南三陸ホテル観洋宿泊と大川小学校訪問、伸びゆく命に光あれ


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ちょうど1年程前になりますが、家族で宮城県南三陸町を訪れました。福島県に行く機会の多い我が家では10年前の東日本大震災と云えば原発事故の印象が強く、津波被害はより北側で起きたとの印象を妻と子供達は持っているようでした。機会があれば青森県八戸から三陸海岸をつたって仙台まで南下しようと考えていたのですが、妻より子供達にはテーマが"重すぎる"と言われてしまい旅程を大幅短縮した上で浜通りを北上しました。上の放射線量1.2マイクロシーベルト/時間は助手席に座っていた息子が撮影しています。

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1泊のみですが南三陸町の志津川湾に面した「南三陸ホテル観洋」さんに宿を求めました。リアス式海岸の内湾にある崖の上にあるために美しい海に囲まれた絶景が楽しめ、まるで豪華客船にいるようだと評される景観を誇るホテルです。三陸で広くビジネスを展開されている阿部長商店グループのホテルで、気仙沼にある同系列の気仙沼ホテル観洋/プラザホテルが小高い場所に立っていた為に津波の直接被害は受けませんでしたが、南三陸ホテル観洋は震災時には2階まで津波に襲われた震災遺構でもあるホテルです。

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案内を受けた部屋は志津川湾を望める10畳程の和室でした。部屋でひと息ついてから食事前に大浴場へ向ったのですが、建物内の空間の広いこと、広いこと。大浴場は2階にあり、海が間近に見られる絶景風呂。震災当日は南三陸の市街地を土煙をあげて津波が襲いました。南三陸ホテルも二階天井(海面15メートル)まで水で浸かったのだそうです。此方のホテルは自らが被災しながらも町からの避難者を半年に渡り受け入れ、その後もボランティアの拠点として役割を果たしたことで広く知られており、自分もテレビか雑誌でその勇気づけられる話しを読んだ記憶があります。電気、ガス、水道、道路と全てのライフラインが遮断され、電気の復旧は36日、水道の復旧は震災から114日を要しました。

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風呂の後は指定された食事処へと足を運びました。海産物を商う会社が母体ですので、自慢の海産物・鮪、メカジキ、鰤、宮城サーモンが盛られ、志津川湾名物のタコに加えて鮑/アワビは踊り焼きと華やかな献立が並びました。朝夕の二食付きのプランで予約はしていましたが、子供達にも焼物にアワビが出てくるとは予想もしていませんでした。息子が妻にビールのお酌をして日頃の労をねぎらい、(上半身)裸踊りまで披露する等と息子はサービス精神が山盛り。

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お土産コーナーも盛り沢山でした。ホヤぼーやにおむすび丸。合格祈願・復興祈願のオクトパス(置くとパス)などキャラクター好きのうちの子供達は食い付いていました。購入したのは「サザエさん ワカメちゃんのわかめスナック」なるモノでしたが....。部屋に戻るとアホアホな子供達は早速ゲーム開始と、旅先でもする事は自宅でいるのと変わりがありません。震災前日もこの様な宿泊客が多数いたことでしょう。

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翌朝、夜明けを迎えた穏やかな志津川湾です。太陽が2つ並んで見える珍しい光学現象「幻日」を激写できたと自分ひとりで喜んでいましたが、現在写真を仔細に眺めると部屋のガラス継ぎ目に映っているようにも見えるので少し困惑… 

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早朝の大浴場から日の出に染まる海を見ようと移動中に見えた南三陸の港と町並みです。朝食は6階にある大広間でのビュッフェ形式によるものでした。廊下は燦々と太陽を浴びる天気の良い日であるにも関わらず、会場天井からの青白いライトのせいで何やら不健全な印象の写真になりました。

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志津川湾は暖流と寒流がぶつかり合う豊富な三陸沖にあり、海藻の種多様性が非常に豊富な海域で天然記念物に指定されているコクガンの越冬地ともなっています。その点が高く評価されて近年ラムサール条約登録地となりました。日が昇り、部屋の窓を開ければ多数のうみねこが餌を求めてやって来ました。1月の冬空で寒いはずなのですが、子供達は喜んで部屋の外に出て餌付けをしていました。

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南三陸ホテル観洋には毎朝8時45分にホテルを出発する「語り部バス」があります。大震災が起きてしまった年である2011年夏より運行を開始し、毎日継続されているのだそうです。自分がこのホテルを宿泊先にと選んだのは、ホテル自体が震災遺構であり、被災地を巡る語り部バスも運行したからで、上述の通りに津波の怖さを子供達に少しでも感じさせたいというのが目的だったからでした。

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南三陸ホテルとその周辺の地図です。宮城県の東北部にあたる此の海岸沿いの地域は、狭い湾が複雑に入り込んでいるリアス式海岸となっており、南三陸町はその奥まった場所にあります。両腕で囲い込むような地形は津波が押し寄せると奥へ奥へと水は押し込まれ、逃げ場を失った津波は人家を襲い、山へと駆け上り被害を甚大化させてしまいう傾向が強く、幾度となく津波による被害を受けてきました。

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東日本大震災でも鉄筋コンクリートの高い建物を除く市内の6割にものぼる住宅が全壊し、600人もの人々が亡くなりました。被害の大きかった志津川・歌津地区の市街地では新規の住宅建設が禁止され、住居は高台移転。「防潮堤がないと財産を守れない地域だ」との掛け声と共に8.9メートルもの高い堤防が築かれ、河川堤防の整備が進められています。

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仮設の折立橋より、新しく建設中の折立橋越しに太平洋を望む。バスはホテルを出発すると南三陸ホテル観洋の南にある集落・戸倉地区に先ずは向かいました。この橋より100メートル程下流の右岸には戸倉小学校と保育所がありました。共にハザードマップ上では津波被害レッドゾーン圏内にあるため、小学校は宇津野高台、保育園は小学校の屋上が指定避難場所となっていました。3月11日の大震災の2日前にも大きな地震があり、その時にも保育園は現場の判断で(避難マニュアルを無視して)小学生と同じく高台へ向かったのだそうです。

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集落の人達が津波の難を逃れる為に逃げ込んだ宇津野高台と五十鈴神社(標高19.8m)の鎮座する森。津波は神社鳥居付近まで上り、上の写真に映る家屋1階も多く浸水したとの説明がありました。高台からは3階建ての小学校も屋上まで津波に呑み込まれる姿が見えていたとか。神社には小学生、保育園児や地域住民併せて200名近い人達が、海上に浮かぶかの様な神社周辺の僅かな土地に集まり、度重なる余震と津波の轟音のなか焚火で暖を取りながら夜を明かしたのだそうです。戸倉小学校への津波到達は最短で3分と宮城沖地震の想定では計算され、避難所に辿り着くまで間に呑み込まれる可能性がある中、長い避難経路を経る必要のある高台への選択をおこなった小学校/保育園教職員の好判断により、最悪の事態を逃れる事ができたのだそうです。

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その後、バスは同じ集落にある戸倉中学校(現在は公民館)に到着しました。戸倉中学校は1960年のチリ地震にて41名の犠牲を出した南三陸が、津波対策として高台に建設した中学校でした。校舎に掲げられた時計は東日本大震災が発生した2011年3月11日14時46分を少し過ぎた時の停電により、現在もその針を止めています。この場所での津波到達地点は22.6メートル。三陸海岸で最も高い場所まで津波が襲ってきた場所のひとつで、津波に襲われる直前まで校庭に避難していた学生のうち、生徒1名、教師2名が犠牲となってしまいました。

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志津川地区は物凄い盛土による嵩上げ作業が続いていました。他所より土を運び込み10メートルは高くしている様子です。上の写真では適当な比較物がなく分かりにくいので、もう少し後で出てくる高さ12メートルの防災庁舎と周囲の盛土の高さを見て頂ければ理解し易いか思います。

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周囲が嵩上げ作業される土地にポツンと残っていたのが、震災遺構「高野会館」でした。大津波の襲来を受けるまでは、南三陸ホテル観洋と同じく阿部長商店グループ傘下の結婚式場の入る建物でした。震災当日、館内では高齢者の芸能発表大会が催されており、海岸線から300メートル程に立つ高野会館にも大津波が襲いかかりました。ガイドさんの言葉に従って、高い場所を見上げてみると建物の3階と4階の間に高さ22メートルの津波到達マークがありました。隣接していた公立志津川は自力歩行困難な高齢者を主とする入院患者72名と職員3名の犠牲が出すも、高野会館は職員の機転により327名が屋上に避難し生命を長らえたとの説明がありました。

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上の写真は南三陸町のホームぺージが出典元で、3階建て、高さ12メートルの町の防災対策庁舎に津波が襲い掛かった瞬間を写した衝撃的なものです。「ただいま、10メートル以上の津波が押し寄せています。高台に避難してください」と津波に呑まれる瞬間まで職責を果たそうと遠藤未希さんが放送を続ける音声が残り、有名になりました。屋上に逃げた53名の職員のうち、高さ5メートルのアンテナや鉄骨製手摺に捕まって生き延びた人数は町長を含めわずかに11名でした。
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 その防災庁舎の剝き出しとなった朱色の鉄骨。周囲に嵩上げされた土地によって、半地下にあるかのような印象を受ける場所に立っています。ここは現在「南三陸町震災復興記念公園」として整備を進められており、防災庁舎も一度は解体が決まるも2031年までは県が管理することになったそうです。悲しい過去を思い出したくないと、防災庁舎の撤去を願う声も少なくなく、その姿を視界から消すかのが目的であるかの様に周囲の嵩上げ工事が続いていました。

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語り部バスツアー後にホテルをチェックアウトしてから、南三陸町に隣接する石巻市へと向かいました。石巻市は市町村単位では東日本大震災で最大の犠牲者となる3,965人を失った自治体です。南三陸ホテル観洋よりクルマで南に30分程のところにある震災遺構「石巻市立大川小学校」を先ず訪れました。岩手県北部より南下を続け、249kmを流れる東北の大河・北上川が太平洋に注ぐ河口近くにあり、学校の名前は校舎より100m程の北上川に由来するであろう大川小学校。その廃墟の校舎近くに用意された駐車場にクルマを停めました。南三陸と違い案内人はなしですので、自分が子供達に説明し/直球ストレートな答えにくい質問にも応じるべく、前日の夜に妻子供が寝静まってから一夜漬けの勉強をしていました。此処に書いているのは、その時のノートと現地訪問後のメモより情報を拾っているので、自分の推測/感想が多く入っており正確性は低いかもしれません...

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学校傍の空き地より河口方面を眺めるも堤防で北上川は見えず、山林で視界を遮られ海も見ることができません。これは想像していたのと違い、全く意外でした。更には震災発生まで学校を取り囲むようにあった筈の民家が1軒も残っておらず更地が広がるばかし。東日本大震災の津波が河口から4キロ遡り、全てを呑み込んでしまった場所。大川小学校のある釜谷集落全体での死亡率は8割にもなり、現在は釜谷集落を含め、海岸線近くの集落跡を含め民家の建築が禁止されています。

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上の2枚の空中写真は国土地理院のもので、上が2011年3月19日(震災発生8日後)。下が最近の写真(赤マルは大川小学校位置)です。津波は沿岸部の防波堤や砂州を破壊し陸地を進んだだけでなく、北上川を遡上した津波は河口から4キロ程上流の新北上大橋(赤マルの北側で北上川に架かる565mの橋)を10メートル以上の高さで乗り越え、17キロ上流にある3メートルの堰も乗り越えたとみられる程の勢いでした。東日本大震災の東北各地でも目撃された、陸上よりも数倍早く、より内陸に迫る"河川津波"が北上川でも発生したのでした。川と陸からの津波が河口部に牙を剥き、地震発生後50分後には大川小学校のある釜谷集落を呑み込んでいったのです。

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大川小学校は明治六年(1873)に桃生郡鎌谷小学校として開校した歴史の長い学校で、被災した校舎は昭和六十年(1985)に新たに作られた校舎でした。校舎は屋上のない二階建てで、78年に起きた宮城沖地震を考慮して耐震性の強い設計がなされた建物だったようです。大川小学校は震災前に宮城県により作成された進水予想図では浸水想定外地域となり、避難所にすら指定されていた場所で津波の到達は想定外でした。児童108人のうち地震発生後に親御さんに迎えられた等の24名を除き、生存者4名、死者・行方不明者計74名。教職員も校内にいた11人のうち10名が亡くなりました。

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巨大地震発生(午後2時46分)後に児童達は校庭(標高1m)に集められ、点呼がとられていたのだそうです。ここで教師同士、児童、保護者との間で避難場所を巡り議論が繰り返され、50分後に付近の高台(6.2m)に移動を開始した直後に津波に襲われたと読んだ資料には書かれていました。学校の裏手にある裏山に何故逃げなかったのか、意思決定はどの様になされたのかを遺族と石巻市・宮城県が争う事もニュースとなり、自分も目にした記憶があります。学校長は当時他校におり不在。意思決定者となる教頭を含む学校にいた教員は1名を除き全員死亡。唯一の生存者(成人)となった男性教師は校舎や多数の生徒が濁流にのみ込まれる場面を目撃したことに起因する(←完全な自分の推測です)精神疾患で表には出てこないと、当時の様子を知る関係者が極めて限定的で真相は現在でも不明のままとなっています。

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東日本大震災で内陸4キロ地点で10メートルを超す津波が押し寄せたのは北上川流域のみであったので、人工的に大幅拡張した北上川という特殊な地形が大きく影響したと考えられます。北上川の中世以前の河口はおそらく石巻市側だったと推測されるも、資料がなくハッキリとしていません。江戸以前には入り組んだリアス式海岸である追波湾に流れ込んでいた流路を、北上川流域の年貢米輸送の船路整備のために北上川の流路を大幅に変更する大工事が仙台藩により推し進められました。時代が更に下ると鉄道網の発達もあり、水運よりも洪水対策が重要視され、明治末より昭和初めに行われた大規模河川改修にて再び北上川を追波湾に放水する大改修がなされる等と、北上川の下流域は幾度となく人為的な変更が加えられてきた歴史があります(赤で線をつけた河川は明治以降の改修地点)。放水路として北上川を追う波湾に流す時には川幅拡張と浚渫工事がおこなわれ、北上川を遡れる水量が大幅に増えた遠因となったのではないかと推測されます。

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学校の避難マニュアルでは校庭が指定されており、大震災の2日前の9日に発生した前震でも校庭避難を生徒達は体験していました。3月11日も教室の机の下へと一時避難をした後に校庭に避難。午後3時と下校時間も近いことから、余震による校舎破損での怪我を避けつつ、雪降る寒さのなかで校庭での待機を強いられた筈です。自分自身の体験を振り返っても、いつか来る言われ続けている”関東大震災”に向けて避難訓練を幼少期より学校にて繰り返していますが、1次避難は身近な机の下、2次避難が校庭/体育館で逃げ遅れた生徒がいないかの点呼をするというものでしたので、話に聞く大川小学校の対応に不可解な点は感じられません。ハザードマップでは浸水が想定されない避難所に指定がなされており、町内放送等にて「津波来週、高台へ避難を」と聞こえても裏山、川沿いの高台への小学生を連れての避難を教頭が躊躇したのは充分に理解できる状況だったと思います。

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校庭から更なる避難をとの声が上がるなかで、教頭が避難開始を遅まきながら決めたのは釜谷集落や付近の住民が川上へと多数逃げる姿を目撃したから、もしくは北上川の堤防を遡上する津波が乗り越えそうだとの緊迫した声が耳に届いたのか、慌てて移動を決定したのだと感じます。北上川から集落内に津波到達と教頭を含め教師達が知ったのは、恐らくは黒い津波を目にした時で、全ては時既に遅しとう状態だったのでしょう。震災当日の大川小学校を写した写真がから掲示されていました。裏山に避難した誰かが撮影したものだと思うのですが、既に学校周囲の民家は全て破壊されてしまっており、コンクリート建築の2階建て校舎だけが瓦礫に囲まれている衝撃的な画像です。たとえ校舎内に先生/生徒が籠城を敢行していたとしても、多くの生存者は望めない厳しい状況だった事でしょう。

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学校の敷地端より新北上大橋を見ると橋の手間に木立が見えるのですが、あそこが大川小学校の教師/生徒が目指した高台(6.2m)になります。震災前には地域交流館や民家が密集した地域で、学校を出発した生徒達は県道ではなく民家裏を通ったらしいのですが、その理由は現地を見れば分かるかもと前夜には考えていたのですが、なぜ裏道を選んだのかは分からずじまいでした。いずれの道を選択したとしても、目指した高台を含めて津波を被っており、大川小学校の教師/生徒が生存できる可能性が残る避難先だったのは校庭の目と鼻の先、細い舗装路を挟んだ先にある裏山だけでした。

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その裏山がどれほど急なのかを確認してみたのですが、2020年1月初旬の状態ではタタキと呼ばれるコンクリート部分まで容易に登ることができました。すでに震災発生から9年近く経過しているので当時と違うかもしれませんが、ここに登るための小道があったならば教頭も低学年生でも登れるとの決断が下し易く、たとえ堤防を津波が乗り越えてからギリギリになって裏山を目指したとしても、全員とは言わなくとも多くの命が助かったかもしれません。

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自分の子供達に見せて一番反応があったのは、津波で破壊された実際の小学校の廃墟ではなく、記録写真集の一頁、大川小学校生徒の合同供養式典の写真でした。大震災で思いがけない被害に遭ってしまい生命を落とした方々のご冥福を、大川小学校を離れる前に家族全員でお祈りしました。