部屋から眺める温泉街の風情が格別、城崎温泉・小林屋旅館

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日が暮れた但馬飛行場を出て、全但バスが運営する城崎温泉行きのバスに40分程揺られて城崎温泉へと向かいました。偶然なのかも知れませんが、この時の乗客は何故か自分一人だけ...。最近は浴衣を着た外国人が城崎温泉を大手で闊歩していると聞いていたので、行き先が本当に正しいのか心配になっていました。

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城崎温泉と言えば平安時代より続く西日本を代表する温泉地で、円山川が日本海に注ぐ河口近くに湯煙をあげています。花を浮かべて流れる大谿川、その両側には風にそよぐ柳の並木と軒を連ねる二階三階建ての木造宿。そんな温泉街を浴衣を着た人達がカランコロンと外湯巡りで下駄を鳴らしている風情豊かな温泉街です。

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街の玄関口にあたる城崎温泉駅前でバスを降り、温泉街へと向かって行きます。駅前から突き当たりに見える地蔵湯へと向かって伸びる駅前通りの左右には、お土産屋、喫茶店、宿が立ちな並び、まるで華々しい舞台へと続く花道を進むかの気持ちになれます。

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太鼓橋の架かる大谿川の川岸には柳が並ぶ、風流な佇まいの温泉街に辿り着きました。江戸時代には京都や大阪からの湯治客も多く、温泉番付では有馬温泉に次ぐと高い評価を受けています。現状でも充分旅情を感じられる街並みですが、道路脇にまだ残っている電柱を地蔵湯から一の湯までの300メートル程まで地中化して更に進化を遂げようと現在進行中。

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現在から約100年前の大正14年に起きた北但大震災で、当時も観光地であった城崎温泉は壊滅的な被害を被ってしまいました。地震発生が昼食前の時間帯だったためか、城崎では市街地の8割に上る建物が焼失、全人口3,410人の8%にあたる272人が亡くなり、その被害の多くは木造建築崩壊による圧死だったと言われております。

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その震災直後に町長・西村佐兵衛氏は外湯の確認に走り、「この湯の湧き出るかぎり城崎町は発展する」と町民を激励し、復興に熱を持って取り組んだのでした。

震災前より度々氾濫してた大谿川の川幅を2倍にし、岸を1メートル嵩上げにして玄武岩で護岸。そこに太鼓橋を架け、柳並木を拵えて現在の城崎温泉の骨格を造ります。また道路拡張の為に住民に所有地の1割提供を求め、町内のアチコチにコンクリート壁の家屋を配置して延焼防ぐ工夫を施します。城崎温泉は風情ある温泉街を保ちながら、防災も意識した温泉街として復興を遂げるのでした。

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今回お邪魔するのは城崎温泉の外湯ひとつ、「一の湯」の前に建つ「小林屋旅館」です。木造二階建て1部三階建て、正面二階に客室、三階に広間を配し、奥行きの長い平面で最奥二階建にも客室を配し、中間部に中庭と小さめな風呂を持つと城崎温泉の伝統的な旅館形態をよく伝える古い旅館です。

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現在の建物は大正14年の北但大震災の後に建てられたもので、ベンガラ塗装を施した耐風板壁を持つ建築物として有形文化財に最近登録されました。

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自分が旅館の中で最も好きな玄関部分の外からと、内からの眺め。屋号の書かれた下駄が多数並んでおり、如何にも温泉旅館という感じす。小林屋と白抜きされた紅花色の臙脂染めの暖簾も渋く、宿の傍に架かる横幅12メートルの「王橋」由来の「王橋のれん会」所属とも見えます。小林屋旅館は元禄期(1688-1704)に瀬戸物屋として開業。宝永7年(1710)に旅館業を営み初めて300年が経っています。

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案内を受けたのがコチラの川に面した2階の部屋で、日が落ちてからの到着だったので既に布団が敷かれていました。いつものように自分は宿に古さを求めてきたので、趣ある建物の外観とは異なりグッと現代的な室内には少し面を食らってしまいました。

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浴衣の上にあるネックストラップには外湯巡り使う宿発行のバーコードが印字された外湯巡り券が入っていました。以前は宿の浴衣と下駄がその役を果たしていたのが現代化し、このストラップを持っていけば普段着でも受け付けてくれるシステムになりました。

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部屋からの温泉街を見ると、目の前に立つ柳に半分隠れてしまっているクリーム色の歌舞伎座のような建物が「一の湯」。この外湯は合格祈願、交通安全に開運招福の湯とご利益があるらしいのですが、入浴するとどうして交通安全に結び付くのかが自分には理解不能...。この日に散歩がてらに訪れる「御所の湯」のご利益は火伏防災と、他の温泉では聞いたこともない効能が大々的に謳われており、何やら外湯同士が客の取り合いで何でもござれになっている気がしました。

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城崎温泉では昔より旅館内に浴槽を設けず、外湯(共同風呂)が基本であったそうです。上述の大震災後の寂れた温泉街への客足を戻す為にと、三木家旅館が昭和2年に内湯を設けようとすると町内で紛糾。昭和25年に源泉を温泉街で共同管理し、内湯と外湯の併設を認めることで和解が成立するまでに23年間も要しました。この小林屋旅館を含めて現在ではどの旅館でも当たり前のように内湯がありますが、その大きさにはいまだ制限があり、大きい湯船を希望する人は外湯へお越しくださいとなっているそうです。

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浴衣の上に丹前を羽織って、慣れない下駄をカラコロ鳴らしながら王橋を渡って、「御所の湯」へ行くことにしました。御所の湯は創建和銅元年(708)と云われる湯山主神を主神として祀る四所神社の隣りに位置しています。

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南北朝時代の歴史物語「増鏡」に文永四年(1267年)後堀河天皇の御姉安嘉門院が入湯された記事があることより、御所の湯の名はこれに由来するのだとか。その入口はまるで寺社のようでうですが、城崎温泉の外湯で最も新しい平成17年に新築されたもので、リニューアル前とだいぶ違った印象の建物になりました。ここまでの道で余り人を見かけなかったので、平日とは言え少し寂しい温泉街なのかと思っていましたが、この御所の湯周辺と中には沢山の外国人を含む入浴客がおり賑わいをみせていました。

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御所の湯から約200メートルの帰り道を再びカランコロンして、投宿している小林屋旅館まで戻ってきました。堀川越しに見える小林屋旅館の現亭主(9代目?)とは以前に偶然にお会いしたことがあり、現在はなくなった城崎温泉の遊郭の話しを伺った記憶があります。それもあって今回の城崎温泉での宿泊先をコチラにさせて頂いたのでした。

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部屋の広縁から望む左右の風景です。昨晩自分が外から戻った後も、柳並木をそぞろ歩きする下駄の音が室内にまでよく響いていました。下駄で歩く音は「カランコロン」とよく文字にされていますが、そんな風にはどうも聞こえず、どちらかと言えば「カツ、カツ、カツ」と感じに響いていると考えていたら、いつの間にやら眠ってしまったようです。

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目の前の一の湯は午前7時より営業開始らしく、カツッ、カツッの音が早朝より徐々に増えてきて目を覚ましました。温泉街では下駄の音の目覚ましも悪くないものです。昨晩は宿への到着が遅く夕食抜きでしたのでお待ちかねの朝食でした。

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この日は大阪市内で午後から打ち合わ予定があり、但馬飛行場→伊丹空港行きの10時発の便に乗る必要がありました。宿の主もこの日は東京に用事があるとかで千代田区内のホテルに宿泊されると聞き、「もしかしたら、伊丹からの飛行機で隣りの席になるかも知れませんね」と冗談を言いながら八時に宿を出発。宿の周りを少し散歩しながら、「昼と夜では受ける印象がだいぶ違うな」と考えてバス乗り場へ。城崎温泉への1泊2日の小旅行は小林屋旅館に泊まるだけで終わってしまいました。