古式捕鯨の里・通浦、クジラ漁を止めても鯨供養が百年続く漁村

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旅客機が日本海沿岸部の上空を飛んでいると、海上アルプスとして知られる青海島が目に入ってきました。現在は北長門海岸国定公園の一部となり、湾曲に富む海岸線と海食景観が見所の広域公園です。この海域は江戸時代には四大古式捕鯨基地として、紀州の太地、土佐の室戸、西海の生月島等と並び称される長州捕鯨の拠点港があった場所でした。

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アルファベットのCを描く島の先端部の集落が通浦(かよいうら)、その対岸に瀬戸崎(現在の仙崎)があります。通浦は鯨が必ずこの地域を通ることより通浦と呼ばれるようになったとも言われ、このグルっとした仙崎湾の閉鎖的な地形が天然の鯨捕獲装置となっております。夏場に餌の豊富なカムチャッカやアリューシャン列島等の高緯度地域より餌求めて冬に南下してきた「下がり鯨」が迷い込みやすい格好の漁場で、ザトウクジラやセミクジラといった大型のヒゲ鯨類を湾内で追い込み、暴れる勇魚を人力で捕っていました。

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熊野水軍の伝統が残る紀州・太地町で考案された集団漁方で日本各地に広まったものがあります。高く見晴らしの効く場所にクジラを探す山方を置き、その知らせを待つ舟方に狼煙や旗等で発見したクジラの位置を伝えます。その指示に従って追い立て役の勢子船、大網を張る網舟、クジラを陸へ引く持双船が目標に向かって一斉に漕ぎ出すのです。クジラの行く先に一辺30メートル四方の網を何十枚と繋ぎ合わせた大網を張り、狩り棒で舟の縁を叩いて威嚇しクジラをその大網に追い込みます。そして、網に絡まり自由を失ってしまったクジラに銛を打ち込むと、深傷を負ったクジラはもがき苦しみ続け、遂には溺死するのです。

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クジラの鼻に開けた穴に綱を掛けて、海中で一定時間の血抜きを行います。クジラは持双船に挟まれるカタチで曳かれ、浜辺に上げられると解体作業へ。クジラの油は灯火用や虫除けに使う鯨油、肉は食用、骨や髭は手工芸品と余すことなく利用したと言われます。鯨漁の歴史の古い紀州、土佐は鯨肉を主としたのに対して、後発の西海/長州捕鯨は鯨油に的を絞ったものでした。上の浜辺のジオラマでは鯨の脂肪層を含む皮剥ぎからに取り掛かっており、ベリベリベリとの音が聞こえてきそうな場面を再現したものです。

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鯨漁で成り立っていた漁村・仙崎(現在の山口県長門市)に生まれた詩人・金子みすゞは、東日本大震災時に繰り返し流されたACジャパンのTV広告「こだまでせうか、いいえ、誰でも」で再び脚光を浴びた人物で、自分もこの時に初めて知った人でした。大正デモクラシーに流行した童謡に彼女は大きく影響を受け、地域の慣わしである鯨の供養「鯨法会」を題材とした詩も書いています。

鯨法会は春のくれ、海に飛魚採れるころ、

浜のお寺で鳴る鐘が、ゆれて水面をわたるとき、

村の漁師が羽織着て、浜のお寺へいそぐとき、

沖で鯨の子がひとり、その鳴る鐘をききながら、

死んだ父さま、母さまを、こいし、こいしと泣いてます。

海のおもてを、鐘の音は、海のどこまで、ひびくやら。

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長門市仙崎より青海島へと大橋を渡り、対岸にあたる通(かよい)浦までやって参りました。青海島東部にあたる通の集落は仙崎湾と日本海に囲まれた漁師町で、夕暮れ前の港は静かな佇まいを見せていました。明治期のロシアやアメリカ等による北海捕鯨の乱獲により、回遊してくるクジラ減少を受けて通浦の捕鯨は明治四十一年(1908)に終わりを告げており、現在では烏賊を中心とする近海漁業の拠点となっています。上述の金子みすゞ(明治35-昭和5年)が幼少の頃には捕鯨が此処ではまだ行われており、鯨の供養(成仏)を願う鯨法会も彼女の記憶の片隅に残っていたのかもしれません。

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元禄五年(1692)年、通浦の向岸寺・讃譽春随上人は鯨の菩提を弔い、鯨の墓と位牌、鯨児過去帳を作成し鯨回向を実施しました。鯨に戒名を付けるのは此処だけとも言われ「寒誉妙白」などの名前が与えられ、成鯨には「誉」、雌鯨には「妙」の字がよく当てられたりしたのだとか。その後に通浦の行事となった鯨回向は、春に鯨漁を終える頃に羽織袴で正装した漁師達が5日間墓を詣でたと言われています。港の高台に立つ寺では現在でも年に一度、鯨回向が寺主催で催されており、漁民関係者が毎年参列しています。

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同寺の敷地には建立された青海島鯨墓があり、70体以上の鯨の胎児が墓の裏に埋葬されております。墓石の正面には南無阿弥陀仏と大きくあり、その下には4字4行の漢文で「業尽有情 雖放不生 故宿人天. 同証仏果」。有名な諏訪明神の四句の偈のはずだと思われ、その意味するところは、「業の尽きた生物は放っても生きられず、人の身となりてこそ共に成仏できる」程でしょうか?  当時と現代のモノの捉え方が大きく違うせいか、だいぶ人間の自分勝手な言葉に感じられます。

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屠殺/食肉を禁忌とする仏教思想が国内で広がるまでは、古代の神々と人々は狩猟/漁を挙っておこなっていました。山で狩りをするもの、海で漁をするものは新しく広まった仏教思想と両立する方便を求め、それに応じたのが「諏訪の勘文」であり、鯨墓や鯨法会だったのではないかと考えます。充分な耕作地を持たない地では特に猟/漁は欠かす事のできない行いであり、これを正当化することが必要だったのです。鯨墓の碑文の選者は、捕鯨を倫理上に正当化するのに諏訪の勘文を用いたのに違いありません。

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浦の中心にある鯨資料館の敷地には「くじら丸」と名付けられた鯨のカタチを模した舟が置かれていました。これは毎年7月に開催される「通くじら祭り」の中で古式捕鯨の再現に用いられるものです。勢子船に乗った若者達が全長13.5メートルの鯨舟を海上で湾内に追い込み、銛を放ち、鯨に跨った羽指が刃物でトドメを刺すと赤い潮が上がるり、男達が「鯨を捕ったぞ〜」と雄叫びをあげて捕鯨を再現するのが祭りの華となっています。

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鯨一匹捕れば七浦潤うと言われた捕鯨。金子みすゞが生きていた時代には既に「いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。」と歌われた通の漁港。通浦はクジラ漁を止めてから既に百年の年月が経過していますが、鯨への恩を忘れずに供養を毎年続けている稀有な場所です。鯨が捕れなくなった現在でも、海の鳴く声が聴こえるのでしょうか。

海の鳴る夜は

冬の夜は、

栗を焼き焼き

聴きました。

むかし、むかしの鯨捕り、

ここのこの海、紫津が浦。

海は荒海、時季は冬、

風に狂うは雪の花、

雪と飛び交う銛の縄。

岩もこ礫もむらさきの、

常は水さへむらさきの、 

岸さへ朱に染むという。

厚いどてらの重ね着で、

舟の舳に見て立って、

鯨弱ればたちまちに、

ぱっと脱ぎすて素っ裸

さかまく波におどり込む、

むかし、むかしの漁夫たち~

きいてる胸も

おどります。

いまは鯨はもう寄らぬ、

浦は貧乏になりました。

海は鳴ります。

冬の夜を、

おはなしすむと、

気がつくと~