東京都内の山村・檜原村にあった檜原小学校数馬分校を尋ねて

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日本の総人口の10人に1人が集まる東京都(1,375万人)には八つの村があります。そのうちの七つは東京の南、太平洋上に浮かぶ島々(利島村、新島村、神津島村、三宅村、御蔵島村、青ヶ島村、小笠原村)にあり、残りの1つは多摩地域西部にある2,200人ほどの人達が住む山村・檜原村です。今回はその檜原村の最も奥に位置する数馬地区へ家族で行って参りました。檜原村の北の奥多摩には毎年夏に3-4泊で訪れているのですが、檜原村は子供達にとって初めての場所です。

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檜原村はその面積の92.5%を占める森林と秋川の清流に恵まれた1,000m級の山々にぐるりと囲まれた村です。西へ向かえば、向かうほど標高が高くなっていき、東に隣接する「あきる野市」との境界が最も低く225m。最も高いのは山梨県との県境に聳える三頭山の山頂1,531mで、秋川の源流地も此の山より東へと流れ出しています。村の中央を標高900-1,000mの浅尾尾根が東西に走っており、村を北秋川と南秋川に分けています。

域内に鉄道はなく、国道もありません。路線バスもJR武蔵五日市駅(あきる野市)と村域内を結ぶモノのみで、東京で最も西側に位置する集落・数馬(上地図の赤丸)より北に隣接する奥多摩への奥多摩周遊道路(夜間通行不可)が出来たのは昭和48年、村内より南の山梨県上野原市へ抜ける甲武トンネルが開通したのは平成に入ってからと長く孤立的な地域でした。村にバスに入って来たの、道路が整備された後の昭和19年でした。

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現在では東の東京都多摩地区との結び付きが強い檜原村ですが、この地に人が入植したのは村南西に位置する人里(へんぼり)/数馬地区と言われており、山梨県側から峠を越してでした。山梨県最東部・上野原に中央線が開通したのが明治34年(1901)、五日市線は大正14年(1925)で、鉄道は多くの商品を運んで来ました。檜原村の人々は村の名産の炭や繭を荷馬に載せて峠越えて行き、衣類や調味料、薬や鍋等の日用品を上野原/五日市で求めたと記録が残っています。

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明治政府が推進した学校制度は檜原村にも早くも施行され、村内初めての小学校・檜原村小学校が開設されたのは明治6年(1873)。檜原村村民の子弟へ教育熱は高く、多くの土地や私財、労力の提供により最盛期には村内に小学校が8校、中学校が3校を数えるまでになりました。しかしながら過疎化の進行に伴い、その数は減って行き、昭和57年より統廃合を進めて現在では檜原小学校と檜原中学校の2校となっています。

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今回訪れた数馬(かずま)分校は檜原村立檜原村小学校の分校として平成11年(1999)まで存続した学校です。閉校時の生徒数は男5女2の合計7人でした。自分の子供が通う小学校は1クラス平均30名で生徒数合計約500人。自分の通う学校以外にも、こんな学校があるというのを子供達に見せてみたいというのが訪問の主旨でした。

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上述のとおり、檜原村は大きく分けて北秋川と南秋川に別れるのですが、北秋川の道路は住宅見上げる位置で走り、南秋川の道路は住宅の屋根を見ながら走る事が多いと感じます。この学校のある交差点の道路下には兜作りで有名な「蛇湯温泉 たからの湯」があります。妻も自分も田部重治氏の名著「山と渓谷」にある「数馬の一夜」に憧れたひとりで、檜原村に来るまでのクルマの中でボソボソと呟いていました。

自分 「数馬の一夜」

妻 「数馬の一夜」

息子「数馬の一夜?」

娘「カズマって何〜?」

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その兜屋根が道路の下に見える檜原街道から脇道に入り、急な坂を登った先に旧数馬分校がありました。明治七年(1874)に開校、平成10年度に廃校。現在数馬分校記念館となっています。往時の正門は現在では使用されておらず、建物脇の入口から入りました。うちの子供達が校庭ではしゃいでいた声が聞こえたからか、青いジャージを着たに柔和な表情を見せる男性が現れ、校舎を案内して頂けました。

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先ずは2階から。子供達は探検気分で各教室に突入して行き、自分は子供達の監視役。妻はこの機会とばかしにに初老の男性より檜原村や数馬分校の話しを聞かせて貰っていました。檜原街道を北側に道路を渡ったところでお会いした男性に「お墓参りですか?」と聞かれたので、何故そう聞かれたのか不思議に思っていました。板張りの廊下の窓から外に目をやると、綺麗に整列したお墓が校舎の後ろに見えていました。おそらく数馬に子供連れで来る人が少ないので、そう聞かれたのだと納得したのでした。

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そして、外から視線を戻して気が付いたのが天井の 大カマキリ。1メートルは優に超えるであろう大きさで、夜にはガサゴソと天井這い回っているのだとか...。記念館の方曰く「小さな学校だから、大きなモノを子供達は作りたがった」と回顧調で言われた言葉が胸に響きました。

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廊下側から教室内を眺めると、先生の机の前に弧を描く生徒達の小さな机が並んでいます。先生の机は子供達と視線があわせられる高さ。自分が通った小学校は1クラス40人で1学年5クラスと俗に言われた生徒数千人を超すマンモス校でした。なので、僻地教育と呼ばれる超少人数制の学校は映画かドラマの世界として映り、物語のなかの別世界として憧れを感じてしまいます。

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檜原村の学校でも全校生徒数よりも教職員の方が多い時期があり、ほぼマンツーマンの教育体制と贅沢でもあると思える状態だったそうです。ただし、良い面ばかりではなかったそうです。例えば、生徒全員が親ぐるみで知り合いで、入学から卒業まで同じ顔ぶれで過ごすために生徒間で競い合う土壌が育たない。学校で学べる最大の利点としての集団行動も生徒数が限られているので、野球、サッカー等のチームでおこなう事は自ずと限られてしまいます。

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同じ教室の廊下側を見ると、巨大なカニのような蜘蛛がまさに教室に侵入しようとしている...(°0°)!!      この学校には造形に優れた生徒がいたのでしょう。「小さな学校ですが、造るものは大きく、素晴らしい」。僻地に立地するからこそ、先生も生徒の親達も強くそう願ったであろう姿が見えました。

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隣りの教室を覗いて見ると、黒くて大きいヤツが壁に張り付いているのが見えました。檜原村の秋川には河童が生息しており、秩父から連なる山々には狼が徘徊しています。北に秩父、南に丹沢と連なる檜原村の広大で豊かな自然環境を考えると、このクワガタは実物大なのかも知れません。

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学校の教室の黒板は自由にお絵描きをして良いと言われ、好き放題にしているウチの子供達。お調子者の息子がウ〇コと大きくチョークで書いたのを、娘がプンプンしながら黒板消しで消しています。息子の学校のクラスには息子よりお調子者がおり、教室入口ドアに黒板消しを挟み込み、担任の先生の頭上に落下させた猛者がいるのだとか...。

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教室の窓から外を眺めると、小さな校庭の向こうには稜線が迫っているのが視界に入り、その向こうには青空が広がっていました。数馬の立地する南秋川の谷間より見上げる空は、浅間尾根を越えた北秋川の空より確実に広いと感じられます。

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こちらは廊下の窓より見下ろした校庭。文部科学省が定める小学校設置基準は生徒数40名以下で2,400平方メートル以上。俗に50m x 50mが最低水準と言われています。50m競走は25m地点で折り返しをすればできるかな ||ω・)ジィ・・・・  

<小学校設置基準より抜粋>                                                       校舎及び運動場の面積は、法令に特別の定めがある場合を除き、別表に定める面積以上とする。ただし、地域の実態その他により特別の事情があり、かつ、教育上支障がない場合は、この限りでない。

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昔の小中学校合同体育祭を催したときの写真が展示されていました。記念館の男性に「2キロ北にあるヘリポートなら直線100mは取れるから、土地の登録を改竄して彼処を数馬分校に校庭にしたら?」と冗談を言ったところ、「あそこは防災用の場所だから」、ダメと言われてしまいました

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一階に降りて来ました。下駄箱、縄跳びが閉校時のまま残っています。山村の学校らしく、畑作業、養蚕、川遊び等の課外活動の白黒写真等が飾られていました。この日に案内をして頂いた方は数馬分校がまだ数馬小学校だった時に10年以上教鞭を取った方で、お子様もナント数馬小学校を卒業したそうです。
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一階の1番奥に位置するのは職員室。職員室になぜオルガンがと聞くと、荷物が置ききれない他から持って来て置いてるのだとか。ここの部屋にある楽器は自由にして良いと言われて、ウチの子供達+妻がやりたい放題を開始。

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やはり学校なので、子供達の元気な声が1番似合うとのお言葉に甘えて大きな音と歌声を響かさせて貰いました。アンパンマンの小さなキーボード楽器で少し前まで遊んでいた娘が、オルガンの前に座って一丁前に弾いている( ;∀;) 

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職員室の黒板は閉校当時のままとなっており、3月25日(水曜日)の欄には、修了式と閉校式が並んで書かれているのが見えました。その時の在校生は3年生が2人、4年生が1人、5年生が1人、6年生が3人の男5女2名の合計7人と書かれています。6年生以外の生徒達は数馬分校閉校後は片道30分のバスで揺られて檜原村小学校へ通い始めたのでした。

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閉校時に生徒と先生が力を合わせ作製した模型「分校の思い出」。一時期は生徒が増えすぎてプレハブ校舎増築した時の情景のものだとか。廃校後に校舎が取り壊しになったら、村役場にでも飾って貰おうとしていたものの、廃校から7年を経て記念館として保存される事が決まり、最も相応しい場所残される事なりました。飾られている閉校時の写真は自分の母校でもないのに、見ているだけで涙を堪えてしまいます。

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現在残る分校の木造校舎は昭和34年(1959)もの。白い建物が洒落ているも、壁から突き出る放送用スピーカーが学校であると主張しているかのように見えます。たくさんのボウズ頭と、おかっぱ頭の子供達の後ろに見えるのが先代の校舎。檜原村では貴重な平地である校庭には、集まった子供達が日が暮れても遊び続ける姿が日常だったそうです。

午後3時30分が閉館時間をだいぶ過ぎても木琴を乱打したり、校庭で走り回ったり、フリスビーを飛ばしたりとウチの子供達はこの学校で沢山遊ばせて頂きました。出発する時には記念館の元先生に向かい、「バイバーイ」と元気よく手を振って急坂を下りました。