米国の自治属領(準州)となり、1967年にはグアムと日本を結ぶ直行便が開設されます。横井氏は1952年までには太平洋戦争が終結している事を知っていたものの、敗兵として故郷に戻ることを良しとしませんでした。グアム島からの逃亡を企てるも、島内に整備された道路等を目にして米軍に発見されずには逃げ出せないと判断して諦めたこともあったとか。現在の感覚であれば疑問を感じ得ずにはいられない長期の潜伏ですが、グアムのバンザイクリフでは1万人とも言われる日本人が、沖縄戦にても多くの婦女子が自決した世界にて、横井庄一氏は終戦後も"戦い"を続けた一人の日本兵でした。

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ひとつの場所で命をかける"一所懸命"を文字通りにおこなった実際の洞窟の写真が上のモノです。竹等の木材で天井を張っているのが分かります。写真は記念館ので、奥様より館内の撮影/使用の承諾を得ております。本物の横井ケーブを奥様も夫と一緒に訪れたことがあるも、とても人が住める場所ではないと感じたと言われていました。

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帰国後に横井氏が発した言葉から「恥ずかしながら帰って参りました」が流行語となり、出兵後31年後の帰国となった横井氏は講演会やテレビ出演にと分刻みで日程をこなす日々を送る事となります。既に亡くなっている父母の墓参時や、美保子さんとの結婚式も衆人の興味の対象とされ、多くの報道陣に囲まれました。

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田中角栄首相率いる自民党が政権を担っていた頃の選挙は七億当選六億落選とも言われ、金か知名度さえあれば誰でも議員バッヂが貰えるとすら言われた時代でした。昭和49年におこなわれた第10回参議院選挙へ横井庄一氏は立候補します。わが身より他人の事を優先した戦前の淳風美俗が消えつつある世情を嘆き、昭和の浦島太郎となった目から見た金満国家・日本へ警鐘を鳴らしたかったのだと自分は理解しています。奥様より頂いた御著書「鎮魂の旅路」には当時理解されなかった選挙立候補のことが綴られていました。

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横井氏は選挙落選後に陶芸と出会い、自宅に「無心庵」と名付けた小屋を建てて作陶に没頭する老後を送りました。一切の痕跡も残さず静かに暮らすグアム潜伏時にも横井氏の心の支えとなった物を創る喜びは、82歳の生涯を終えるまで心の糧となりました。グアムでの潜伏期間が28年、帰国後に日本で過ごした期間が25年。奥様は「あの人ほど強い人はいないと思う、だって28年間も1人で洞窟で生きていたのだから...」と何度も仰っていました。

椅子に腰を掛ける時に「よっこいしょーいち」と呟く、横井庄一氏の名前にかけた遊び言葉が過去に全国で流行しました。自分も使った事があるので、横井さんご夫婦がこの台詞/ギャグを当時どう捉えていたのかを直接尋ねようとしていたはずですが忘れてしまい、横井さん宅より名古屋駅へ向かうクルマの中で思い出したのでした。