爆心地から400m、本川国民学校の被爆校舎跡を尋ねて

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昭和二十年八月六日、米軍爆撃機B29エノラ・ゲイ号により原子力爆弾が広島市に投下され10万人を超す人々が亡くなりました。小学生の頃に学校の図書館にあった漫画「はだしのゲン」を何度も読み返し、中学校の修学旅行で訪れたのが自分にとっての初めての広島でした。

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今年に入って仕事で広島を訪れた時に初めて「被爆建物」という言葉を目にし、宿泊していた平和大通りに建つ全日空クラウンプラザ広島ホテルから歩ける場所を何箇所かを巡ってみた時の話しです。

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「はだしのゲン」に登場する学校の1部が被爆建物として残っていると知り、また所在地も爆心地から比較的に近いと判明。午前中に仕事を終えて、東京へ戻る前に取り敢えず訪れてみるかと向かってみました。

広島は日清戦争時に日本の実質的な首都となった都市で、明治天皇、帝国議会、大本営等の国の最高機関が広島に集まっていました。その旧大本営跡から南西に1km足らずにある島病院の上空に、人類史上初となる市街地上空で原子力爆弾が投下されました。

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自分の母方の祖母の家は広島県呉市にありました。呉は日本海軍の鎮守府として名高く、その軍都にも終戦近くの昭和20年には度重なる空襲を受けて市街地の多くが焼夷弾により焦土となりました。祖母は鎮府に勤めており、「リトルボーイ」と名づけられた原子力爆弾が広島上空に落とされた時に発した閃光「ピカ」の光をその事務所にて目撃しました。

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上の写真は原爆投下後に米軍によって撮影された広島市街地を写した1枚です。写真中央に立つ大きなアンテナ付近が爆心地で、右奥に建物のかたちを維持しているL字型コンクリート3階建てが本川国民学校です。訪れる「本川小学校」は爆心地から400mと爆心地より最も近い小学校でした。

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本川国民学校は原爆により全焼。全校生徒1,100名のうち小学3年生以上は同県三次に集団疎開中で、夏休み開始まで4日を前にして400名の低学年児童と教職員10名が一瞬にして亡くなりました。焼き果てた校舎は翌7日より負傷者の臨時救護場となり、多くの人が此処で亡くなり、夜明けから日没まで火葬の火が校庭で絶える事はなく数千の遺体が荼毘に付されました。現在の校舎は昭和63年(1988)に再建されたものです。それまで改修を重ねて使用していた被爆校舎は1部を除き解体され、現校舎はその火葬場だった場所の上に建っています。

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L字型の南側は損傷が激しく解体し、東西の部分のみが戦後も校舎として利用されました。平和資料館として現存するのはL字の角の部分にあたり、最も当時の姿を伝える倉庫だった地下室を残し、耐震性を考慮して2/3階を解体した状態となっていました。

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その平和資料館脇には平成7年(1995)に建立された原爆慰霊碑がありました。「あまねく届け 平和の祈り」と彫られており、左手置かれた校内の被爆石を台座とした説明板は以下の通りでした。

碑に寄せて

昭和二十年(一九四五年)八月六日午前八時一五分相生橋上空5百数十米にて一発の原子爆弾は、瞬時に全市を壊滅させた。爆心に最も近いこの学校では児童教職員四百十余人全員爆死し、数千人もの地区民も熱線爆風の直撃を受け惨憺たる有様であった。廃墟となったこの学校は避難救護所に当てられたが、焼けただれ水を求めてさまよう人々を手当てする術も無く、校庭はたちまち死骸の山となり、已むなくこの地で荼毘に付された。当時を偲べば追悼の念を禁じえない。この事実を後世に伝え核兵器の廃絶と永久の平和を希って、地区と学校が一体となりこの平和資料館の傍らに慰霊の碑を建立する。

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建築当時は相当洒落た場所だったと思わせられるアーチ型の入口をくぐると、重々しい雰囲気が漂う空間が目の前に。鉄をも瞬時で溶かす温度の熱線が地表を襲った爪痕は階段部分にも火災の跡として見られ、階段は破損が激しく通行止めとなっていました。

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奥の部屋の突き当たりに光庭に外光が射し込んでいる空間が見えてきました。その手前に掛かる注意書き唖然。この慰霊の場とも言える場所にその様な事をする不埒な人間がいるとは...。「粗野な振る舞いしかできない人は自宅に篭っていろ」と、強く言いたい義憤に駆られてしまいます。

息子が小学生となり耳にするようになった合唱曲ビリーブ。自宅に帰っても繰り返し歌っていたのを聞いていたので、自分もその歌詞を憶えたのでした。友達の大切さを、未来を歌った名曲なのですが、息子は最近You tubeで見つけた本当に酷い替え歌を「隣の奴がうざすぎて 殴りたいとなった時は...」と喜んで歌っていたりします。最初にそれを聞いた時には息子の頭ゲンコツで叩いてしまうぐらい不快でした。

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ひかり差し込む広い空間に出ると、原爆が投下されて焦土と化した広島のジオラマが置かれていました。このジオラマは以前は広島平和記念資料館に展示されていたもので、以前に広島を訪れた時に見たものと同じものでした。上空500数十メートルにて炸裂した真っ赤な火の玉。ここ本川小学校もシッカリと確認できます。

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広島を象徴する元広島県産業奨励館(現 原爆ドーム)のバルコニーの1部。60年もの間、原爆ドーム前の河川敷に打ち捨てられていたモノを本川小学校の生徒達が引き上げ展示しています。ツルツルの御影石だったものが原爆の熱線爆風により変容しており、手で触って確かめて欲しいと書かれています。

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入口へと続く階段(使用禁止)を地下から見上げています。本川小学校の児童で唯一生存した居森清子さんが原爆投下時にいたのは、この階段を上がったところにあった下駄箱前だと思われます。炎に包まれる校舎から駆け出てくる女教師と共に川へと飛び込み、九死に一生を得たとの話しを聞いた事があります。

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1階は遺品展示場となっており、正面には平和公園に建つ碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を撰文・揮毫した広島大学雑賀教授の毛筆の書が飾られていました。これが原本なのかと興味を持ち、間近で見ると平和公園の碑文とは若干違うので書は複数あるのかも知れません。

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校舎の東側より原爆が爆発した空を見てみました。本川を挟み平和公園の緑があり、その向こうには原爆ドームが目に入ります。日本は現在22件の世界遺産を有していますが、人類にとって本当に意味があり、後世へと遺す価値が最も高いものが広島、長崎、福島の被爆遺産だと思いました 。

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戦争が終わり、その翌年2月には授業が再開されます。代わりとなる校舎を再建できる余裕はとてもなく、窓が破れ、鉄焼屑が散乱する中での授業だったとか。上の写真は3年後に校庭で輪になって踊る子供達を写した1枚で、まだ校舎に窓ガラスが足りていないのが分かります。

平和資料館の中にいた時に、児童達の歌声が聞こえていました。歌は合唱曲「ビリーブ」。過去の被爆校舎跡と未来を感じさせる子供達の対比が鮮烈で、偶然一緒におられた方は涙を拭っていました。その時の歌声を途中より録音してみました。音は小さいですが静かな場所であれば聴こえるかと思います。

たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は
かならずぼくが そばにいて
ささえてあげるよ その肩を
世界中の 希望のせて
この地球は まわってる
いま未来の 扉を開けるとき
悲しみや 苦しみが
いつの日か 喜びに変わるだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー信じてる

もしも誰かが 君のそばで
泣き出しそうに なった時は
だまって腕を とりながら
いっしょに歩いて くれるよね
世界中の やさしさで
この地球を つつみたい
いま素直な 気持ちになれるなら
憧れや 愛しさが
大空に はじけて耀るだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー信じてる
いま未来の 扉を開けるとき
アイ ビリーブ イン フューチャー信じてる