今年で開催1024回目!? 東京板橋区の徳丸北野神社・田遊びを見学

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今回は東京都板橋区で毎年催されているお祭り「徳丸北野神社・田遊び」を家族で見に行った話しとなります。そのお祭りの舞台となる徳丸北野神社は現在より遡ること千年余り。当地にて疫病が流行した時に、梅の古木に祈願をしたところ疫病が去ったやめ、梅で有名な京都北野天満宮より御分霊を頂いたことにより長徳元年(995)に始まったと伝わる、長い歴史を持つ古杜なのだそうです。自分は生まれも育ちも東京なのですが、このような祭りがあると今年になり初めて知っての訪問でした。

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この地、徳丸ヶ原は荒川南岸の後背湿地で耕作には適さず、大根など野菜栽培が江戸時代には盛んにおこなわれていた地域でした。本格的に開発が始まったのは明治に入ってからで、荒川大改修を契機にして「徳丸たんぼ」と呼ばれる東京最大のコメどころへと変化。昭和四十四年(1969)には東洋一といわれた高島平団地の建設と、100年程で目まぐるしく景色を変えたのでした。上のカラー写真は現在の板橋区北西部、下の白黒写真は昭和三十六年(1961)のもので田圃が広がっていた頃のもの。見比べると荒川低地で大規模開発がなされた様が見て取れるかと思います。赤マル印がある場所が武蔵野台地上にある徳丸北野神社で、眼下に田畑を見下ろす場所に鎮座していました。

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徳丸北野神社にて旧暦正月11日におこなわれる伝統行事が「田遊び」で、五穀豊穣と子孫繁栄を祈願する"豊穣予祝"のお祭りです。予祝というのは、未来に起ることを予め祝う事により実現させようとする行いで、秋の豊作を願って春にはお花見を、夏には夏祭りをする起源であるとも云われているものです。自分達が神社に到着した時には既にお祭りが始まっており、最初から全てを見る事ができなかったのですが、同じ板橋区で「田遊び」を現在でもおこなっている赤塚諏訪神社で見た最初の「町歩調べ」の動画がこちら↓↓↓

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田遊びは農作業の春先の準備から収穫を神前にて演じ、豊作を引き寄せる祭りです。先ずは農地の広さを確認する「町歩調べ」に始まり、耕起から砕土にいたるまでの一連の作業の「田打ち」、「田うない」をおこない、田圃の状態を整えて土と水を馴染ませます。その後の段階である「種蒔き」からが自分達が見始めた場面で、田遊び主導する「大稲本」、補佐役「小稲本」と「鋤取り」達が四方に向かって合計十二箇所に種蒔きをするのでした。

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 「鳥追い」田んぼを荒らす鳥を、ささらを鳴らして払う。儀式を通して、全ての場面で大稲本が皆に向かって「よう、よなんぞうどの(米蔵殿)」と声を掛ける事に始まり、鋤取り達が声を揃えて「よ〜う XXXX(これからする事)」と応じることで始まっていました。鳥追いの場面では「よ〜う、神で田から鳥追いをし申す」となって始まり、その後は大稲本/小稲本と鋤取り達の「掛け合い唄」で進行していきます。その後に田んぼの様子を見て回る「田廻り」をおこなって前半が終了となったのでした。

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真冬にあたる2月の夜で足下から寒く、舞台からお神酒がふるまわれると多くの人が手を伸ばしていました。八戸のえんぶり祭りと同じく、最も寒い時期に催すのは、大地に春の到来を告げる意味があるのでしょう。自分は運転があるので遠慮しましたが、呑兵衛な妻と日本酒はいける口の息子は多くの見学者同様に手を伸ばして受け取っていたのでした。現在では午後6時頃に始まり、2時間ほどで終了となるお祭りですが、これも冬から春への見立ててか以前は深夜におこなわれるものだったそうです。

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大稲本と小稲本が手にもっているのは餅と接骨木で、これを合体させると鋤になるという寸法です。後半の最初は「春田うない」で、作った鋤を持って太鼓のまわりをグルグルと廻り、田んぼを打って田慣らしをする行為です。大稲本「よう、よなんぞうどの」、鋤取り達「よ〜う、神で田で田からうない申す」。「うん、千町万町たばのせ、あん、こ〜れもごゆいた〜ばのせ」と寒空に響きます。田遊びの唄は全体を通してですが見学者に向かってでなく、どちらかと言えば地面に向かって唄っているように感じられました。真っ直ぐに声を出すのでなく、大袈裟に表現するならば口中でもごもごと歌った声が漏れ聞こえてような音が響くといった感じ。

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「田かき」。代掻きとも言われる田を掻く作業です。頭に松竹梅を表すとも言われる黒、緑、赤で彩られた牛役が登場。手書きの愛嬌ある顔をした牛によってなされ、「牛やい、牛やい、牛やい。今年良し、早生も良し、良い中稲も勝り、晩稲はほながでやよ...」との唄と共に、牛役が太鼓のまわりを三度もまわるのでした。田掻きを終えた牛は人々に労われます。その時の動画が↓なのですが、牛役が通る度に取り囲む人達が牛役を可笑しく打つ姿に、此の地域の人々の繋がりを見た気持ちになりました。毎年似たようなメンバーで舞台の上に立たされて、地区を代表格の大人が「うし、うし」言わされているのですから仲も良くなるものなのでしょう。

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「田ならし」。田んぼに肥料を入れて均す行為です。大稲本と小稲本が手にもっているものは絵馬で拵えた柄振り(長い鍬のようなもの)。

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「田植え」。大稲本、小稲本が苗に見立てた早乙女(子供達)の頭を白扇であおぎ、「今年の稲は七穂で八升、八穂で九升よ」と一同で唄い、鋤取り達が田んぼ(太鼓)の上で高く早乙女を掲げるのです。子供が持ち上がる姿は稲の成長と子供の成長を暗示するもので、そこに早乙女と名付けたのは女性の生殖力にあやかろうといったところでしょうか。

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小休憩が入り、すこし離れた場合より神社の敷地に設置された舞台を見てみると、青忌を四方に立て、注連縄で囲った「もがり」は神楽舞台のようで、天神様を表す梅の入った法被を男達が田圃に見立てた太鼓を囲んで立っているのでした。ここで農作に纏わる一連の作業を、唱え言葉と所作で再現しているのでした。このような祭りは日本全国で類似のものが以前はおこなわれていた筈なので珍しくはなかった筈ですが、現在では数が少なくなり観光客が遠方から訪れる程に。昔は忌竹で舞台等組まず、地面にゴザを敷いただけ...

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それぞれの所作の意味するところや、独特の言い回しの唄の意味が全く分からない子供達は戦線離脱し、参道に出店していた簡易食事処でうどんをハフハフしながら食べていました。この国の多くの人々は稲作を中心とする生活を千年以上に渡り営んできました。江戸時代でおよそ8割の人々が農家(漁労を含む)であたのものが現在では1%少しとなり、その7割が65歳以上の高齢者が占めるといった具合です。代々農家であった我が家も現在では耕作は全くおこなっておらず、自分も自分の子供達も日常生活で農作を目にする機会すらありません。稲作農家であれば誰が見ても分かる所作も現代人にとっては能や神楽と一緒で予備知識なしにはチンプンカンプン。狂言のような"田遊び"も、我が家が稲作をしていれば子供達に映る姿も違ったのだろうかと思うのでした。

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「呼び込み」。子供達の面倒を見ていたので「呼び込み」の前半部分を見逃してしまいました。疫病を払う獅子、駒。その次に太郎次と大きなお腹(妊婦)の安女が現れ、抱き合う仕草をみせては子孫繁栄と五穀豊穣を表現します。少し前までもがりの上で演じられる農事を見るだけだった観衆は次々と登場する滑稽な動作をする演技を見て活気づき、笑い声に包まれるのでした。この外部から入ってくる者達により会場が祝祭的な雰囲気になるのを感じられました。

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「稲刈り」と「稲むら積み」。大稲本と小稲本が鎌で松梅の稲を刈り、田圃である太鼓を揺らした後に田遊び道具一式を積み上げ、豊作を祝い、手締めで終了です。赤青黒ストライプ柄の身体で、大きな男根を持った人形はヨネボウ(夜寝坊?)と呼ばれており、女性を象徴する田圃(太鼓)の上に豊作の願いを象徴する様に置かれていました。

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徳丸北野神社と近隣にある赤塚諏訪神社の田遊びは、共に三嶋大社のお田打ちの影響が強く受けていると云われています。男女和合と五穀豊穣を併せた神事・田遊びの起源は記録にこそないものの、稲作伝来以前の農耕期にもカタチは違えど行われていた事でしょう。もしかすると、焼畑にて小豆や里芋などの根菜等を育てていた縄文時代まで遡れるかも知れません。古来より田畑に種子を撒き、収穫をする農耕作業と共に、人々の切実たる願いである豊作を祈願することはカタチを変えながらも脈々と伝えられてきたものだと思われます。現在の東京23区内に水田は皇居、六本木ヒルズ屋上庭園等と両手で数えられる程しか残っておりません。それらの僅かな水田でも生業として稲を育てている場所は皆無です。一時期は東京市民の半数を賄ったとも言われた徳丸たんぼも完全に姿を消しました。徳丸北野神社の田遊びにて、大稲本、小稲本、鋤取りを務めた人達のなかで専業で稲を育てている人はおそらく一人もいないことでしょう。「田遊び」がその様な土地において、そのような人達により現在でも続いているのはどうも不思議に思えてならず、神事はこうあるべきという願いの強さに脅かされたのでした。