ヒヤミカチ首里城、ついでにヒヤミカチ(たちあがれ)王朝菓子

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沖縄・首里にやって来ました。上の写真は「御茶屋御殿石獅子」と呼ばれる石像で、この獅子は御殿や首里を火事や災難より護る役割を担っていました。火難をもたらすと考えられた本島南部の八重瀬岳に向かって御茶屋御殿(琉球国王の別荘)の端に立っていましたが、沖縄戦にて破壊されてしまったのを修復/移築したものです。御茶屋御殿跡地は沖縄戦による無数の死者が埋められた場所で、その土地には現在は首里カトリック教会が建っています。

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首里カトリック教会近くの場所にある雨乞御嶽。琉球国王自らが雨乞いをした故事に因む場所で、首里八景のひとつにも数えられており、雩壇春晴と謳われた高台から見下ろす那覇方面への広がりのある景色は現在でも素晴らしいものです。此の高台から北側を望むと、令和元年10月31日未明の発火により焼け落ちた首里城を城壁の上に見られます。

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同じく首里八景のひとつの龍潭で、高さ100メートル程の石灰岩丘陵に立つ首里城の北側よりの眺め。龍潭は現在から遡ること六百年、第2代尚巴志王の命により作庭されたと伝わる人造湖で、中国よりの冊封使が訪れた際には池に舟を浮かべて宴が開かれていたのだとか。上の写真は火災前、下は火災後。此処から見ると焼け落ちた北殿の無残な姿が目に入ってしまいます。北殿の背後に見えていた木造建築の正殿の姿は消え去っていました。

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県立芸術大学から首里城へと登る道からも、焼け落ちた北殿を目にしました。首里城より数百メートルに住む知人は、ベランダに焼け焦げた紙の様なモノが飛んで来たので「王様直筆の書とかだったらどうしよう...」と対応に苦慮していました。高架を走える「ゆいレール」の儀保駅ー首里駅間で南に首里城が見える区間では、首里城の姿を写真に撮る人が必ずおり、旅行者含めて多くの人が首里城を見ていました。

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コチラは火災前(上)と火災後(下)の守礼門の写真です。守禮は中国皇帝に対する礼。明皇帝の親書「琉球は守礼の邦と称するに足りる」とあった事に因む扁額が掲げられており、冊封使が首里を訪れた時には琉球国王自ら守礼門まで赴き、三跪九叩頭の礼をした場所として有名です。明・清朝に対して冊封していた琉球国は南進図る薩摩藩の慶長14年春の軍事進行により薩摩の服属国となるも、清朝への朝貢を続ける日清両属体制となりながらも自治を維持しうようとしていました。

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首里城は14世紀の三山時代より続く王家の居城で、明治八年(1875)に行われた琉球藩を廃して沖縄県を置く「琉球処分」にて王政と共に居城としての役割を終えました。首里城のあった城郭は熊本鎮台沖縄分遣隊の駐屯地として明治二十九年まで使用され、その後は教育機関用地などに利用されていました。

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沖縄戦に向けて、首里城の地下に南北に走る形で軍司令地下壕が1キロ程掘られました為に、首里城は米軍の主要攻撃目標と戦時下ではなりました。「鉄の暴風」と呼ばれた熾烈を極める艦砲射撃が首里一帯を襲い、首里城を含めた建物という建物全てが消滅し焦土となったのでした。上の白黒写真は米軍により昭和二十年に撮影された首里の上空写真ですが、城郭を中心として広がっていた町並みが見るも無惨なものへと変わり果ててしまっています。

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昭和二十五年(1959)に琉球大学キャンパスとなっていた首里城は大学が西原町に移転後に復元事業が本格化。平成四年(1992)には正殿を含む城郭の復元が完成し首里城公園として開園します。そして、8年後の平成十二年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたのでした。その後も継続的な首里城の復元事業を続けている最中の令和元年10月31日に、正殿、北殿、南殿が火災により全焼してしまったのです。見える人によると、当日の夜は首里城の上空を龍が飛んでいたとか、いないとか...。

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現在より1月前まで存在していた首里城の正殿は設計図等の過去資料が現存せず、18世紀初頭の資料に学術的想像力を駆使して設計したものでした。城内部に置かれた玉座は「御後絵」と呼ばれる琉球国王の肖像画(尚真王/1465-1526)より復元したもので、頭上の扁額「中山世土」は康煕帝の書(1654-1722)、「輯瑞球陽」は雍正帝(1678-1735)の書を創作復元。オリジナルの書は共に昔の写真などに写されていなかった為に、中国本土に残る皇帝の書から該当する文字をカット&ペーストで創ったそうです。首里城が観光客向けの非常に手の込んだアトラクションと言われるのも頷ける気がします...。そんな揶揄を受ける首里城ですが、「おばぁの家がなくなった気分」と聞くように、首里城焼失は多くの沖縄の人にあって当たり前の存在を失くした気持ちにさせました。

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書院・鎖之間は首里城内の執務空間で、海外使節の接待に用いられた南殿の更に南に設けられた場所です。写真のものは平成20年(2008)に復元され、一般公開に至った建物です。17-18世紀に当初建設されたと見られ、建物の南側には琉球庭園が配されていました。明治期には首里尋常高等学校として書院・鎖之間は使用され、大東亜戦争中には陸軍総司令部が置かれた事により破壊、戦後の昭和二十五年(1950)には琉球大学設置に伴い礎石なども取り壊しされました。最も新しくは2007年に建物を木造建築で、その翌年には琉球庭園が復元されたのでした。

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鎖之間はもともと王家の懇談所だったのですが、現在では王朝時代よりの伝統を受け継ぐ琉球菓子を気軽に楽しめる人気の観光名所となっていました。琉球漆器の独特の赤色をしたお盆の上に、沖縄の焼き物(やむちん)の器でさんぴん茶と幾つかの菓子が供され、琉装した女性従業員から簡単な説明もあり、愉しい時間を過ごせる場所でしたが、こちらも今回の火災により全焼してしまいました。

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上の写真で一番大きなモノ「花ぼうる」で、ぼうるはポルトガル菓子丸ボーロ(bolo)と同じで、小麦粉/卵/砂糖を混ぜたものを長方形伸ばし、包丁で切れ目を入れて焼き上げた菓子です。花ぼうるの隣りにあるのが「光餅(クンペン)」になります。レシピは色々ある様ですが、黒胡麻と砂糖で餡を作り、小麦粉/卵黄で作った皮で包み込んで焼き上げるものです。一番奥のモノは「鶏卵糕(チールンコウ)」。卵黄に砂糖/小麦粉を加えて、赤く染めた落花生とちっぱんを蒸し器に並べて蒸した菓子です。ŧ‹”ŧ‹”( ‘ч’ )ŧ‹”ŧ‹”

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冒頭の石獅子の近くにある儀間親方真常のお墓です。儀間真常は薩摩の侵攻を許した琉球国王尚寧王(1564-1620)の江戸行きに随行し、薩摩より木綿栽培と木綿織物の技術を導入したり、中国からのサツマイモ栽培を領内に広めたり、黒砂糖の製法を広めたりと数多くの足跡を残した琉球の五偉人のひとりです。現在の沖縄/奄美名産である黒糖や黒糖を用いた菓子類があるのは儀間真常のおかげとも言える人物です。日本と中国の両属となった琉球は両国の料理/製菓を学ばせる為に「包丁人」という役職の人達を送り、学ばせました。

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首里や那覇には琉球王朝菓子を作り続けている店が何軒かあり、鎖之間で供される菓子は首里城麓にある新垣菓子店より提供されていました。「今日賣完」と書かれた貼り紙が入口にもう何ヶ月もありますが、これを見て「売り切れか、また出直すかしないね〜」と諦めてはいけません。新垣家は琉球王朝の包丁人・新垣淑規を先祖とする家系で、現在も兄弟で菓子店を営んでいます。道路に面したお店の隣りの敷地には「新垣カミ菓子店」があったりもします。

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那覇市内には他に謝花きっぱん、琉球酥本舗、南島製菓、知念製菓などの琉球王朝菓子を現在製造している会社が幾つかあります。また、各地の市場を訪れれば多くの庶民の伝統菓子を見ることもできます。ぽっかりとした穴が空いたかの首里城喪失の気持ちの慰めとして、王朝時代よりの伝統菓子の幾つかを紹介したいと思います。

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マチカジ。織田信長により一向宗の本拠地・石山本願寺を攻められていたときに、兵糧食代わりとして原型ができたといわれる「松風」の琉球バージョンです。顕如上人が詠まれた「わすれては 波の音かとおもふなり 枕にちかき 庭の松風」が名前の由来と言われています。小麦粉、砂糖、卵、アンモニウムを溶いたものに胡麻を振って焼いたものです。

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クンペン。光餅とも薫餅とも書かれる焼き菓子です。黒ゴマ餡を小麦粉/卵黄/砂糖で作った皮で包み焼いた菓子で、口に含むとゴマの風味が広がります。福建省にもある光餅が元ではないかと推測されています。光餅はむかし倭寇が福建省を犯したときに、食事を作るときの煙で部隊の位置が倭寇側に判明してしまうのを中国側が嫌い、携帯に向くパンの様なものを作ったのが始まりだとの故事があったりします。

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鶏卵糕(チールンコウ)。小麦粉/卵/砂糖を生地として、赤く染めた落花生と橘餅(柑橘類の加工品)を並べて蒸した菓子です。華やかさのあり、王朝菓子の名によく合う品だと思います。琉球王朝が廃藩置県にて終わりを迎え、包丁人たちは王宮ではなく民間で菓子を作り始め王朝菓子が世間に伝わった経緯でしたが、戦争による混乱や戦後の需要の変化により殆どの王朝菓子は姿を消していき、現在で製法が伝わっているものは全体のうち極僅かだとか。

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沖縄では新しい菓子も沢山生まれています。上の写真は、紅芋タルトやちんすこうショコラ同様に沖縄観光のお土産としてつくられた「琉球酥」です。台湾土産で有名なパイナップルケーキの沖縄版ともいえる菓子で、中身はパイナップルに冬瓜の砂糖漬け。また、マンゴーを包んだ万果酥という新しい沖縄菓子ものもあったりして、奥武山町の琉球酥本舗に先日訪れた時に琉球酥/万菓酥の8個入りセット(3,240円)を思わず購入してしまいました。

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「世界のウチナーンチュの日」となった10月30日の翌日、首里城が火事だと初め聞いたのは妻からでした。最初はボヤだとばかし思っていたのですが、映像を目にして「でーじなってる、ふぃーやや(大変なことになってる、火事だ)...」と我を疑いました。消失と復元は歴史的建造物の運命だとは頭では理解できるのですが、沖縄の人、首里の人にとっては衝撃的な日であったかと思うと心が痛みます。先は長く時間を要するでしょうが、沖縄と言えば首里城と称される首里城が復元される事を願います。ヒヤミカチ首里城(たちあがれ首里城)!!