日本海に浮かぶ孤島・見島、千年を超えて続く田んぼ八町八反

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山口県北部にある長州藩城下町・萩、そこから船に揺られて日本海に浮かぶ見島に行って参りました。この航路は大正二年までは風待ちを要する帆船でしたが、化石燃料を動力とする船が投入され短時間で移動ができるようになり、現在では200名乗りのディーゼル船「おにようず」が就航しています。島の伝統行事に因んだ「おにようず」は鬼揚子とも書き、長男が生まれた家が子供の健康を祈って正月に揚げる6畳程の大凧の名前です。

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萩市内の博物館天井に実物の「おにようず」が飾られているのを見たことがありますが、その大きさたるや口があんぐりする程。吊り上がった太い眉に、立派な鼻、そしておおきな口を持つ鬼の顔が描かれており、大凧が空高く上がれば上がるほど出世が見込まれ、目から赤い房が下がっているのは涙で、強いだけでなく情の深い子に育つようにとの意が込められているのだとか。この大凧を家の天井に飾る家もあるらしく、そのような家で育った子供はちょっとやそっとの事では動じない人間に育つことだと思われます。

見島に興味を持ったキッカケはツィッターでも呟いた「千年の田んぼ 国境の島に古代の謎を追いかけて」という児童書を目にしたからでした。お恥ずかしい話しですが購入はしたものの、実は未だ読んでいない状態で家の何処かに埋もれてしまっています。櫛形になった古代の農地区割と見受けられる表紙絵のある本を手に取った瞬間にビビッと閃いたので、自分の足で歩いて答え探しをすることにしたのでした。

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萩市から45キロ沖合にある見島は見島牛(みしまうし)と呼ばれる和牛の島。自分は訪れるまで全く知らなかったのですが、見島牛はトカラ列島の口之島牛と併せて島ゆえに西洋種の影響を受けていない貴重な在来牛で、市場に出るには年間数頭程で滅多にお目にかかれないのだとか。島のカタチもどことなく牛のカタチをしていており、流石は天然記念物・見島牛の産地と思ってしまいました。

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島のカタチで言えばお尻の位置にあたる見島港に天然記念物に指定(昭和3年)を受け70周年を記念して建てられた銅像があり、島の方を眺めていました。田畑を耕す役畜として戦前は4-500匹飼育されていたものの、戦後の農業の機械化に伴い30頭まで激減。現在は保護・増殖を目的として飼育されております。島で目にした資料によると明治期に本土の牛を導入して見島牛と交配して30頭程を育てるも、農耕牛には適さず次第に廃れていったともありました。

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この見島牛は室町時代に朝鮮半島より渡ってきたと考えられています。水田で働く役牛なので4脚が長く、鋤を引くため前躯が大きく発達しているのが特徴。トラクター等の機械がない時代には役畜の働きの大小がその家の繁栄を決めるもので、見島牛は島の農家にとって欠かす事のできないパートナーでした。見島に来て最初は見島牛が天然記念物だとばかし考えていました。しかし、実際に目にしたパンフレットや解説板には見島牛ではなく必ず"見島ウシ産地"と書かれているのに気が付いたのでした。天然記念物が市場に流通するのかと軽く疑問に思っていたのですが、見島牛そのものは特別天然記念物ではないので、数は少ないも市場に流通しているのだと合点がいきました。

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そんな見島牛のいる放牧地に近い高台から港の方を眺めてみました。山がちな島内の一部に耕作地がまとまっている平地が見え、その向こう側にはフェリーを降りた港と海辺の集落があります。この島の人々の生業は漁業と農業、島にはコンビニは勿論のこと信号もありません。小さな集落のなかでも陸地で農業をおこなう人々の住む東・西地区と島周辺の豊かな漁場で漁を主とする浦地区に別れており、喧嘩しながらも相互依存して暮らしてきた土地です。

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見島の人文は古く、本村の目抜き通り最奥に経つ見島神社は貞観元年(859)に宇佐八幡宮より勧請された八幡宮を元とした社で、農業を主とする宇津・西・東地区の氏神さまとして崇められています。鳥居から集落を見下ろすと黒と赤の瓦の旧家が並んでいるのが目に入りました。

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国内のどの地方と同じく、戦後3,000人いた島の人口も現在は800人まで激減。航空自衛隊のレーダー基地に勤務する隊員と家族を除くと実質600人だけの小さな島です。戦後すぐに米軍が駐留して軍事レーダーを設置し、自衛隊がその後を継いだのが昭和30年台。朝鮮半島への最前線にあたるこの島は古くから防人の地で、戦中戦後は半島方面の見張り台と現在でも防衛上の要所であり続けています。

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島内には笠石(ナバ石)と呼ばれる男性器を模した石が多数あり、小石を積み拝むと子宝に恵まれると現在では言われています。生命力の強さを象徴するものですので豊作や大漁を願う気持ちを表していたのかもしれません。大きな岩の上にさらに鍔の広い帽子を被せたような姿で、どうも、このカタチを見ると那須の笠石神社の本尊を思い出してしまいます。

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島の南にある横浦海岸に出てみました。此処は「ジーコンボ古墳群」と名付けられた平安時代の石室が300メートルに渡り100以上密集する地区です。晴れた日には本土が見られる場所にあり、埋葬品に武具も含まれていることより東国出身の防人が眠っているのではないかと推測されています。ジーコンボという聞き慣れない名前は、見島で爺婆をジイコウ、バアコウと呼ぶので爺公墓からジーコンボとなった説や、治魂墓、 地魂墓から転じたという説まで色々あるようですがハッキリとしたところは不明のままだとか。同時期の集落は西に700メートル離れた本村東部の山麓にありました。

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 見島は山口県の最北端に位置する国境の島ですが、見島近海は暖流である対馬海流が流れている影響で、山口県内で最も平均気温が高い場所となっています。この島で長く稲作がされてきたのは温暖な気候と地下水脈があるためでした。現在では早期コシヒカリをキュウリ栽培と共に取り組んでいる農家も多数いらっしゃるそうです。

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この島は離島にしては珍しく島内にダムがあります(下の地図・中央最上部)。見島の飲料水は深井戸と湧水に依存していた為に、時には塩辛い水を飲むことを余儀なくされていました。真水を常時飲みたいという島民の宿願が叶えられたのは平成14年、つい最近のことだったとの説明がありました。ここのダムカードは離島故に入手困難ということで、後ほど役場を訪れてダムカードを記念に貰ってみました。

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ジーコンボ古墳群から内陸側に入ってスグの開けた土地に、今回の見島訪問のハイライトとなる「八町八反」がありました。見島には至る所に棚田もありますが、此処が島内最大の水田地帯で現在も稲作がなされております。見島の八町八反は他の地方でも見られる八町八反、もしくは八反八畝同様に厳格な広さを表したものではなく、"広い"とい意味合いを持たせた表現の様です。実際の面積は300m x 400m程で12町程あります。上の地図で畦道に沿って百メートルx百メートルが綺麗に取れそうな場所が7箇所、その左側に少し変形型であと2箇所取れそうに見えます。12町(120反)ですので、天候不良等がなければ凡そ120人分を賄えるお米がこの八町八反で昔は採れる計算の広さです。

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奈良時代の養老7年(723)に出された三世一身法(開墾した土地は孫の代の後は公のモノとする)から20年後、農民の更なる意欲を引き出す目的で天平15年(743)に墾田永年私財法の勅命がなされました。開墾を進める時に朝廷に申告し易い区割として、基本単位が縦横1町(現在は109m)となる様に拡げていったのが現在も各地に残る「条里制遺構」だと考えられており、この見島の八町八反が約100メートル四方のカタチをしている理由だと思われます。

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丸石を組み上げて 拵えた無数の溜池が八町八反内に見ることができます。田んぼ1枚ごとにあるのではないかと思わされる程に溜池がありました。見島は四方を海に囲まれているものも、無尽蔵にある海水は人の生活に必要な水としては用いる事はできません。農作業に必要な水は雨水と田んぼ脇の溜池に頼っていました。

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現在ではポンプでの水の組み上げ可能ですが、昭和50年頃までは紐の付いた桶を用いて2人一組で溜池から水を汲み出し、田んぼに入れる作業が太古の昔と変わらずの人力で繰り返しおこなわれていました。縄文時代に伝播してきた米作りが見島でいつから始まったのかは全く不明ですが、八町八反の区画が千年以上も前の条里制の遺構であったと主人公が"発見"をするのが最初に触れた児童書「千年の田んぼ」の話しの筋だと勝手に推測しているのですが、どうでしょう?

条里制の遺構は見島の八町八反だけでなく、大都市にもその痕跡を見ることがあります。もとは耕作地だった土地が宅地化しても、その区割りは1,000年を超えて引き継がれて現在でも確認することができたりします。見島は離島ゆえにか、昔の姿が田んぼのままの姿で残っているのでした。

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米の原産地は中国の揚子江流域とも雲南省の山岳地帯とも言われています。斜面地で粟や稗等の雑穀と共に陸稲として栽培されていたものが、なにかの偶然で水田栽培に向くと"発見"されたのでしょう。上手く育てると米は1粒から千粒もの収穫を得られます。狩猟採集・漁労により食料確保をしていた時代から、稲作が伝播し国中に広がった時代になると養える人口が数十倍と急激に増えていきました。縄文時代の最大人口は2-30万人と推測されていますが、各時代の知恵や技術、労働力と農民の全てを注ぎ込み田圃を広げ、米の収穫をあげる事により江戸時代には3,000万人を養えるまで大地を切り拓いてきました。

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日本全体が完全に飢えから脱したのは戦後暫くしてからでした。そこに至るまでには長雨、日照り、旱魃から洪水、火山噴火にいたるまで列挙したらキリのない自然の猛威が振るい、それに加えて、誤った農業政策や戦争等の人的災害もありました。作物が採れず飢饉となり餓死者が続出して荒地になった土地が多く出る事も断続的に発生しましたが、その耕作放棄地を再び人々は耕してきました。

目の前に広がる八町八反はその幾度となく襲ってきた困難を乗り越えて現代に伝わってきた風景です。田植えを終えたばかりのキラキラと光る水田に等間隔に並ぶ稲の苗、緑の草原が日に日に色濃くなりゆく夏、稲刈りをまじかに控えた黄金色の稲穂が揺れる姿。八町八反の畦道を歩き、代々と続いてきた作り手の想いが詰まった田圃が永く続いて欲しいものだと願わざる得ませんでした。