田儀櫻井家たたら製鉄遺跡(宮本鍛冶屋跡)を訪れてみた

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島根県中部に奥出雲の製鉄御三家である田部家、櫻井家(仁田本家)、絲原家に継ぐ家各を持ったと云われる田儀櫻井家の拠点であった江戸時代のたたら遺跡群があると山口県にある大板山たたら遺跡で教わり、仕事の隙間をみてやって来たのでした。上の写真は日本海に面する田儀港で、現在は土砂の積み込み作業や漁業に用いられていますが、砂鉄を原料として製鉄をおこなっていた頃には砂鉄や製品である鉄塊の運搬がなされた港でした。たたら遺跡巡りには絶好の晴天(*´艸`*)ウシシ

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地図で示すと上のような位置(赤マル位置が田儀櫻井家のたたら遺跡の中心地・宮本)にあります。島根半島の最も西側には全国的に名高い出雲大社があり、その南に広がる出雲平野には須佐之男が天上より降り立った船通山より流れ出る斐伊川が流れて宍戸湖に注ぎ込んでいます。そこから道程にして30キロほど西へ向かった山中にあるのでした。田儀櫻井家は宮本の大鍛冶場を中心にして、周囲にある出雲/石見に点在するたたら場より製鉄された銑や鉧を集め、宮本で加工して田儀港より関西や北陸へと出荷するのを家業としていました。

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通称「田儀櫻井家たたら製鉄遺跡」と呼ばれる場所は田儀川を河口から8キロ程遡ぼった、前後を急峻な山に囲まれた谷間にあります。集落跡の象徴的な建物となっている文政四年(1821)に建立された浄土宗・知光院が集落入って直ぐに現れました。寺の横には櫻井家を始めとする墓地も見えます。墓地の周囲は何年か前に出水があり被害があったそうですが、修復作業がなされたとの事でした。最盛期には170世帯、700人が山内にて働き年間30トンもの和鉄を出荷していたそうで、山内集落から外部へとつながる道は現在も江戸時代も限られていたでしょうから、和光院の前の道も山内で製品化された包丁鉄等を満載した牛車が行き交っていたことでしょう。現在は現存していませんが、知光院の周囲には民家や共同浴場があったそうです。

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奥出雲の仁多櫻井家の分家となる田儀櫻井家の邸宅跡です。背後は5段の石垣が残る特異な風景が見られました。足元には大きな水場も遺構として静かに残っています。仁多の櫻井家初代の時代に地元の要請に応じるかたちで宮本へと進出し、長男の直春が本拠を構えて製鉄業を開始したと遺跡に立つ案内板に書かれていました。此処での製鉄業は19世紀に最盛期を迎え、出雲国では製鉄御三家筆頭の田部家に次ぐ収益を得るまでに栄えるも、鉄価格の下落や明治十五年に櫻井家本宅を含む70戸が大火により焼失。明治二十三年(1890)には250年間営んできた製鉄業を断念したのだそうです。

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田儀櫻井家の邸宅跡から宮本川を渡ります。宮本鍛冶屋跡の製鉄作業の中心であった大鍛冶場には木製の立札があるだけでした。周囲のたたら場で村下と呼ばれた現在でいうところの工場長の指導の元で砂鉄から製鉄した材料を運び込み、此処で加工した割鉄(板状の鉄板)が大阪、北陸、九州へと販売されたのでした。周囲のたたら場で造られるそのままの鋼材はそのままでは2-3割ほどしか販売できる状態ではなかったため、此処の大鍛冶場での加工は必須。大鍛冶場の腕により品質(売値)が変わった為にその責任は重大で、給与もたたら場の村下の数倍と厚遇されたのだそうです。

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山内集落内の山腹に鎮座する金屋子神社。製鉄の神である金山彦命と金山姫命が祀られています。元分元年(1736)に西比田の金屋子神社より勧請され、現在の欅材の社殿は天保15年(1844)に建てられたものだそうです。5月5日にはお祭りも開催されており、山麓の灯籠から110段の石段、本殿とセットで現存している金屋子神社は数少なく実に貴重な遺構です。

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金屋子神社の麓、東側100メートル程に広がる山内集落跡。山腹を削って平地をひな壇状に造ったようで、石垣で区切られた一区画は目算100平米ほど。写真右手の"道"はこの居住区画の主要な通りで、製鉄が途絶えて1世紀の歳月が過ぎようとしていますが往時の様子が脳裏に浮かぶかのようです。

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居住地区を登って行くと石組の貯水池跡が見えました。周囲は杉の植林が広がっており、その足元には下草が結構生えていました。山陰の山間部は江戸時代に盛んだった製鉄業に必須な炭獲得の為に広域で樹木の伐採、植林が進められた結果、二次林ばかしとなっています(現在の島根県の森林率は78%、人工林率39%です)。そのなかでも中国地方は花崗岩域が広く分布しており、太平洋側に多い椎や柏、東北方面に多いコナラでなく、火力の強い赤松が二次林として自然に再生するという自然の仕組は面白いなと思わされます。

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奥田儀の宮本集落は1995年に無住となり、現在は有志の方々により宮本鍛冶屋跡は管理がなされております。この宮本鍛冶屋跡は8キロ離れた朝日たたら遺跡などと併せて、「田儀櫻井家たたら製鉄遺跡」として往時の遺構をよく残す遺跡として平成十八年に史跡名勝天然記念物に指定されました。