令和元年(2019)広島平和記念式典に子供達と参列しました

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広島市平和記念公園にて毎年8月6日の朝に開催されている平和記念式典に家族4人で参列して参りました。令和元年の子供達の夏休みに中国/四国地方+沖縄&上海への駆け足周遊旅行に出かけたのですが、この平和式典参列に子供達と一緒に参加すると決めたのがコトの発端で、当初は岡山・広島だけだったはずなのですが、訪問希望地がアチラコチラに拡大してしまったのは、せっかく出掛けるならば一気に周ろってしまおうと欲を掻いてしまったからでした。

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最高気温が37度にもなった真夏日。式典の前日に広島市入りしました。5日午後には妻子供達が行ったことのない厳島神社を訪れる予定だったのですが、息子が脱水症状気味だったのをみて広島市内にとどまることにし、空調が効いた「広島平和記念資料館」等の屋内で時間を過ごして翌日に備えたのでした。このページは当初書いた「広島市立本川小学校」に「はだしのゲン」を加え、その上に子供達の初広島訪問&平和式典の話しを加えてひとつにしています。

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昭和二十年(1945) 8月6日午前8時15分、広島市上空で爆発した1発の原子力爆弾。毎年夏になると炎天下の広島記念公園がテレビに映し出され、8時15分に1分間の黙祷をする場面を何度も目にしてきました。親族が被害者となった訳ではないですが、黙祷はしなくてはならないとの思いが自分もあり、テレビの前でこれ迄に何度も黙祷をしてきました。きっかけは忘れてしまいましたが、会話の中で「広島の平和式典には一度参加したい」との妻の言葉があり、それならば家族4人で訪れてみようかとなったのでした。

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上の白黒写真は原爆投下前に撮影された広島中心部に掛かっていた相生橋です。写真左側には被爆遺構として現在も残るコンクリート校舎を持つ本川小学校も映っています。市内を流れる本川が2本の川(本川と元安川)に分岐する場所に相生橋は架かっており、T字形の珍しい橋は2本の川を跨ぎ、同時に本川と元安川の間にある島を現在もつないでおります。その特徴的な橋のカタチゆえに原子力爆弾投下の際に目標点とされました。現在のT字型の相生橋は昭和58年に老築化と拡幅工事のために架け替えがなされたものです。

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世界で初めて実戦使用となった原子力爆弾リトルボーイを搭載したB-29エノラゲイ号は、8月6日午前1時45分にマリアナ諸島テニアン島を離陸。テニアン島より広島は6時間程の道程で、経由地・硫黄島を5時7分に出発。四国上空で単機の日本軍戦闘機の射撃を受けるも被弾はなく、香川県三崎半島より三原市へと抜け、東側より高度1万メートルにて広島上空到達。攻撃目標の相生橋を確認し、8時15分17秒に原爆を投下。43秒後に相生橋より若干東の島病院580メートル上空にて核分裂爆発を起こしたのでした。↓先日撮影した高度1万1千メートルから見える広島はこの様な感じでした。

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自分の母方の祖母の家は広島県呉市にありました。呉は日本海軍の鎮守府として名高く、その軍都は終戦近くの昭和20年に度重なる空襲を受け、市街地の多くが焼夷弾により焦土となっていました。祖母は呉鎮守府に当時勤めており、「リトルボーイ」と名づけられた原子力爆弾が広島上空に落とされた時に発した「ピカ」の閃光を当日働いていた事務所内より目撃しています。原爆投下の目標都市が広島ではなく、帝国海軍の本拠地・呉であったならば母は生まれず、自分もこの世に生まれる事はなかった事になります。

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産業奨励館(原爆ドーム)の東側上空で爆発した原爆は強烈な爆風と熱線を発し、半径2キロ以内の建物は頑丈なコンクリート製建築物を除き、市内の全て焼き尽くしました。爆心地の近くで蠢くのは死体を焼く煙りばかりと言われる程の惨状。上の写真でも建物の構造が残っているのは産業奨励館や商工会議所、本川小学校、コンクリート製の橋等が幾つか見えるのみで、その他は文字通りに全て灰塵と化した有様です。当時広島には35万人の市民・軍人がいたと言われ、そのうちの4割にあたる14万人が昭和二十年末までに死亡したと推測がなされております。

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爆心地より2キロ程南東に離れた御幸橋西詰めで、中国新聞記者・松重美人氏が投下約3時間後に撮影した一斗缶に入った食用油を塗る応急処置を受ける被災者の姿です。頭髪は焼け縮れ、顔や腕、足、背中のいたるところに大火傷。衣服に付く黒い染みのようなものはカラー写真であれば濃赤と写る筈の血痕です。市役所や消防警察、広島城跡にあった軍司令部等を始めとする命令系統の全てが瞬時に破壊されてしまい、被災した人々は大火に逃げ惑うばかしといった地獄さながらの光景が広がっていました。

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広島に原爆が落とされた3日後の8月9日11時2分。広島に続き新たな原爆が長崎に落とされ、7万5千もの人々が死亡しました。広島と長崎を合わせた原爆による総死者は合計20万人にも上り、後に原爆後遺症に苦しむ数十万の被爆者も生んだ人類史上最悪の大量虐殺がおこなわれました。これまで原爆が兵器として落とされたのは世界で広島と長崎の二都市だけに留まり、現在に到るまで新たには用いられておりません。

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自分が小学生の頃の学校の図書館には「はだしのゲン」が置かれており、原爆投下後の惨状を描いたこの漫画を何度か読んだ事を覚えています。主人公である少年・中岡元が原爆投下後の火に包まれた街中で母と再会するも、爆風で倒壊した自宅の下敷きとなった父・姉・弟を救い出せず、焼け落ちる自宅から気が触れた母を引きずり去る場面が最も印象に残っています。親兄弟の死を信じられずに自宅跡を後日掘り返し、3人の白骨を見つけ持ち帰るのでした。

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こはだしのゲンの作者の中沢啓治氏の実体験が漫画「はだしのゲン」の根底となっているのだと気付いていたのですが、ふわふわとした何かの向こう側の世界だと感じていました。「はだしのゲンを読んだ事があるか?」と妻に尋ねてみるも、「作者の主義/主張が苦手で読んだことはない」との回答。まだ小学生のの子供達は勿論最近まで表紙すら見た事すらありません。実を言うと、自分も全10巻のうち4巻までしか読んだ事がありませんでした。戦時下、原爆が投下された広島が舞台になっているとは言え、あまりの理不尽さが横行する「はだしのゲン」は、原爆の惨さと同じくらいに惨い人間達の行いに読み進めるのが嫌に感じてしまい、物語途中で読み続けるのを放棄してしまうのです。子供達の学校課題で本を借りに地元の図書館を訪れた時に、偶然にも「はだしのゲン」の本が棚に並んでいるのを発見し、一巻より再び目を通してみたのでした。

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大人になり、広島も何度も訪れた後に「はだしのゲン」を見ると、「舟入本町」や「江波」等の実在する広島の地名が数多く出てくるのに気が付いたのでした。舟入本町は上の白黒地図(1945年8月11日撮影の航空写真)の「神崎小学校」の少し南側一帯。「江波」は「皿山」や「気象台」と書いた場所あたりを指す地名です。改めて「はだしのゲン」を読んでみると、あの辺り話しなのかとピンと来たので実際に現地を歩いてみる事にしました。

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はだしのゲンこと中岡元(および作者・中沢啓治氏)は、に原爆投下時には通っていた神山国民小学校(実在の学校名は神崎国民学校)の校門前にいました。顔見知りの女性に声をかけられた事により、偶然にもコンクリート塀の影に隠れるかたちよなり原発の強烈な熱線を回避。ゲンに声をかけたその女性は熱線により即死してしまっており、気が付いた時にはお化けの様な姿と化した人々が蠢く地獄のような世界に変わっていたのでした。

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漫画にも描かれた校門の石柱が神崎小学校に現在も残っています。学校関係者以外は校内立ち入り禁止とあり、監視カメラが校門に設置されているのが見えましたので校内に入るのは自粛しましたが、石柱は校門入ってすぐ左手に立っているのが分かりました。学校に事前予約をして再訪する以外に何とか見る方法がないかと垣根を覗くと、その石柱の背面だけが確認できました。

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現在の神崎小学校は戦前は舟入通りに面した場所にあったものの、戦後に100メートルほど東北に移動しています。昔の地図で校門と思しき場所を探してみると、原爆投下時にゲン(作者)がいた場所はこの周囲であったのではないかと思われます。爆心地から4キロ程離れている広島測候所での観測によると、当日の風は南西から微風が吹いていたようで、原爆投下後の火の手は北に流れていたのかもしれません。舟入本町で被爆した避難者の多くは、爆心地の反対側である南側へと逃げようとしたのではないでしょうか? f:id:tmja:20200129210833j:plain

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舟入町の南側にある江波は漁業が盛んな場所で、江戸時代は島でした。干拓事業が進み舟入地区と江波は明治期に陸続きとなったばかりの場所です。昭和十九年には江波に三菱重工広島造船所・江波工場が開業し、広島電鉄が土橋より舟入南町までを戦中に開通させていました。多くの他の人と同じくゲンも家族と合流するために先ずは自宅を目指し、学校前の目抜き通りである舟入り通りを歩き、横道に入った場所にある自宅前にて母親との再会を果たします。

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ゲン(作者)の自宅があったと思われる場所周辺です。ゲンの家だけではなく市内殆どの家屋が爆風により倒れ、破壊されていました。現在では国内の何処でも見られる住宅街の一角に見えてしまいますが、この場所も原爆で吹き飛ばされ劫火に包まれた場所だったのです。作中と実際は異なり、作者自身は炎の勢いが強く、自宅に近寄る事もできなかったそうで、母親とは舟入通りの道端で実際には再会したのだそうです。作者自身の姿を投影した「はだしのゲン」。自身が創る話しの中ではあっても、自身の親兄弟が焼き殺される場面を描くのはどれだけ辛いことかと胸が痛くなります。

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ゲンとその母が、原爆投下の日に生まれた妹と共に辿り着いた江波皿山。被害の少ない南の江波地区に人々が殺到しており、日影となる緑のある皿山には全身火傷を受けた被災者や肉親を探し求める家族が殺到していたのだとか。皿山は標高52メートルと小高丘ほどの高さしかありませんが見晴しが良く、当時は燃え上がる広島の街々と救い求める人々の姿が見えていたに違いありません。

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その皿山の北型には陸軍の射撃場がありました。現在の江波中学校および江波みなと住宅、広島電鉄バス営業所等が立っているのが射撃場の跡地になります。軍の演習場では引き取り手のない遺体が大量に荼毘に付され、埋葬されたと言われています。市内より集まる遺体があまりに多く、鳶口を用いて山積みにし、そこにガソリンを注いで昼夜を問わずに燃やし続けられました。作者の中沢啓治氏が卒業した中学校は眼下に見える江波中学校でした。

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ゲン、ゲンの母、妹の友子の3人が避難場所を求めて知人宅・林家へと向かった道は此処だと思われます。小さな丘の上には測候所(現・江波山気象館)が見えています。自分の子供達もゲンと同じく小学生なのですが、クルマで送迎があるのが普通として育ち、自身の足で歩くのを厭う姿をよく見せます。漫画に登場するゲンは小学二年生にはとてもみえない行動力をみせ、その生命力たるや比べ物になりません。

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戦後、被爆地である広島/長崎に米国人フロイド・シュモー氏が被災者支援に建てた住宅を記念館にした通称・シュモーハウス(江波皿山の南)の管理人さんに、中沢啓治氏親子が日銭稼ぐために働いた火葬場が気象台下にあると場所を教わり、現地を訪れてみました。おそらく、下の写真に写る緑の下に火葬場があるのでしょうが、触れてはいけない物のような気がしてスグ退散しました。ここでも多くの被爆者が荼毘に付されたことだと思われます。

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本川が瀬戸内海に注ぐ江波の街並み。牡蠣や海苔の生産が盛んな漁師町で、映画となり話題になった「この世界の片隅に」の主人公すずの実家はこの辺りで海苔を作っている設定になっていました。この記事の冒頭のT字かたちの橋・相生橋は子供時代のすずが人攫いと出会った場所でもあります。ゲンの作者は江波の人々に酷い扱いを受けたらしく、蟠りを持ち続けたと言われており、はだしのゲンの中にもその旨が反映されている場面を見ることができます。はだしのゲンを読み返してみると、悪者とされる人々の主張にも自分達が生き延びる為の自衛行為に基づくであると大人になって分かる場面が多くありました。戦地へ息子を送る母親ですら只狂信的に戦争勝利を信じていた訳ではなく、厳しく狭くなる社会のなかで自身の子供達が生きていく場所を得られるようにと苦しみながら見送っていたのではないかと、その心の内が推測できる気がしました。高層住宅の裏側に隠れていますが三菱重工の江波工場があり、戦前は輸送船、現在はボーイング向けの胴体などの構造部品を造っています。広島を壊滅させた爆弾を運んだ航空機B-29を製造した会社向けに、せっせと汗水垂らして航空機部品を作っているのは皮肉なものです...

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木造二階建ての校舎が爆風で倒れ炎上してしまった為に、神山国民学校より元川小学校で授業を受ける事となったゲン。元川小学校とは本川を挟んで平和記念公園の反対にある本川国民学校(現・本川小学校)のことです。上の漫画でも絵描かれている様に、本川小学校は爆心地そばにある原爆ドームが近くに見える距離にあり、直線にして400メートルと爆心地に最も近い小学校でした。この記事の初めの方に載せた白黒写真にもL字型コンクリート3階建ての校舎が、焦土となった広島の地に立っているのが見られます。

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本川国民学校は原爆により全焼。全校生徒1,100名のうち小学3年生以上は同県三次に集団疎開中で、夏休み開始まで4日を前にして400名の低学年児童と教職員10名が一瞬にして亡くなりました。焼き果てた校舎は原爆投下の翌7日より負傷者の臨時救護場となり、多くの人が此処で亡くなり、夜明けから日没まで火葬の火が校庭で絶える事はなく数千の遺体が荼毘に付されたのだそうです。現在の校舎は昭和63年(1988)に再建されたものです。それまで改修を重ねて使用していた被爆校舎は1部を除き解体され、現校舎はその火葬場だった場所の上に建っています。L字型の南側は損傷が激しく解体し、東西の部分のみが戦後も校舎として利用されました。平和資料館として現存するのはL字の角の部分にあたり、最も当時の姿を伝える倉庫だった地下室を残し、耐震性を考慮して2階と3階が解体されました。

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その平和資料館脇には平成7年(1995)に建立された原爆慰霊碑がありました。「あまねく届け 平和の祈り」と彫られており、左手置かれた校内の被爆石を台座とした説明板は以下の通りでした。

碑に寄せて    

昭和二十年(一九四五年)八月六日午前八時一五分相生橋上空5百数十米にて一発の原子爆弾は、瞬時に全市を壊滅させた。爆心に最も近いこの学校では児童教職員四百十余人全員爆死し、数千人もの地区民も熱線爆風の直撃を受け惨憺たる有様であった。廃墟となったこの学校は避難救護所に当てられたが、焼けただれ水を求めてさまよう人々を手当てする術も無く、校庭はたちまち死骸の山となり、已むなくこの地で荼毘に付された。当時を偲べば追悼の念を禁じえない。この事実を後世に伝え核兵器の廃絶と永久の平和を希って、地区と学校が一体となりこの平和資料館の傍らに慰霊の碑を建立する。

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建築当時は相当洒落た場所だったと思わせられるアーチ型の入口をくぐると、重々しい雰囲気が漂う空間が目の前に現れます。資料館内の柱や梁は多くが当時のまま残されています。鉄をも瞬時で溶かす高温の熱線が地表を襲った爪痕は、階段部分にも火災の跡として見られ、その階段は破損が激しく危険なために通行止めとなっていました。

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奥の部屋の突き当たりに外光が射し込んでいる空間が見えてきました。その手前に掛かる注意書きを目にして唖然となりました。この慰霊の場とも言える場所で、粗野な振る舞いしかできない人は自宅に篭っていろと、強く言いたい義憤に駆られてしまいます。息子が学校で習ってきた合唱曲に「Believe」という歌があり、自宅に帰っても繰り返し歌っていたので自分もその歌詞を自然に憶えました。友達の大切さを、未来を歌った名曲なのですが、息子は最近YouTubeで見つけた酷い替え歌にして「隣の奴がうざすぎて 殴りたいとなった時は...」と喜んで歌っていました。最初にそれを聞いた時には、あまりの不快さに息子の頭にゲンコツをしたのでした。

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ひかり差し込む広い空間に出ると、原爆が投下されて焦土と化した広島のジオラマが置かれていました。このジオラマは以前は広島平和記念資料館に展示されていたものです。もう何十年と前になりますが、修学旅行で広島を訪れた時にこのジオラマを目にした記憶があります。上空500数十メートルにて炸裂した真っ赤な火の玉。ここ本川小学校には付箋が張られて位置が示されています。

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広島を象徴する元広島県産業奨励館(現 原爆ドーム)のバルコニーの1部。60年もの間、原爆ドーム前の河川敷に打ち捨てられていたモノを本川小学校の生徒達が引き上げ、それらが展示されていました。ツルツルの御影石だったものが原爆の熱線爆風により変容しており、手で触って確かめて欲しいと書かれていました。

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入口へと続く階段(使用禁止)を地下から見上げています。本川小学校の児童で唯一生存した女性が原爆投下時にいたのは、この階段を上がったところにあった下駄箱前の筈です。ここで女生徒は突如として暗闇を体験し、校庭へ。炎に包まれる校舎から駆け出てくる女教師と共に川へと飛び込み、400人いた生徒で唯一生き残ることができたとの話しをどこかで聞いた事があります。

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校舎の東側より原爆が爆発した空を見てみると、本川を挟み平和公園の緑があり、その向こうには原爆ドームが目に入ります。原爆ドームのさらに向こうは、大小のビルが隙間なく立ち並ぶ現在の広島の街が広がっています。令和三年現在、日本には25件もの世界遺産を擁しています。広島の原爆ドームもそのひとつです。人類にとって普遍的な意味を持ち、後世へと遺す価値が高いと云うのが世界遺産の評価基準だとするならば、広島の原爆ドームは世界で類を見ず、最も価値が高いものだと思われます。

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戦争が終わり、翌年2月には本川小学校で授業が再開されました。貧困に喘いだ戦後の日本では代わりとなる校舎を再建できる余裕はなく、窓は破れたまま、鉄屑が散乱する中での授業。木造校舎が焼けてしまった市内の他校からの生徒達の校舎にもなりました。上の写真は学校が再開されて3年後。校庭で輪になって愉しげに踊る子供達を写した1枚で、まだ校舎に窓ガラスが足りていません。

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青き中国山地より流れ出ずる、太田川下流域の沖積平野に発達した広島市の上空写真です。広島の歌には"七つ川"がよく出てくるのですが、実際に数えてみると1本足りないのが分かります。太田川、天満川、本川、元安川、京橋川、猿測川の6本に、流川(広島の繁華街)も合わせるのかな?というのが広島県出身の友人の鉄板ギャグです(^^;  アメリカの原爆開発計画にあたったハロルド・ジェイコブソン博士が被災地・広島を評した「原爆を受けた地域の放射能は70年は消えない、75年は荒廃の地となるだろう」との言葉は、「広島には70年間草木も生えない」と言い換えられて広く国内に流布しました。75年後の現在の広島は、放射能や復興という言葉すら忘れたかのような姿を見せています。

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自分達が広島市に入ったのは平和記念式典が開催される前日の8月5日でした。明日の式典に参列する前の事前知識として、広島や呉の街のことや原子力爆弾のことを子供達に説明し、広島電鉄の路面列車には原爆の被害を受けた車両が現役で現在も走っているのだと言いました。子供達をクルマの中で飽きさせないために「列車が走ってきたら651番か652番ではないか確認せよ!」と命令した直ぐ後に、前方から走ってきたのがまさかの651番でした。この651番は爆心地より700メートルほどにある広島市役所付近で被爆し、運転手とその乗客80名が亡くなっています。

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妻と子供達は初めて訪れる平和記念公園に到着です。式典前日は蝉の声ばかしが耳につく気温の暑い日でした。 遺族、被爆者、その家族、広島市長、内閣総理大臣をはじめとする閣僚、各国来賓と5万人の参列者が参加する大きな式典ですので、大掛かりな準備の真っ最中。公園の周辺には8月6日には大規模交通規制がある予告看板が多数並び、公園の内外には普段見られない程の花と折り鶴が飾られていました。原爆ドーム、昨年リニューアルされたばかりの原爆資料館にも訪れてみました。

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血で染まった川、崩れ落ちる瓦礫、皮膚がはがれた人々。人類史上初めて原子爆弾を兵器として使用された事を象徴し、その悲惨さを後世の人々に伝える原爆ドーム。最上部の中央ドームは銅板で覆われ、被爆前には錆びを帯びて鮮やかな緑青色をしていたそうです。被爆時には、ほぼ真上からの3-4千度の熱線、音速より早い爆風により屋根や外壁が破壊され、構造部と側壁をだけが残る痛々しい姿を現在も晒しています。東日本大震災の大津波で被災遺構となった建物の保存有無が議論となったのと同じく、原爆ドームの保存にも賛否両論がありました。1歳で被爆し、15年後に白血病で死んでいった少女の日記のなかの「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう...」という強い言葉が人々を動かし、この半壊した建物を長く保存する事に決まったとの解説がありました。

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広島の人間であれば誰でも知っているであろう「伸ちゃんの三輪車」。絵本にもなっています。3歳11ヶ月の伸ちゃんは自宅の庭で三輪車に乗っている時に被爆し、その日の夜に「みず、みず」と呻きながら亡くなりました。翌日に焼け落ちた自宅跡に7歳の長女(上の写真で伸ちゃんの隣に立つ少女)と、次女(1歳)の遺骨を発見した父親は伸ちゃんを焼く気にはなれず、独りでは寂しいだろうと自宅の庭に鉄兜を被せて三輪車と一緒に埋葬しました。40年を経て庭から掘り出し、遺骨はお墓に収め、三輪車と鉄兜は原爆資料館に寄贈されたものが展示がされています。

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住友銀行広島支店(爆心地より250m)入口の階段に残された「人影の石」。原爆が投下された時に、銀行の営業開始を待つ人が腰かけていた場所で、その人の周囲は強烈な熱線で白く焼かれており、影となった部分のみが黒く残ったと解説版にありました。この人影の石は被爆遺構でもっとも有名な物のひとつで、原爆による閃光を受けると人間は蒸発してしまい影しか残らないと噂が広まり、自分も何処で見聞きしたのか、そのような理解をしていました。

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火災の延焼を防ぐための建物疎開(取り壊し)作業に従事してい中学生3人の遺品を組み合わせた一体展示で、帽子、学生服、ゲートルの所有者は異なる中学生3人です。まだあどけなさを感じさせる中学生達の写真と、生前のエピソードも併せて展示されていました。この写真は前面より写したものですが、反対側を見ると背後から熱線浴びたのか損傷が激しく痛々しさを感じてしまいます。この3品のみが一体展示をされている理由を考えて見ましたが、全く見当も付きませんでした。

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原爆が投下された後に降った強い放射能を帯びた黒い雨を浴びた上着。放射能に色はないので、「黒い雨」の黒は象徴的表現だとばかしに思っていて、実物も黒だったのに驚いた事が学生時代にありました。実際には爆風が巻き上げた粉塵の色なのでしょう。原爆資料館には遺族より寄贈された様々な遺品が展示されており、衣類などは使用していた人の身体の大きさやカタチが直接感じられるようで生々しく思えてしまいます。寄贈日の情報等もあり、遺族の方々がどのような気持で保管し、また寄贈を決めたのかと考えてしまいます。東館の地下には新たに寄贈された遺品が展示してあり、平成29年には61名より784点の寄贈があったと説明がありました。

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息子と3つ学年の離れた娘は漫画はだしのゲンに「気持ち悪い」との感想を口にするだけなので、訪問が少し早かったようでした。父親である自分も戦争や原爆を知っているのかと問われれば、実は娘と五十歩百歩で多少の知識の差しかないのが実情です。我が家(父方)は大東亜戦争では誰も出征せずに戦争が終わり、軍馬等を数多く供した事を讃える碑が田舎にあるのが現在残る戦争の全て。母方の祖父は船乗りでベトナム等の南方へ行っていますが無事に戻りました。祖父と祖母とは軍港の呉で出会いがあったのではないかと孫の自分は勝手に推測するも、直接確かめた事はありません。

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74回目の夏となる一日。平和記念館式典(正式名称:広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)に向かいました。黙祷を捧げる時間が原爆が投下された午前8時15分なので、式典開始時間もそれに合わせた午前8時。朝6時30分より平和大通りが一部通行止めとなっていたので、迂回しながら大手町のコインパーキングにクルマ停めて会場へと歩いて向かいました。いつも晴れ渡る夏空の下で式典がおこなわれているイメージが自分にはあり、晴れの特異日ではないかと勝手に思い込んでいましたが当日の朝は小雨。個人、団体を問わず多くの人達がひとつの場所に向かっているのが周囲の道を見渡すと感じられ、ノグチイサムがデザインした平和大橋の欄干越しに元安川を望むと遠くに原爆ドームが見えました。

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普段は上の写真ような混み具合の平和記念公園ですが、この日は気を付けて歩かなければ、人と直ぐにぶつかってしまう混雑具合でした。この状態で傘をさして参列する(野太い神経をお持ちの)人達が、正面にあたる場所に多く陣取っていたことに辟易とした事を正直書いておこうと思います。原爆死没者者名簿には新たな5,068名の名前が連なり、これまでの合計人数は319,186名というアナウンスで式典が始まりました。自分達が立っていた場所ではアナウンスがハッキリと聞こえなかったので、続く式辞の言葉等はほぼ聞こえず、黙って前を見ながら蝉の泣く声を聞き続けるのみ。暫くすると「間もなく8時15分となります。鐘を合図に原爆死没者の霊を慰め、世界恒久平和の実現を祈念し、一分間の黙祷を捧げます」とのアナウンスが公園に響きました。周囲の多くの参列者と同じく、鐘の合図に合わせて四人で一緒に黙祷をしました。

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自分達は原爆死没者追悼平和記念館の南側で式典に参列していて、まったく興味を示さない娘は地元の子と思しき子供達と臨時テント内で主に遊んでいました。雨が段々と強くなるのを感じて、広島市長による平和宣言の後の放鳩までを見る事に決め会場を離れました。子供達にしてみれば、なにやら人が集まる場所に黙祷だけをしに来ただけでしたが、息子は何かしらのものを感じたようでした。娘は戦争と聞くと「原爆のこと?」と広島訪問後は聞き返してくるようになりました。

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平和記念公園の相生橋側に立つと、東に原爆ドーム、西に本川小学校が左右を流れる川を挟んで近くに見えます。本川小学校内の平和資料館を2018年1月に訪れた時に、児童達の歌声が少し遠くから聞こえてきた事がありました。歌は合唱曲「ビリーブ」。煤けた被爆校舎跡の中で、未来を感じさせる子供達の声との対比が鮮烈で資料館内に一緒にいた人はその歌声に涙を拭っていました。その時の歌を途中よりからでしたが録音しました。音は小さいですが静かな場所であれば聴こえるかと思います。

たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は
かならずぼくが そばにいて
ささえてあげるよ その肩を
世界中の 希望のせて
この地球は まわってる
いま未来の 扉を開けるとき
悲しみや 苦しみが
いつの日か 喜びに変わるだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー信じてる
もしも誰かが 君のそばで
泣き出しそうに なった時は
だまって腕を とりながら
いっしょに歩いて くれるよね
世界中の やさしさで
この地球を つつみたい
いま素直な 気持ちになれるなら
憧れや 愛しさが
大空に はじけて耀るだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー信じてる
いま未来の 扉を開けるとき
アイ ビリーブ イン フューチャー信じてる