筑波に向け宜候 、廃墟の鹿島海軍航空隊基地のボイラー室見学(15年前)

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茨城県に行って参りました...と言っても茨城は父の郷里でもあり、自分とも縁が深い土地なので頻繁に訪れる場所でもあります。琵琶湖に次いで日本で2番目に大きい霞ヶ浦は茨城県の総面積の3.5%占め、大海のごとく広く波打つ姿は紫峰の筑波山と共に自然豊かな茨城のシンボルとなっています。今回はそんな霞ヶ浦の湖畔に来てみました。

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自宅で昔の写真を整理すると、霞ヶ浦で撮影した写真が沢山出てきました。上の銭湯のような高い煙突を持つ屋根の壊れた建物は旧帝国海軍の遺構であると知ったのはだいぶ経ってからで、大山スロープと言われる霞ヶ浦に突き出したスロープで遊んでいた時に面白そうだと思い探索したのでした。

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東京から80キロと近く、平坦な土地が入手し易かった茨城県には多数の航空基地が戦前設けられました。水戸、阿見、笠間、石岡、筑西、小美玉、潮来等と数多く、当時訪れた煙突建屋は鹿島海軍航空隊が霞ヶ浦の湖畔で水上機の訓練をおこなう練習航空隊の基地の施設でした。そこは霞ヶ浦航空隊に学んだ予科練出身の練習生が実技を学んだ場所でした。

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 その鹿島海軍航空隊基地の建物は現在の茨城県美浦村にあります。茨城県にある2つの村のひとつ(もうひとつは東海村)で、美浦村は日本一の規模を誇るサラブレッド調教施設・JRA美浦のトレーニングセンター、東海村は原子力施設があり共に確固とした財政基盤を持っているようです。

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鹿島海軍航空隊基地のあったこの湖畔一帯は東日本大震災の時に戦前からのコンクリートスロープが大きく破損する被害があり、その後に公的予算が投入されて大山護岸災害復旧工事と共に防災拠点として整備、大きくその姿を変えています。水上スキーを楽しむ人達が多く訪れるのには変わりはありませんが、道路も整備され「カドにある角屋さんを曲がって、細い道をグネグネ行けば湖畔に着く」と意味不明な説明を初訪問者にする必要が不要になりました。

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戦前の航空基地時代に使用されていたコンクリート製の燃料倉庫の前に、ここが鹿島海軍航空隊の跡であると記念碑が立っています。戦後比較的すぐに米軍にり空撮された基地跡の写真で確認すると赤枠で囲った部分が基地だった場所で、敷地内には現在でも当時の遺構を見ることができます。

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現在の陸上自衛隊土浦駐屯地は予科練で有名な土浦海軍航空隊(原隊・霞ヶ浦海軍航空隊)があった場所に立っています。昭和14年に飛行予課練習部(通称:予科練)が鎮守府・横須賀から阿見に移転し、終戦まで全国の予科練の中心的な役割を担っていました。七つの海を表す「七つボタン」の制服を着た青年達が海軍の町・阿見を闊歩していたのです。

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鹿島海軍航空隊基地のある土地の端っこにある水上機を射出する装置・カタパルトのダ台座跡。コンクリート製の土台に基台をとめるアンカーボルトが多数突き出ています。その基台の上にレールを乗っけて、火薬を爆発させてバーンと航空機を放つ装置です。危険防止の為に少し前まで土嚢が置かれていたはずですが、風化して元に戻っています。

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 九三式水上中間練習機、通称あかとんぼ。「筑波に向け 宜候(筑波山に向かって舵を切れ」と怖い教官に扱かれながら、この霞ヶ浦上空を練習生達は翔んでいたことでしょう。現在でも大山スロープ前に2つのハンガーがあり、水上飛行機愛好家が集う場所でもあります。

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湖畔に突き出た老築化して通行止めとなっている桟橋も戦前のままの姿。霞ヶ浦に向かって座っている人物は、飛び立った練習機が無事に帰着するのを待っている場面でしょうか。

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15年前に廃墟探索をした煙突建屋が見えてきました。基地だった敷地の北側には国立環境研究所が置かれ、戦後に残された海軍施設は東京医科歯科大学・霞ヶ浦分院として平成九年まで内科を中心として霞ヶ浦地域の医療に尽くしてきました。南側を主とする地区は美浦村が取得し、現在は太陽光発電のソーラーパネルが並んでいます。

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ここは自力発電所の建屋。自力と言っても、あくまで非常用の電源設備で外部からの電力供給がなくても一時的に設備を稼働させるためのものです。上の緑生い茂る写真のなかでは電柱柱が敷地に立っていますが、綺麗に撤去されてしまい現在では見ることはできません。

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現在は敷地内に立ち入ることが禁止されており、役所の管理下となっておりますが、当時の航空隊本庁舎だった建物もこの有様です。厚さ30cmのコンクリート建ての内部はシャンデリア、セントラルヒーティングに水洗トイレを完備した豪華なものであったと美浦村誌に記述がありました。

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15年前に入った煙突のある建屋がこちら。基地時代の言葉・汽罐室は現在であればボイラー室で、上述の本庁舎のセントラルヒーティングの熱供給源。引っ張りに、引っ張ってしまいましたが此処から緑濃い夏場に訪れた15年前に戻ります。

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訪れた時の記憶はだいぶ薄くなってしまいましたが、入ってすぐの宿直室だったと思います。当時は戦前の建物だと認識が全くない状態での探検だったので、散乱している物はよく見ませんんでした。東日本大震災後に廃墟となった家屋に許可を得て最近入りましたが、散乱具合はたいして変わらずといった印象を写真から受けます。

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窓は割れ、赤錆びたトタン壁の内部の主は煉瓦造りの大型ボイラー x 2基。このボイラーはランカシャーボイラーと言って、国内でも珍しいものらしいです。製造は全国各地でその名をプレートで見る東京月島・安藤鉄工所のもので、非常に重厚感を感じさせるものでした。

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落ちた屋根から覗く、空に向かって伸びる煙突。目の前のボイラーは整備すれば稼働しそうですが、煙突から出る黒煙を見たら国立環境研究所の職員が隣りから怒鳴り込んで来るかもと考えたのを思いだしました。当時撮った写真はあと残り2枚。ブラウン管テレビが脚元に放置され散らかった場所に立つ、戦後に設置されたと思われる小型ボイラー。それと汽罐室の外観を写したものがデータとして残っていました。

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