うさぎで有名な大久野島を散策、垣間見る毒ガス島の歴史

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家族旅行で訪れた広島県の瀬戸内海にあるうさぎ島(大久野島)の話しを先日書いたのですが、今回はその続編となります。大久野島は陸軍の毒ガス工場が戦前あった事は歴史の事実として訪問前より知っていました。更に言えば、島全域から環境基準を超えるヒ素が検出されて土壌改善が行われたり、島がいつの間にやら兎と触れ合える"うさぎ島"と化していたのも耳にしていました。大久野島を訪れたのは子供達が喜ぶだろうと思ったからで、島を訪れる多くの観光客同様にキャベツ人参を持参して軽い気持ちで訪れておりました。

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実際に大久野島に訪れるまでは島の大きさや、島内の距離感が全く把握できていなかったので大雑把に捉えていましたが、実際に訪れると吃驚するばかしでした。上の写真で右手に映っている建物が大久野島の休暇村(ホテル)で、そこから10メートルかそこらに毒ガスの貯蔵庫であった跡(写真中央)があるのです。現在と戦前の建物配置を記した地図を見ると、赤一号工室、黄一号工室と無数の毒ガス工場が立ち並んでいた土地の上に休暇村本館が建てられいる事になっています。地図上の現在地(赤字に白抜き)は毒ガス貯蔵庫だっ場所です。

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そのホテル脇にあるのは赤一号が貯蔵されていた「三軒家毒ガス貯蔵庫跡」です。赤一号とはくしゃみ/嘔吐性ガスで、目や呼吸器に強い刺激を与え、致死に至らずとも敵の行動力を奪い取る効果があるために第一次世界大戦では独英仏米が、日中戦争では日本軍により使用がなされた記録が見つかっているものです。貯蔵庫跡にはタンクが置かれた台座がいまだに残り、奥の壁には落書きが沢山。無毒化されているとは言うものの、立ち入り禁止の柵を無視して内部によく入るものだと感心してしまいます。黄一号は通称マスタードガスとも呼ばれる糜爛剤で皮膚をただれさせる化学兵器です。マスタードガスは80年代にイラン・イラク戦争でも使用されたとも言われる現役の化学兵器で、細胞の増殖も止める効果があり、現在の抗がん剤はこの毒ガスから生まれたものと人を救う為に使用もされていたりします。

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白黒写真は戦前の休暇村本館近くを写した写真で、数多くの建物が所狭し並んでるいるのが見え、遠目で見た時に建物が目立たない様にと迷彩塗装が施さているのが分かるかと思います。その毒ガス工場の中核施設だった研究所および検査工室跡(共に昭和二年築)は現在も同じ場所に残っています。進駐軍(米国/英国)が戦後に大久野島に上陸し、毒ガス処理にあたったのですが研究所/検査工室は何故か破壊を逃れました。ハルピン郊外の731部隊と司法取引をし、原爆投下後の影響調査で原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立した米国なので疑問を感じますが、この研究所を休暇村設立時の宿泊施設とした日本の運営者も不可解に思えてなりません。博物館や資料館として利用されたのであれば納得もできますが、毒ガス検査をしていた建物に宿泊はどうだろうか...

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島内に50-60箇所、休暇村本館前の広場にも沢山の防空壕が戦中に設けられました。これらの防空壕は戦後の毒物処理時に危険性の比較的低い赤一号等が「手間がかかるので埋めてしまえ」となった様で、蓋をしてさらし粉/海水浴を注入。防空壕には現在でもそれらの毒物が山となって入っているとの噂です。戦後暫くしても度重なる赤筒(赤一号を入れた筒)が発見が続き、大久野島全域から基準値を超えるヒ素が発見されているのは、一説では防空壕の中に置かれた赤筒が長い年月をかけて腐食して漏れ出しているとも言われているとか...

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大久野島は本州と四国を結ぶ芸予諸島に含まれ、日清戦争、日露戦争にて京都・大阪方面の防衛を固める為に「要塞」化の拠点にと白羽の矢が立てられたのが瀬戸内の小さな離島の運命を大きく変えたのでした。当時の砲の射程距離では大分ー愛媛間の豊後水道(最大幅14km)は広すぎて防衛が難しく、より幅の狭い瀬戸内海で迎撃をするべく芸予諸島がその地に選ばれました。国は芸予要塞築くべく、広島県の忠海に司令部を置き、大久野島と小島に砲台が建設されました。

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そのため、大久野島には当時要塞だった時代の遺構が多数残っております。芸予要塞→毒ガス製造島→うさぎ島と変遷を経た現在でも、それらの遺跡は兎さん達が門番を務めているのでした(嘘) 。上の写真は大久野島北部、島周回道路沿いに残る明治三十五年(1902)に設置された「北部砲台跡」で、百年を経過しても硬固な姿を見せています。

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斯加12連射加農砲が置かれていた跡。斯加はフランス・シュナイダー社への当て字で、加農砲はカノン砲の意味するところだとか。地面がえぐられているのは砲座を移動させたレールの跡とのこと。大きな石積みとレンガ造りと2種類の壁面があり、砲台には重厚な切石が用いられたようです。当時の加農砲は白黒写真のもので、そのキャノン砲の前に立つ5人は兵士ではなく忠海の学生とありました。

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此方は北部砲台跡でも少し西側の奥まった場所で、24cm砲が4門置かれていた場所です。日清戦争においては北洋艦隊を威海衛の戦いにて壊滅せしめ、日露戦争においてバルチック艦隊を日本海で潰滅した為に敵艦隊が瀬戸内を航海する事はありませんでした。日露戦争の後には砲の性能が向上し、大分県と愛媛県を結ぶ豊予要塞が瀬戸内海の防衛線となり、芸予要塞廃止との決定が下だった事により、実戦を一度も迎える事なく要塞としての役割を終えたのでした。

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この北部砲台跡には砲を撤去した後に設置した毒物タンクを置く台座が残っています。資料を見ると保管されていたのは砒素を原料とする黄い材(ルイサイト/糜爛剤)で、それらは全て戦後焼却処分がなされました。戦後半世紀が過ぎた平成十年(1998)に環境基準の数百倍を超える砒素が北部要塞跡でも検出され、「やっぱり...」との声共に立ち入り禁止に。土壌入れ替え等の対策が大久野島で取られて現在では北部砲台跡を含めて多くの場所が再び入れる場所となっています。

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現在フェリーが島に離発着する第二桟橋を北に歩く事50メートルほど。見える海に突き出した石造りの桟橋は芸予要塞時代に建造されたもので、忠海から南へと走る船が通る島の東側にあります。白黒写真は昭和四年(1929)に毒ガス工場開会式参加のため、桟橋を上がり"祝"と中央に書かれた門をくぐっていく参加者を兵士達が敬礼し迎えている場面を写したものです。この桟橋は対岸の本土からも2キロ程と近いために肉眼でもよく見えることにより、毒ガス生産開始後は機密保全のためにあまり使用されなくなったそうです。

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その桟橋を上がってすぐの場所に土塁とコンクリート製トンネルが現れます。奥には発電所として使用されていた大きな建物が覗いています。ディーゼル発電をしていた発電所は発火の恐れがあるので毒ガス工場より離れた場所に設置という理由であれば、この場所に発電所を置いた理由は理解できるところなのですが、土塁を築いて目隠しをする必要のある方向にトンネルを掘った理由が理解できないところです。もしかすると、トンネルと海岸の間に現在はない建物があったのかも知れません。トンネルの入口にはMAG2(弾薬庫2)と大きく書かれており、朝鮮戦争時に米軍が大久野島を何かの保管施設に使用した痕跡が残っています。なぜ、米軍がこの不便な大久野島に弾薬を保管する必要があるのかという疑問が浮かんだのですが、現在まで考えられる答えが分かりません。

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トンネルを抜けると島内で最も大きい廃墟、発電所跡が朽ちるままになっていました。3階吹き抜けで、大きな窓が連なる開放的な建物。ここでディーゼル発電機8基用いて島内の電力を賄う発電がなされていたそうです。発電所ですので毒ガスの恐れではないと思うのですが、建物の倒壊が危惧されるためか内部は立ち入り禁止となっておりました。

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そして発電所の手前にある土塁にも、うさぎ達が掘った穴が無数にありました。このうさぎ達は飼いきれずに"地元の小学校"が放ったとも、休暇村の職員が持ち込んだとも、戦前に毒ガス試験の為にかっていた兎の子孫が繁殖したものだとも諸説あるようです。この島の兎達は観光客だと見るやいなや餌を求めて足元まで突進して来ます。観光客の素振りで餌ナシと判断するとぷいっとソッポを向かれてしまうので、なにか悪い事をしてしまった気持ちにさせられてしまいます。なかには眼病を患っている兎や、身体が弱っているのかあきらかに他の兎達から追い回されて虐めを受けている兎もおり、見ていて心苦しくなりました。

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大久野神社は昭和七年(1932)に忠海の有名な床浦神社より御神体を招いた神で、各種行事は島の南部のこの地で催されていました。この神社の案内板にあった白黒写真は青年学校終了と養成工の合同卒業式と書かれていました。門柱には右に皇化隆興、左に萬邦咸寧とあり、皇国が盛んとなり、全ての地が尽く安寧でありますよう(たぶん)と書かれています。

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神社は現在倒壊しており、立ち入り禁止のロープが張られています。昭和二十一年(1946)と戦後するに撮影された写真を見ると、石柱の脇に立つ男女と倒壊前の社が見えております。ここまで社殿が倒壊したままの神社は珍しく、平成二十八年(2016)に熊本地震で熊本城の一部の倒壊に巻き込まれて破壊された熊本大神宮ぐらいしか記憶ないなぁと思いました。

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 小さな大久野島の西側には11面ものテニスコートが現在は広がっていますが、この平坦な土地には毒ガス工場や倉庫等の重要施設が立ち並ぶ毒ガス製造コンビナートを成していた場所でした。此処には茶一号(致死性の血液剤・青酸ガス)工場や緑一号(催涙ガス)工場がありました。戦中はおそらく工場より出る排水の浄水処理等はなかったでしょうから、島の西側へと垂れ流しだったのではと思えてなりません。戦争が終わった2年後に大久野島が日本に返還された時には、島全体に駐留軍が撒いた毒物中和使用するさらし粉(次亜塩素酸ナトリウム)が厚く積もり、異臭がまだ漂っていたのだとか...

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毒ガス保管をしていた場所は島内のあちこちにあり、山肌を削って用意したと見える貯蔵庫の入口が見えました。近くに立つ汚れた案内板を見ると大型タンクが6本横倒しとなった写真がありました。見た感じでは毒ガスを抜いた後にタンク自体の処理を待っている段階に見えます。書くのが遅くなってしまいましたが、このページに掲載している戦後の毒ガス処理段階での白黒写真は、現地にある案内板を撮影したものかオーストラリア戦争記念館のものをお借りしております。
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大久野島で最も大きい貯蔵庫「長浦貯蔵庫跡」です。山肌を削った貯蔵庫で、6つ並んだ部屋には各85トン入るタンクが置かれ合計500トンもの毒物・黄い剤ことイペリット、ルイサイトが保管されていた場所でした。各部屋の壁面が黒く煤けているのは、タンク処理後に残留毒素の除毒のために火炎放射器で焼いた跡です。此処に置かれていた膨大な量の危険物質は太平洋に海中投棄処理されました。

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フェリーの上より本土方面を望んだ景色です。写真の左側に少し映る島は大久野島東岸です。ひときわ高い鉄塔があるのが忠海の町で、その鉄塔の脚元には床浦神社があり肉眼でも海沿いに建てられた鳥居を見ることができます。大久野島で戦前戦後作業していた人達の多くは忠海から船で海を2キロ渡って危険な作業に従事していました。

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生産ピーク時の1940年頃で従業員3,000名、延人数で6,500名とも推定される人々が島で働き、戦時中には物資不足により防毒装備も充分にないままでの作業に当たり、多くが気管支等に後遺症を患い苦しみました。大久野島神社の傍にはその犠牲者への慰霊碑が立ち、毒ガスの歴史を伝える大久野島毒ガス資料館にて毒ガス製造時の遺品も展示されています。慰霊碑の裏には過去帳が収められており、3,000名を超す名前が記録されており、その数は毎年増え続けていまあす。

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大久野島の北部海岸です。大久野島及びその周辺地域に保管されていた毒物は主に北部海岸に運ばれて運搬船への積み出しや、容器の破壊がなされました。その事により一帯は相当量の環境汚染があると考えられている場所です。この北部海岸を海水浴場にするための護岸工事中に中身が残る毒物缶が発見されたり、海中より流れ着いた赤缶も多く、現在も高い塀に囲まれて立ち入り禁止となっています。ちなみに平成8年以降の調査で最も土壌汚染が激しいとされたのは北部砲台跡地と運動場西護岸側、元理材置場の3箇所で、その中でも研究所裏の元理財置場は基準値(砒素)の最大3,000倍にもなる数値が計測されました。国は汚染が毒ガス生産由来だと認めつつも、大久野島は短期滞在者しかいないとの理由により一定の土壌対策と立ち入り制限を施すことで継続使用には問題ないと判断をくだしています。

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戦後に駐留してきた米軍化学班は、瀬戸内海で全毒物の海上投棄による処理を当初考えていましたが、機雷の掃海作業が始まっていた事により土佐/宮崎沖100キロ程の海上で老築化した上陸用船艇ごと沈める作戦を実行したのでした。大久野島での毒物総生産6千トンのうち戦後島内に残っていたのが3千トン余り、そのうち2千トンが太平洋投棄され現在もそのままとなっております。

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平成30年の西日本豪雨で被害を受けた大久野島は、島中央にある展望台に至る道は土砂崩れ可能性があるとの事で全て通行止めとなったままです。過去に何もなかった小島であれば、そのうち復旧するだろうと思うだけですが、重い過去のある大久野島では何かヤバイ物が出たかもしれないのではと勘繰ってしまいました。また、現在の大久野島はうさぎとの触れ合い目当てで訪れる観光客と、観光客と見るや近寄り餌をねだる兎達で溢れているのですが、このうさぎ達の出処も大久野島で戦前に兎の毛を剃って毒薬を塗布していた職員が、戦後は大久野島を兎の楽園にしようと決意して意図的に兎を増やしていったとか、国が毒ガスの影響調査目的で土中に棲む兎を放つも、想定外に数が増えてしまって手に負えなくなったとか色々とあらぬ理由を考えてしまいます...。

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食べるものが少ないのか、木の根っこが兎達にかじられたようで痛々しい姿を晒しております。この様な状態なので、観光客が持ち込む食料に依存し、島に自生するものだけでは自生できなくなった兎達は自然のままの状態では個数を大幅に減らす筈です。明治の要塞化に始まり、毒ガス工場、米軍の弾薬庫、瀬戸内海国立公園内の休暇村、うさぎ島と紆余曲折な道を辿ってきた大久野島です。この小さな島には予想もつかない次がある気がしてなりません。