大地を摺り起こし春を呼ぶ、八戸の冬の風物詩・えんぶり祭り

 

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訪れたのは凡そ1年ほど前になりますが、青森県に行って参りました。「東北の日本海側の積雪は例年より大幅に少なく、反対に太平洋側の八戸では近年見られない程の雪が降った」と、タクシーの運転手より話しを聞きながら目的地に到着。初めに到着したのは奥州糠部三十三観音十二番札所にあたる根城隅ノ観音でした。"根城"は建武元年年(1334)に建てられた通称・八戸城で、その城域の南端にあたる沢里館跡だった場所に観音堂が現在は立っています。

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その観音御堂の傍に「悪獣退散祈願灯碑」と呼ばれる寛延四年(1751)に建てられた石碑があり、鹿嶋神霊悪獣退散と彫られているが見えました。この石碑が建てられた2年前の寛延二年(1749)には大きな飢饉が八戸を襲い、3,000人もの餓死者があったと伝わっています。東北で飢饉というと東風(ヤマセ)等の気候異常が先ず思い起こされますが、この時は猪の大量発生にて農作物が食い荒らされた事により猪飢渇(いのししけがじ)と呼ばれ、石碑には悪獣=猪の退散と彫ったのでした。

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熊やリス様に冬眠をする習性を持たず、地下の根茎を冬の主食とする猪は長期間積雪のある地域での越冬は難しく、猪の棲息北限は宮城県北部の太平洋側あたりだと近年では言われていました。昨今の温暖化の影響や増加する耕作放棄地もあってか、その境界線は北上を続けており、秋田県/岩手県にて猪問題が最近目立ってきています。猪による被害が八戸域において江戸時代にはあったようですが、江戸時代は1700年代半ばまでは小氷河期で現在よりも寒冷な気候だった筈で、また、八戸地域のみに猪が大量発生というのは若干話しが合わない気もすると感じたのですが、その回答を観音堂近くにある八戸市博物館でその理由の説明を見つけました。

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①. 野山を焼き払って、畑を作ります(焼畑)
②. 2-3年で新しい畑に移ります(地力回復で休耕作)
③. もとの畑に生えた植物をエサにし、猪が大発生
④. 数の増えた猪は畑を襲い、大変な被害となりました

八戸市博物館には猪飢渇の発生理由を図解したものがありました。猪飢渇と特別な名前を付ける程の猪被害だったのに、罠を仕掛けて大規模に猪狩りをした等の話しが挿入されていなかったのが気になり、近くにいた博物館職員に質問してみましたが回答は残念にも「分からない」でした。自分の推測では飢饉時に食糧として食べ尽くされたで終わる話しを期待していたのですが...。後日調べてみると、延享二年(1945)より猪が増え始め藩全域に徐々に広がっていった経緯と、八戸藩も大規模な猪狩りをしたと書かれているのを発見。

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八戸は甲斐国南部を本貫地とする南部家が治める土地で、江戸初期に三代藩主・南部重直が嗣子を定めずに病没したため、幕府の命令により盛岡藩8万石と八戸藩2万石に分割。南部盛岡藩より分封された八戸藩の領地は現在の八戸市よりもかなり大きく、南は現在の久慈市/葛巻町まで広がっていました。明治四年(1871)の廃藩置県にて八戸県を経て青森県に編入されるまで八戸藩は続いたのでした。

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奥州北部に位置する八戸藩の領地は当時の農業技術では稲作は難しい土地でした。悪獣退散祈願灯碑を建立した宝暦年間の13年内でも5割を超す不毛率の凶作年が6年、不毛率が9割を超す大飢饉が2度も発生している程に凶作が頻発する苛酷さです。後に続く天明の大飢饉(天明2-8年)では領内6万5千人の人口のうち半数余が餓死したとまで言われています。

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江戸時代初期には湯浅、龍野、小豆島にて発達していた醤油生産が、江戸の巨大市場に近い房総の銚子で元和二年(1616)、野田で元和十年(1620)に醸造が開始されました。千葉県野田にある資料館に展示されていた関東醤油番付には、時代(天保十一年)は少し下がりますが野田町や近隣の上花輪村などの醸造家が多数並んでおり、関東でも盛んに醤油が作られた様子が伺えます。

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地場の筑波大豆だけでは賄いきれない旺盛な醤油向けの大豆需要に、八戸藩は新規事業として藩をあげて大豆生産を開始したのでした。斜面を開き、焼き畑をして大豆生産を毎年増やしていき、博物館内の解説では八戸藩の財政は農業生産高の1/4を占める大豆の利益を抜きにしては成り立たなくなっていたと書かれていました。そして其れが、猪の大量発生に繋がる要因となってしまったようです。

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博物館内には猪が病により止むことを願う絵馬も展示されていました。立派な牙を持つ猪は体重が30キロにもなると人間の手では余り、頑丈な罠や鉄砲を用いなければ駆除する事ができません。猪は鹿と共に日本人が農耕を始めた頃よりの"悪獣"であり、小豆島の100キロ超える猪避けの石垣や、島内の害獣を10年かけて絶滅させた対馬の猪鹿追詰。現在であっても農作物の害獣被害は主に猪鹿によるもので、縄文時代から永遠と変わらずに続いている頭痛の種です。

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これまで長々と猪事を書いてきましたが、そんな本州の最北にあたる八戸の北国の厳しい冬の終わりを告げ、春を呼び起こす大祭「えんぶり」を今回は見に来たのでした。色艶やかな烏帽子を被った男衆が雪の大地で舞う勇壮な祭りです。門付けをおこなうえんぶりは明治政府より風紀上好ましくないと明治九年(1876)に禁止令がだされましたが、五穀豊穣を願う大切な行事として5年後に復活を遂げ、現在まで多くの市民の力により続けてこられた祭りです。

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杁摺之巻(えぶりすりのまき)には、杁摺りは糠部五郎より始まるという説や源義経が蝦夷地渡海前に当地滞在中に始まったりとも書かれています。杁(えぶり)は田んぼを平に均す代掻き用の道具で「えんぶり」の語源であると言われています。えんぶりを舞う事を"摺る"と言うことにも其の痕跡を見ることができます。明確な起源こそ不明ですが、この杁を持ち豊作への強い願い共に舞い始められたようです。

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根城隅ノ観音の隣りにある復元した史跡根城にて、売市えんぶり組の公演を見学してみました。売市えんぶり組はえんぶり発祥の地と呼ばれる町の組で、唯一長者山・新羅神社の境内に上がっての参拝が許される特別な組です。他の多くの組の丈夫の烏帽子には牡丹の花が飾られるのですが、売市組は古くからの伝統的な姿を堅持しています。

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摺りの間におこなわれる子供達による祝福芸のひとつ、恵比寿舞い。子供達が恵比寿様に扮し、釣竿を持って鯛を釣る様子をひょうきんに舞います。餌を食い逃げされたり、針を岩場に引っ掛けたりしながらも、最後には鯛を見事に釣り上げていました。中央の子は両脇のめんこい2人を演技で引っ張り切り、見学者より拍手喝采を受けていました。

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売市の丈夫のトレードマークたる黒い衣装。古くより伝わる「ながえぶり」を鳴り子と鋤台を持った3人の丈夫達が、勇壮な舞いを見せてくれました。両足で大地踏み締め、頭を地面スレスレまで振ることで春の訪れを大地に伝え、冬に眠っていた大地を揺さぶりおこす為だとか。田の神は大きな烏帽子のたてがみ部分に宿っているそうです。ながえぶりを撮影した動画が此方↓です。

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えんぶり組は親方、丈夫、舞子、囃子より構成されています。先頭に歩くの人が持つ幟に「取締」とあるのは、全てのえんぶり組を纏める大役を持つ売市えんぶり組のみが持つことを許された特別なモノ。先頭に立つ丈夫をえんぶりの始祖と呼ばれる立花藤九郎に因みに「藤九郎」と呼び、最後を「畦留め」と呼んでいるそうです。

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長者山新羅神社にやって参りました。南部氏の遠祖である新羅三郎義光命(源義光)を祀った社で、八戸市内では櫛引八幡宮と並び篤く崇敬を集める神社。標高45メートルの小高い山の山上にあり、参道を10分程テクテクと歩き到着しました...。と思いきや到着したのは福聚山大慈寺の山門。更にテクテクと墓所を歩きて長者山新羅神社へ向かいます(^_^;

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夏の八戸三社祭りで訪れて以来の参拝です。えんぶりは此処の社殿で豊年祈願の摺り始めを奉納し、市内へのえんぶり行列をおこない幕を開けます。お祭りは新春の祭りとして小正月に行われていたのですが、明治四十二年(1909)より伊勢神宮の五穀豊穣を祈る祈年祭と合わせて2月17日に開催されるようなり現在に至っています。

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各えんぶり組は八戸の商店街や近郊の町に門付けをしてまわります。八戸の繁華街・十三日町にて目にしたには柏崎地区の宿を構える塩町えんぶり組(自分が個人的に応援する組です)!! その豊年玉すだれ(南京玉すだれ)による祝福芸を偶然目にする事ができました。各組の門付け場所は公式スケジュールに記載はありませんが、門付けをして市内各地をまわっています。その姿は地域に根ざした祭りの原点に思えます。

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「お庭えんぶり」見学のために、市内にある泉山家の邸宅「更上閣」に移動しました。雪の積もった庭に面した席にて煎餅汁を受け取り、案内に従って席に着きました。醤油仕立ての汁に根菜と小麦粉を原料とぢた南部煎餅を入れたものです。稲作に不向きな土地故に各種雑穀を育て、ひっつみが主食であった南部藩/八戸藩の文化背景として、天保の飢饉の時に八戸で誕生したと伝わっております。歴史ある建物の中で、甘酒と温かい煎餅汁をフウフウとしながら、往年の大旦那になった気分で縁起もの演技を鑑賞するという嗜好。

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登場してきたのは昼間に目にした売市えんぶり組でした!! 昼間に被っていた烏帽子と違い、頭に長いふさの付いた烏帽子で「どうさいえんぶり」を披露。「正月の祝いに松の葉を手に持ちて....」で始まる口上に始まり、鳴輪を持つ5人の丈夫が前に出て苗代に種を撒き、輪になって鳴輪で打ち鳴らし大地に少し早い春の到来を告げます。

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売市えんぶり組の最長老が育った稲を田に植える様子を滑稽演じられていました。畝を造り、苗を植える。日が落ち始めており氷点下にもなる雪の大地に素足を付けることで春を告げる、迫真に迫る摺りでした。その見事な粋な姿には観客より惜しみのない拍手が贈られていました。

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5人の丈夫達も後退しながら苗を大地に植えていきます。馬の頭を模した烏帽子を被る人が動きまわる姿は、田植え前の人馬一体による田起こしにも見え、腰を屈めて苗を手植えしている姿は人の仕草に見えるのですから不思議なものです。馬のかたちをした烏帽子が用いられるのは、南部藩が古くより名馬の産地だったからではと言われています。

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輪っか銭を付けた銭太鼓を持つめんこい子供達が祝福芸の「えんこえんこ」を披露。まだ幼稚園児ではと思われる幼子から青年、老人まで秋頃よりコツコツ練習を重ねてきた芸を披露する3日間。天岩戸に隠れた天照大御神が漏れ聞こえる外の笑い声に固く閉じた戸を開いたように、冬眠していた大地も子供達の賑やかな様子に目を覚ますに違いありません。

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大黒舞、恵比寿舞と明るく楽しい祝福芸が続きました。恵比寿舞の最後には、見事釣り上げた鯛を旦那様に捧げて子供達の祝福芸はめでたく終了。笛、太鼓、手平鉦の軽快なリズムで、前に出て演じる丈夫や子供達を支える囃子も良かったです。昔は100を超えるえんぶり組があり、正月になると各えんぶり組が門付けに雪道を練り歩く姿は春の到来を告げる風物詩だったことでしょう。

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田植えを無事に終え、田んぼを綺麗に慣らし、「摺り寄せた、諸国の宝を摺り寄せた」と秋の豊かな実りを祈願して"摺り納め"となり、最後に丈夫達がジャンギ棒を地面に刺す仕草をして"畦留め"をおこない、売市えんぶり組のお庭えんぶりは無事に終了となりました。"畦留め"は田んぼに張った水が漏れないように封じる動作を祝詞を唄いながらおこなうことです。

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この年の八戸えんぶりには計33組(ながえんぶり6組、とうさいえんぶり27組)のえんぶり組の参加があったそうです。雪国に春を呼ぶ風物詩・えんぶり一色に染まる八戸の町。今年は売市えんぶり組を中心に見てみましたが、えんぶり組はそれぞれ個性があるので、次は他の組の門付けの開始から追いかけをして見てみようと強く思ったのでした。