国立病療養所・大島青松園、消えゆくハンセン病患者収容所の庵治大島

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船に乗り込み、客室に足を踏み入れると昼間なのにカーテンがきっちり閉められていました。カーテンを締切るのは夜行バスや夏場の旅客機でも見たことがありましたが、それらは外光により睡眠の妨げや駐機中の客室温上昇防止が目的で、外部からの視線を遮るためにカーテンが閉じられた船には初めて乗りました。

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今回の目的地は香川県の県庁所在地・高松の沖7キロにある「大島」で、前々回の伊豆大島、前回の奄美大島に続き大島巡りの3回目となります。この船の出発時間に間に合わせるため、仕事の打ち合わせを市内でアッと言う間に切り上げ、瀬戸内海の島々への船が出る高松港にやって来たのでした。船着場の延長線上に見える1番手前の島がその大島です。背後には更に数倍も大きい小豆島も見えるのに、なぜ「大きい島」かと言うと、高松藩が領有する島で最も大きかったので「大島」と名づけられた由来があるのだとか。

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大島は特殊な事情を持つ島でして、大島にある施設に事前申告しなくては上陸できません。高松港と大島を結ぶ船は厚生労働省が所有する官有船で乗車賃は無償、1日に数往復が就航しています。フェリーターミナルの一角に設けられた事務所にて手続きをおこない乗船時間を待っていると、日本財団のバスが2台並んで高松港に入って来ました。白い官有船「まつかぜ」が桟橋に到着すると、ある人は徒歩で、またある人は車椅子に押されてバスへとお喋りをしながら向かっていました。それらの人達にはハンセン病患者だったと見受けられる方も複数目にしました。

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国土地理院の地図で見ると、高松市と大島(高松市庵治町に所属)はまさに目と穴の先と言った場所で、大島と対岸の庵治町までは1kmほどしか離れていません。イギリス大使館前で癩病患者が行き倒れ、「日本は癩病患者を放浪させる国なのか!」と叱責を受けて明治40年(1905)に急遽制定した法律「癩豫防ニ關スル件」が公布され、中国・四国地区の癩病患者を隔離する施設・第4区療養所/大島療養所(定員170名)が大島に明治42年に開設されました。

水資源が乏しい為か江戸時代に半農半漁の島民が10軒程だったと不確かながらも伝わる小島が、なぜ療養所として選ばれたのかを施設の方に尋ねてみたのですが明確な答えは得られませんでした。中国・四国8県(岡山、広島、島根、 山口、徳島、香川、愛媛、高知)の中心に位置する訳でもなく、先日訪れた群馬県草津の栗生楽泉園のように草津温泉にあった癩病患者の共同体を前身としている様な理由も見当たらず。どうやら、香川県知事が大島が適所と示し、地元及び議会から反対を受けるも内務省の支持を得て大島に設置された経緯までは分かったのですが、8県合同事業にて、なぜ香川県がその任に当たったのかまでは分かりませんでした。

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4人の乗客をのせた船は大島港に20分ほどで接岸。桟橋に並んでいる2隻が官有船まつかぜ(86人乗り)&せいしょう(180名乗り)です。大島の西には桃太郎伝説の鬼ヶ島とも云われる女木島・男木島。南には源平の一大合戦地・屋島が聳え、東には醤油とオリーブとそうめんの小豆島があります。船の乗組員及び大島の港の職員の方々がマスクをされていたの気になってしまいました。風邪等の感染予防なのか、元ハンセン病患者の方で顔を覆っているのかと色々考えてしまいました。

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船着場を降りて直ぐの場所に松の木に覆われた広場がありました。そこには日本人として初めてチベット入りした河口慧海に師事した経緯を持ち、ハンセン病患者の慰問に尽くした臨済宗の僧・山田無文氏揮毫による「心月園」と彫られた石碑が立っていました。師・河口慧海よりの教えに「この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへも素足で歩けるがそれは不可能である。しかし自分の足に七寸の靴をはけば世界中を皮で覆うたと同じことである」という法話があったのを離島の広場で思い出しました。

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引っ張りに、引っ張ってしまいましたが、今回の訪問先は瀬戸内海に浮かぶ離島・大島にある 国立療養所・大島青松園で、全国に13箇所ある国立ハンセン病施設のうちのひとつです。島の南側に僅かに残る民有地を除くと周囲7キロもない小島の9割が国有地であり、戦後すぐの最盛期で700名、現在ではその10分の1程の人々が共同生活を送られています。

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国内全ての患者の生涯隔離を計る「癩予防法」の制定がなされてから65年続いた悪法が廃止されたのは現在からそう遠い昔ではない平成8年。長すぎる時間が過ぎていました。ハンセン病患者と国の間で合意がなされ、国はその過ちを認め行政、立法、司法の府がハンセン病政策の過ちに謝罪をおこない、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が施行されたのが平成21年(2009) 4月1日でした。  

戦前には患者区域を汚染地区として有刺鉄線の付いた囲いで有毒無毒境界線が引かれていました。現在では跡形もなくなってしまいましたが、昔の地図には隔離病室、監置室などの隔離地のなかの隔離施設も見えます。一般人の見学など論外であった隔離島もハンセン病問題基本法に盛り込まれたハンセン病に対しての正しい知識の普及啓発の趣旨により、広く門戸を開く事となったのでした。

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大島カトリック聖心使徒会。全国にあるハンセン病施設同様にその敷地内に宗教施設が多数立地しているのを目にします。癩病患者は非感染者と席を同じくする事ができない為に、憲法上で高らかに謳われる国民の義務も権利も適応されない期間が長く続いてきました。平成になり吹き荒れた公有地上の宗教施設問題もこの隔離島には届かずに無視をされる運命なのか、国有地上に多くの宗教施設が立ち並んでいるのを目にしました。

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この離島にはかつて学校が3つありました。現在まで残っているのは1906年に開校した庵治尋常高等小学校大島分教場(現・庵治第二小学校)です。庵治第二小学校は島民および、島に務める職員の子供達が通っており、多い時には30人近くの生徒が通っていた時期もあったそうですが、校長先生、担任の教師、そして女子生徒1人の学校は今年の春に催された卒業式で休校となったと島の職員の方に教えて頂きました。

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現在では高松から海底パイプを経由して給水ができるようになっていますが、以前は数ヶ所の井戸、島の南の山を水源とするも、小川も見られない小島では水の入手に苦労が尽きなかったようです。庵治第二小学校から南に伸びる道を蜘蛛の巣を掻き分け突入しました。何処かで"監房室"が南山の貯水池側にあったと目にした記憶があったので探してみようと思い、頭上を橋のような構造物がある場所まで上るも、いっこうに貯水池の様な場所が見当たらず撤退...。

後で地図を確認すると、1本東側の道に行けば貯水池と100トン貯水タンク2基が見られたと分かりました。下調べをすると見えなくなる事も多いですが、下調べをしないで見逃すものも多いようです。島から逃走した等の不良行為に対する罰を与える場・監房室は郵便局に近い場所に実際はあったようで、高さ2メートの壁を囲われた建物だったようです。

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蜘蛛の巣に顔から突入すること数度、山から下りて今度は島の反対側を見学しようと北へと向かいました。海が荒れると船が接岸できなくなるので、緊急輸送の為にと整備された大島ヘリポートと旧看護婦寮の間の小路を進んで行きます。島の南側の集合住宅には人が住んでいる気配が疎らで、住民が外を歩いている姿を見ることはありませんでした。

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第二センターと呼ばれる住居棟の一角に猫の溜まり場がありました。でっぷりとした大猫様もいたので飼い猫なのかも知れません。この辺りも空き部屋が多そうな雰囲気ですが、整然と並んだ建物には人が住んでいる気配も感じました。

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他のハンセン病施設同様に園内には盲導鈴(スピーカー)があり、目が不自由な方の道標となっています。流れていた曲は「乙女の祈り」と「ローレライ」で夜間を除く全日流れているのだとか。鉄道の駅等の公共施設で耳にする事のあるか「ピン、ポーン」という機械音を発する音声誘導装置と同じ役割です。また、道には盲導索(ガードレール)が設けられ、目の不自由な方が杖で叩いて曲がり角を認知できるようにと設置されています。

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多くの建物が密集する平野部の北にある宗教施設地区へと上り坂を歩いて来ました。道路にT字型に不自然に引かれている白線は自動車向けのセンターラインではなく、目の不自由な人向けの案内線です。ハンセン病患者は角膜炎から失明する事も多く、普段街中で見かける点字ブロックを用いないのは知覚障害により認識できない恐れがあるためだそうです。信号ひとつない小さなこの離島でも交通事故があったと聞き、少し驚きでした。ネットで過去のニュースを検索してみると職員による轢き逃げ、恐喝等が出てくるので、表面化していない問題も多いのだろうとと思いました。

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不治の病、天業病と恐れられていた癩病患者は、故郷からも家族から追われ物乞いが生きる術でした。癩病患者が家族にいると世間に知られないように、親の葬儀にも参加できないどころか、自らの死後に灰になっても故郷の墓に入れない悲惨な人生を送ったのでした。なので、一般の療養施設にはない納骨堂が全国のハンセン病施設には必ず有ると言われています。大島青松園で開園から亡くなられた2,000名以上のうち9割以上の人達が此処に葬られています。納骨堂の中には入っていないのですが、職員の方よると、「家族へ迷惑をかけないようにと、骨壷には名前を入れていない物が多数ある」と教えて頂きました。

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瀬戸内海の穏やかな景色の見える高台に立つ納骨堂の隣りには3つの石碑が立っています。、島で亡くなられた方の碑、強制堕胎にて命を失ったこどもの碑、そして大島青松園2代目所長・小林和三郎氏(在任1911-1933)の碑が並んで立っていました。癩救療事業にて高名な方らしく、この地に碑があることよりも療養者からも慕われていたのでしょう。島上陸時に見た松の繁る心月園は、41年間渡り大島勤務をした青松園3代目・野島泰治所長を功績を讃えて造られた公園だとも聞き、青松園の入所者と勤務者は概ね良好な関係にあったのではないかと察せられました。青松園は他ハンセン病施設と比較して外出許可も容易に得られたようです。

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宗教地区を更に上って行きます。イエス・キリストが癩病患者を癒した故事により、ハンセン病施設には教会が多く見られます。坂の上には昭和10年(1935)に建てられた大島青松園礼拝堂が見えています。設計者はメンソレータムで有名な米国人建築家のヴォーリズ建築事務所で、費用は米国キリスト教ミッション団体よりの寄付により建立。沖縄本島にて現在の国立ハンセン病施設・沖縄愛楽園を築いた青木恵哉氏がキリスト教に改宗した場所でもあります。

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大島神社です。建物の基礎部分と社殿の違和感を尋ねると、島の北の山中腹にあった大島神社を2017年秋に宗教地区に移築されたばかりとのこと。それにより、入所者の方々が初詣ができる様になったとの解説を受けました。おおもとは中部地方にあった社殿を貰い受けた社なので2度目の移築になるそうです。御祭神は伊勢神宮と出雲大社の分霊を合祀と説明書きにあり。出雲大社の大国主命は皮を剥がされた因幡の兎に薬を塗り救った故事により、薬の神としても崇敬を受けたのでしょう。

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電話ボックスに入った島内電話が島内のアチコチに設置されていました。島内の説明を頂いた職員の方と工場作業をしていると見受けられた3人を除くと、誰も外を歩く人を見かけなかったぐらいなので、島内移動時に緊急事態発生→電話が活躍する事はあまりなさそうです。

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先日訪れた草津の元癩病患者集落跡でも見られた四国霊場巡りを模した石佛を巡る小路もありました。戦前は大島の北の山をぐるりと周回する様に配置されていた石佛を、上述の大島神社同様に集落近くに集めて一目五寺巡りができるようにと、宗教地区に再配置されたそうです。

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青松園には離島故に全国のハンセン病施設で唯一実働している火葬場があります。島の西北端には園開始当時に発足した自治会により運営が開始された養豚場(上写真)があり、半世紀に渡り患者によって運営されていました。火葬場・風の舞はこの養豚場の跡地に建設され、現在は平成13年に新設された火葬場が立っています。その火葬場に隣接する土地には、物故人の骨を収める庵治の石材を用いたモニュメントがあり、西の空を向いていました。

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生涯孤島。島から高松の街の灯を遠く眺めたことでしょう。中世期には社会の片隅にて存在することを黙認された癩病を患った人々。不治の病である事と共に爆発的な感染力もないことは経験則として世の人々は知っていたはずです。癩病への恐れ、全体主義、優生主義を背景として癩病/ハンセン病は国辱病とし扱い受け、強制隔離による撲滅が目指されたのは近世になってからでした。

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現在より900年以上前の平安時代末期にあった源平の屋島の戦い。戦いでの亡骸と共にその武具を埋葬し、墓標として植えられたと云われる松の木々が島の玄関口に立っています。青松園が大島にできる前の島の確かな記録は残っておらず、戦後ですら高潮や台風被害を受け胎児標本を含む多くのモノが廃棄され消えてしまいました。白浜黒松に覆われた美しい大島で暮らしている現在の入所者は54名、平均年齢は既に84歳を超えています。これから10年、15年と経つと誰もいなくなり島だけが残ってしまいます。