ハンセン病施設「重監房」隔離のなかの隔離、四重の扉の向こう側

f:id:tmja:20181105175031j:plain

群馬県へ行って参りました。「草津良いとこ1度はおいで アァ ドッコイショ」と草津節を唸りながら、郡域最大都市の中之条町から右へ左へと蛇行を繰り返す道を通って標高1,000mを超える草津の高原地帯へ入って行きます。2018年1月に白根山にて小規模噴火があり、宿泊客のキャンセルが相次ぐ事態も乗り越えたようで、紅葉狩りに温泉旅行と行き交うクルマの交通量も多く感じられました。

f:id:tmja:20181105175411j:plain

草津は白根山南東の緩斜面にあり、強酸性の高温源泉を持つ天下に名高い草津温泉と上信越国立公園の緑に囲まれた東の横綱と評される温泉地で、「万病に吉」との謳い文句で多くの湯治客を迎え続けてきました。幕末期には「草津千軒江戸構え」とも言われる程に賑わいを、現在では国内外より年間300万人超す人々が訪れる一大観光地となっています。

f:id:tmja:20181105175403j:plain

光あれば影あり、表あれば裏ありで、その「万病に吉」に縋る思いで草津温泉に湯治にいた人々のうち、その発展による市街地拡大で追い出された人々がいました。上の写真は湯畑脇に建つ檜造りの白旗の湯(新生・御座之湯)で、この湯は元々草津温泉の東端(現在の大滝湯付近)にある低地にあった集落・湯ノ沢の中心にありました。そこは酸性の硫黄泉が皮膚病に効くと名高く、全国より集まった癩病(現呼称 ハンセン病)を患った人々が霊泉と慕い集落が形成された場所でした。

f:id:tmja:20181107015150j:plain

癩病は古来より存在し、その起源は東アフリカとも中近東とも言われています。日本には6-7世紀頃に朝鮮半島から海を渡った保菌者が持ち込み拡散したとのではないかと考えられており、皮膚と神経を犯し、顔面変形等の外的な異常が表れやすいのが特徴で、人から人へと伝染する事により昔から忌み嫌われてきた不治の病でした。

f:id:tmja:20171006141029j:plain

癩に犯されることを前世の業とも天罰であるとも昔の人々は考え、患者本人は言うに及ばず、その家族まで激しい差別の対象とさせた酷い病でした。発病した患者は家族に迷惑をかけられないと、こっそりと人知れず家を出て、神社仏閣での物乞いや四国遍路へと浮浪者としての人生を送る事が多かったのだとか。熊本の加藤清正公の墓所のある本妙寺はその様な人々が集まる場所のひとつで、参道には癩病患者が左右にと居並び、参拝者に喜捨を求めていたと本妙寺山門隣りの宿に宿泊した時に聞いた事がありました。加藤清正は癩病を患ったとの話しがあり、清正公の加護を得ようと癩病患者の集まるところとなったのだそうです。

f:id:tmja:20181105175500j:plain

東京都西部・東村山市にある国立ハンセン病資料館前建つ遍路姿の母子像は、元善通寺(香川県)にて建てられたのを移設したものです。母親の胸の高さぐらいの身長から判断して、娘の方は現在で言えば小学生低学年ぐらいでしょうか? 母が病んだのか、娘が病んだのか、故郷を追われて歩く親子の姿が脳裏に浮かんでしまい、いたたまれなくなってしまいます。だいぶ前の映画ですが、松本清張原作の「砂の器」に出てきた父子を思い出しました。

f:id:tmja:20181105175423j:plain

その様な不遇の癩病患者の救済に本格的に立ち上がったのは来日した外国人でした。日本最古のハンセン病病院・神山服生病院は明治二十二年にフランス人宣教師・テストウィード神父により設立され、熊本に回春病院を造った宣教師ハンナ・リンデル女氏は、本妙寺に並んでいた癩病患者に心を痛めて立ち上がったのでした。草津では宣教師コンウォール・リー女史により湯ノ沢に住む患者達への生活、教育、医療への献身的な活動がありました。湯畑から徒歩5分程のところにある頌徳公園は彼女の功績を讃えたもので、リー女史の遺骨は草津の教会墓地に病人の墓に囲まれて眠っています。

f:id:tmja:20181105175232j:plain

明治三十年(1897)にドイツで開催された第一回ハンセン病国際会議にてのハンセン病患者の隔離方針決議を受け、明治四十年(1907)に「癩予防ニ関スル件」が制定され国による隔離政策が国内にて始まります。上の写真は東京西部に設置された全生園(旧名:連合府県立全生病院)の明治42年(1909)開園当時の写真です。この時に収容対象は全癩病患者のうちの1割にも満たずとまだ僅かでした。国内全ての患者の生涯隔離を計る「癩予防法」の制定が昭和六年(1931)になされ、その後に在宅看護を含む全ての癩病患者を全国津々浦々まで捜し出し、患者狩りと評される社会運動「無癩県運動」の展開と隔離政策はエスカレートの一途を辿ります。

f:id:tmja:20181109152521j:plain

癩病/ハンセン病に有効な治療薬が世に出たのは、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンによる癩病の原因である癩菌発見(1873)より70年の時を経てからでした。日本にも戦後すぐの1947年にその治療薬が入り、翌年より全国の療養所で使用が開始されますたが、社会はハンセン病患者を受け入れないままの状態が続きます。癩病患者は他人と同席できない為に教育、勤労、納税の義務も権利も事実上適応されず、新たな憲法で謳われている「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」も事実上の適応外であるかのような扱いを受けていたのです。ハンセン病は完治できる病気であるとなった後でも旧来の差別偏見残り、その非人道的と現在では非難される法律「癩予防法」が廃止されたのは比較的最近の平成八年(1996)になってからでした。

f:id:tmja:20181105175256j:plain

治療薬も開発が続けられ、現在ではMDT(他剤服用療法)が主流となっています。上のパッケージの写真を見るとヒンディー語が最下部に併記されているのが見えるのは、全世界の癩病年間発病者数21万人ほどのうちインド1国のみでその半数を占めているからです。ハンセン病との闘いは世界中で現在も続いており、WHOが設定した基準"1万人の1人未満"に達成していないのはブラジル1国のみと、この病と闘いの歩みを人類は大きく進めています。

f:id:tmja:20181105175050j:plain

日本国内にあるハンセン病療養所は現在14箇所(国立13 私立1)あり、草津に現在ある国立療養所・栗生楽泉園は上述の湯ノ沢より昭和7年(1932)に東に3km程の滝尻野に移動したものです。ハンセン病予防上、市街地に患者を放置できないと帝国議会にて設置が可決され、全国で二番目に開設された国立ハンセン病療養施設となりました。湯治が継続できるようにと草津より数キロ続く木管にて温泉が引かれ、新診療所と病室が準備され、自費にて園内に家を建てる許可もあり、5年で300人程が湯ノ沢より移動します(残り500人は湯ノ沢を死守すると移動を拒否)。

開演時には職員として医師1名、薬剤師1名、看護婦3名、食事係、修繕係等などだった楽泉園は拡大を続けていき、未感染児童のための保育所、草津小学校栗生分校を持ち、盆踊りに運動会と癩病患者の新しい共同体が築かれていきました。中央会館や神社、各種施設の増築により総棟数は最盛期には300を越え、強制収容による新しい入園者および湯ノ沢集落解散によりの増加で、昭和17年には1,000名を超えるまでになっていました。

f:id:tmja:20181105175035j:plain

平成二十年(2008)に「ハンセン病問題基本法」が制定され、地域との交流を図り、ハンセン病施設を開放し広く知識の普及に努める方針が打ち出されました。これにより国内の療養所に訪れられる門戸が大きく開かれました。日本ロマンチック街道との愛称を持つ国道292号線脇にある栗生楽泉園の門柱。道路両脇に建つ門柱は新しいもので、往来を妨げるものはなく自由に通行ができるようになっています。

昭和七年(1932)の開園時に建てられた門柱跡は現門柱より東へ20メートル程歩いたところにありました。そこにはかつて守衛所があり、門柱には頑丈な門が備え付けられていました。番人は栗生楽泉園患者の逃亡を見張ると共に、特別病室こと懲罰施設・「重監房」の監視を兼ねていたのです。国内ハンセン病史では必ず語られるこの施設・重監房を見たいと思いやって来たのでした。

f:id:tmja:20181105175330j:plain

道路から脇道にそれ、松林を50メートル程歩いたところにそれはありました。癩病を患った人々は"患者狩り"にて半ば強制的に収容された人が多く、全国の癩病療養所において逃亡や反抗が度々起きていました。療養所所長には秩序維持のために「被救護者ニ対シ必要ナル懲戒又ハ検束ヲ加フルコトヲ 得」、即ち「懲戒検束権」が認められ、特に反抗的な患者には監禁室にて30日以下の監禁と減食が認められていました。昭和六年(1931)に公布された「国立癩療養所懲戒検束規定」に至っては所内の草木を傷付けた時までの細かい規約が掲載されており、何故ここまでの明文化が必要だったのか首を傾げるものもありました。

f:id:tmja:20181105175320j:plain

昭和十一年(1936)の全国療養所の所長会議にて、不穏癩患者を取り締まる特殊監禁所を求める声が高まります。長島愛生園(岡山)を皮切りに各療養所内に監禁所が設けられ、草津に出来たのが目の前に残る建物のコンクリート基礎部分、昭和十三年(1938)12月24日に竣工された監禁所・「重監房」でした。此処に建っていた木造モルタルの建物は戦後に発覚した行き過ぎた管理の追求を受ける最中、昭和二十八年(1953)に施設側により意図的に取り壊しがなされた場所です。

f:id:tmja:20181105175159j:plain

栗生楽泉園の重監房は高さ4.5mの威圧的な壁が巡らされた縦15.5m x 横23.6mの建物でした。内部には4.5畳ほどの監禁室が8部屋があり、特別療室と呼ばれた部屋に至る迄には厚さ五寸のくぐり扉を4つ通らなくてならず、その扉全てに大きな南京錠が掛けられていた監獄でした。昭和十四年(1939)、熊本本妙寺部落の解散がおこなわれ、「癩を伝染させるぞ」と全国で寄付を求めた事で悪名高い相愛更生会幹部の多くが投獄され、その他には曖昧、不明瞭な理由での投獄も多いと患者側の多くの証言で伝えられています。

f:id:tmja:20181105175212j:plain

f:id:tmja:20181105175107j:plain

重監房は設置された昭和十三年より厚生省医務局長の閉鎖の約束を得た昭和二十二年まで9年間まで運用されました。門前に掲げられた木製の「室病別特」と書かれた表札の下をくぐり、入室された人の数は凡そ92名。国会調査団に提出された資料上では22名(出監後の衰弱での死亡含む)が亡くなったとされていますが、実際にはより多くの犠牲者がいたと考えられています。実質刑務所と言える特別病室に監禁されたのは主に他園よりの依頼、逃走癖、賭博、詐欺、窃盗等で、療養ためではなく重罰与える為に入れられました。また実際に投監せずとも、「少し涼しいところで頭を冷やしてくるか」と言えば、労働作業を渋る患者にも充分効き目があったのは容易に想像がつくところです。

f:id:tmja:20181105175119j:plain

f:id:tmja:20181105175113j:plain

この中世時代の牢獄のような重い雰囲気の通路は、1歩踏み入れただけで回れ右して踵を返したくなります。ここは栗生楽泉園に併設された重監房資料館の実寸大再現模型内ですが、直ぐ後ろの厚い扉がいまにも閉まり閉じ込められるのではとの怖さが感じられました。左手には足付き洗面台、戸棚だけが残る名ばかりの医務室があります。

f:id:tmja:20181105175339j:plain

目の前の基礎部分が正面入口を入った場所の通路(土間)の跡です。左には名ばかりの医務室。右には此方も名ばかりの宿直室があった場所で、監禁されていた人々の持ち物が置かれる倉庫なっていました。中央の通路と各房への通路には屋根がなく、房は高い塀で仕切られており独立していた。訪れた秋の日の気温は昼間で12度、夜中には7度程で草津温泉ではダウンジャケットを着ている人も見かけました。ここ40年程の気象データで確認してみると、草津の最低気温はマイナス14.4度、最深積雪162センチとありました。

f:id:tmja:20181105175150j:plain

そもそも、何故この様な監禁所が必要だったかと言うと、癩病は人から人へと感染す病であり、非癩病患者が入る一般の刑務所に入れる事ができないからでした。警察では癩病患者の犯罪は刑務所へ送るのではなく癩病療養所へ送るしかなく、各地の療養所は犯罪者を扱う場所でないので迷惑を被るばかし...。戦後に起きた楽泉園での半島系患者による3名の殺人事件が強い後押しとなり、昭和二十八年(1953)に熊本にハンセン病患者専門の刑務所・菊池医療刑務所の開設するまでこの様な状態が続きました。特殊刑務所は1996年の癩病予防法廃止まで 法務省管轄下にて運営がなされていました。

f:id:tmja:20181105175056j:plain

4重にもなる鍵付きの扉をくぐって到達できる「特別療室」は板張りで薄暗い殺伐とした部屋。頭より高い場所にある僅かな外光の入る小窓(14cm x 70cm)と、食事を出し入れする小さな取り出し口があるのみ。この隙間からは夏は蚊等の虫や暑さ、冬は寒さと雨雪が入り込み苦しめられたのだとはずです。患者与えられたのは敷布団と薄い掛け布団のみで、氷点下となる冬の草津では極寒、飢餓、暗闇、孤独が襲う恐ろしい場所だったに違いありません。

f:id:tmja:20181105175224j:plain

この通気口のような受け渡し口より1人2食の食事が朝8時と2時に受け渡しがなされていました。資料館には実物の木箱(お弁当箱)が展示されており、ここにご飯(麦)をおにぎり1個分ほどを詰めて梅干しもしくは沢庵を添えた簡素なもので、朝食には具のない味噌汁もしくは水と一緒に供されました。

f:id:tmja:20181105175129j:plain

部屋の外から見る受け渡し口。飯場から此処までの食事の運搬は栗生楽泉園の患者の仕事で、中の暗闇への無言での受け渡しがされていました。限られた食事のみで長く生き延びた収監者のなかには、受け渡し口から手を伸ばせば採れる隈笹や、雨水や雪も食していたようで、重監房へ食事を運んだことのある証言者のなかには、痩せ細った骨と皮ばかしの手が宙を掴むのを見たとの証言もあります。

f:id:tmja:20181105175102j:plain

f:id:tmja:20181105175241j:plain

隔離の中で隔離された監房の入り口のドアを閉めると真っ暗闇。特別療室にも半間四方の便所はあるものの、逃亡を恐れ外つながる汲み取り穴は小さく掘られていました。標高1,000メートルを超える現地は冬季には室内でも霜で布団が凍り付く寒さ。冷凍庫の中にて暮らす厳しさです。凍死を確認した後にも続けて冬に投獄している事により、その意図は明白に思えます。規模こそは全く違うものの、アウシュヴィッツのガス室送りを想起させるものがありました。

f:id:tmja:20181105175350j:plain

監房の実際に並んでいた区画。カレンダーを作り一日一日消していった跡や〇やXにて日数を数えた痕跡、「癩を病むが故にこの悲運!! なんという惨めさよ」、「無事のつみにて入る」等の訴えが監房の壁に書かれていたそうです。全収監者の平均監禁日数は130日にもおよび、盗品である自転車を購入した理由で収監された者が最長で549日にて獄死、続く439日収監された者は殺人の嫌疑で若干18歳で獄死。獄死した者の殆どが冬季の凍死であり、その死体の搬出は楽泉園の患者がおこないました。遺体は布団と共に床に凍り付きベリベリと剥がす必要があったとの証言がありました。

f:id:tmja:20181108214754j:plain

再収監を含めての上限規定合計60日を大幅に越す監禁も多く、重監房に加えて保育所での過酷な児童虐待にても多くの子供達を死に追い詰めました。物資の横流しやピンハネをして私腹を肥やす等も数えれば列挙しきれず、その職務を大幅に逸脱した行為は言語道断であると言わざるを得ません。その庶務課課長および、患者を苦しめた実行犯とも言える看護長、炊事主任、保母らは解任。園長は休職という軽い罰にて幕引きが図られました。

ハンセン病患者と国が和解に至るまでには実に半世紀を要しました。国はその過ちを認め行政、立法、司法の府がハンセン病政策の過ちを謝罪し、「ハンセン病問題の解決の促進に関する法律」が平成二十一年(2009) に施行されました。「国は、ハンセン病の患者であった者等の名誉の回復を図るため国立のハンセン病資料館の設置、歴史的建造物の保存等ハンセン病対策の歴史に関する正しい知識の普及啓発その他必要な措置を講ずる」との文言に従い国の責任にて設置したのが東京の国立ハンセン病資料館であり、この日に訪れた重監房資料館です。

f:id:tmja:20181108170120j:plain

昭和二十七年(1951)に撮影された栗生楽泉園全景の左端に、ポツンと一軒だけ丘の上に建っているのが重監房です。実物の重監房を写した映像資料は殆ど現存せず、上の写真は昨年の資料調査で発見されたものが資料館に展示されていました。重監房跡地および資料館を見て感じたのは、被害者と作業に関わった楽泉園患者および遺物からの声ばかりで、何故だかは推測はできますが加害者側からの声が全く聞こえませんでした。

また、第二次世界大戦の戦前戦中、そして全国が焦土と化し貧困に喘いだ戦後の事情を考えると、特効薬発明前に不治の病と言われていた感染病の療養にあたっていた園職員は非常に厳しい状況下で感染を恐れながらも患者と向かい合っていたはずだと考えました。重監房の運用が終わってから既に70年が過ぎ、重監房という惨い刑務所以下の場所があった記録を残すのと同じく、そのような苦しい時代にもハンセン病患者を支えた人達にも光があたって欲しいと思いました。

f:id:tmja:20181105175303j:plain

栗生楽泉園の敷地内に設けられた納骨堂です。ハンセン病療養所には必ず火葬場、納骨堂、監禁室がると言われています。脇に立つ解説板を読むと「物故者2,016人、胎児26人、納骨数1,212柱、胎児1柱」とあります。GHQの承認も後押ししてか、ハンセン病患者は戦後も実質的な隔離状態が続き、患者同士の結婚は認められるも子供を持つことは禁じられていました。昭和二十三年(1948)年に制定された「優生保護法」を法律的背景に得て、多くのハンセン病患者は強制的に断種手術を男女ともに施されています。

全国で凡そ1,400人のハンセン病を患った方々が現在おり、その人々の平均年齢は80歳を超しています。既に生活は療養所にしかなくなった人達です。現在でも実家の敷居を跨ぐことをできず、本名の公表を憚り、死んでからでも故郷の墓に入ることができない人もいます。現在の草津・楽泉園の入所者数は78名で、その多くは若くして此処に入った人達です。

f:id:tmja:20181105175046j:plain

ハンセン病/癩病を恐る根源は人間が元来持つ「異形への恐れ」なのだと思います。それが感染するが故に現在まで長く、日本のみならず世界中の患者とその家族を苦しめてきました。世界の発展途上国と言われていた国々も大きな発展を遂げつつあり、治療方の確立がなされたハンセン病は天然痘ウィルス同様に根絶宣言がなされる日が遠くない将来に訪れることでしょう。

ただし、ハンセン病は感染病のひとつでしかなく、エボラ出血熱やSARS(重症急性呼吸器症候群)等のように新しく耳にする伝染病で人類の手に余る病気が将来現れない保証はありません。その時には緊急措置として自分の家族や自分自身が隔離され、生涯をその隔離地区で過ごさなくてはならなくなることもあるかもしれません。治療法のない感染病が類を及ぶと知った場合には、自分も含め大多数の人が他人の強制隔離やさらに非人道的なことであっても目をつむって賛成すると思えます。例えそれが隔離のなかの隔離、4重の扉の向こうだと知ってもです。もしそうであるならば、100年前にハンセン病患者を白眼視し、傍観をして迫害をした人達と自分はなんら変わらないのかと思い当たり溜息をつきました。

f:id:tmja:20181105175505j:plain

納骨堂の脇でその様な事を考えていた時に、園施設の職員に押された車椅子に乗った女性が自分の前を通り掛かりました。「こんにちは」と声を掛けられ、「こんにちは、紅葉が綺麗ですね」と条件反射で返したものの、お顔を見て良いものかどうか咄嗟のことで判断に困り職員さんの方に視線を向けていました。栗生楽泉園含めてハンセン病施設をこれまで5箇所を訪れ、元患者の講演会を聞いた事もありましたが、実際に入園されている方を前にして困るだけしかできませんでした。

「無知は罪」、もしくは「他人を傷付ける時に、無知は罪である」の言葉をハンセン病広報施設で目にすることがありますが、この言葉だけでは4重の扉の向こうには届かないのではないかと考えました。紅葉に染まる草津の楽泉園からの帰路に、以前訪れた国立ハンセン病資料館の出口に掲げられた言葉を思い出しました。それは「あなたのやさしさを信じて」と短く控えめながらも、心を揺さぶられる言葉でした。