福島県内国道6号線、放射線による帰還困難区域(富岡-波江間)14km

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あの震災から八年が過ぎた福島県浜通りに家族4人で行って参りました。浜通りには東日本大震災が起きて間もない頃に訪れており、いわき市に住む知人の案内を受け大震災の惨状の一部を目にしました。津波の襲来で大破した家々の残骸、断水により消火活動ができなかった為に50軒の家々が燃えた久之浜地区の焦げた臭い。その爪痕を見ただけでも襲ってきた津波の激しさ、その恐ろしさを実感させられました。

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繰り返しの警告音と共に「緊急地震速報です。強い揺れに注意してください」という音に驚き、遊ぶのを急に止めて親に抱き着いてきた息子は当時一歳。娘はまだこの世に生まれていませんでした。福島原子力発電所が制御不能な状態となり、放射能を恐れて妻と息子を関西の親族の処へ避難させるかと真剣に悩んだ事もありました。枝野官房長官の「ただちに問題はない、ただちに影響はない」という苦し紛れの説明は聞く気にならず、息子の飲水は輸入品のミネラルウォーター、食べ物も関東より西、キノコ類は絶対に食べない、洗濯物も外には決して干さず等々と自分達に出来る対策をした事を思い出します。まさか、放射能を測定する機械の使い方を学ぶ日が来るとは夢にも思ってもいませんでした。

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そんな日々から8年の年月が過ぎた今年。子供達に福島を見せようと思うところがあり、妻と息子、娘と一緒に浜通りを1泊2日で訪れてきました。大津波が襲い、放射線がやってきた当時の事を噛み砕いて子供達に説明をし、子供達の質問に答えるのは自分達親にとっても有意義な時間と感じられました。この記事は何年か前に書いたものですが、それをベースにして子供達との訪問を加えるカタチで全体を更新しています。

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阿武隈山地と太平洋に挟まれた福島県東部は"浜通り"と呼ばれ、膨大な電力需要を誇る首都圏への供給をする為の発電所が立ち並んでいる地域です。東京電力傘下の福島第一、福島第二原子力発電所に広野火力発電所を足した最大出力は、震災前には東京電力の総発電量の2割を超えるまでになっていました。また、東北電力も福島第一原子力発電所から10kmも離れていない場所に浪江・小高原子力発電所建設を進めていた場所で、98%まで用地買収を終えるも福島原発事故により断念するといった原発銀座でもありました。

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電気に色が付いていないのが原因なのか、震災から8年を経過した現在は、電気が何処から来るのかは意識しないで日常が送れる普通の日々に戻っています。浜通りの人が食べる寿司ネタのサーモンがどこの海で採れたかを気にしない様に、東京の市井の人々も電気が何処から来るのかを気にせずに電気をまた消費しています。盛んに節電を促していた緊急事態対応型の社会も徐々に変わり、甲子園を見るテレビとエアコンで電気が足りなくなるとは既にテレビに表示されず、秋田・金足農業高等学校の健闘ぶりに熱くなる事もできました。

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自分の父親の故郷は茨城県で、震度6の地震に襲われて蔵、長屋門、主屋等のガラスが割れ、瓦が落ち、壁にヒビが入り、墓も倒壊。その後の放射能の影響で貸し出ししていた土地も解約(椎茸栽培で貸していた竹藪が一番早かった)と被害を受けました。震災直後は全ての交通機関が停止し、あの日の午後2時46分に震度6強の場所にいた自分は帰宅するまでに2日半を要しました。激しい余震が続くなか店頭の食料品、ガソリン等が消えて行くのを真近で見ていたので、帰宅後すぐに水/食料品/ガソリンと買い貯めに走ったの覚えています。

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震災後にも仕事で福島県いわき市を度々訪れていました。福島第一原子力発電所の近くを通る国道6号線が開放されたニュース(震災より3年半後)に続き、放射能汚染が深刻と言われていた浪江町から福島市に通じる国道114号線も開放になったと聞き、国道6号線を北に向かってクルマを走らせた事もありました。2014年に一般解放された直後に1度だけ仙台まで6号線を北上した事があり、このルートを震災後に走るのは3度目。上の写真は四ツ倉駅前の交差点です。3月11日には此処の交差点より先に浸水した地域があり、警察が出て昼夜問わずに通行止めになっていたと地元の方より聞いた場所です。

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東日本大震災後1ヶ月も経たずにいわき市に入った時には、水戸を越えた辺りよりラジオを常に流し続け、トンネルを通る度に地震が突如起きて崩落しないかと過度な心配をしていたのを思い出します。放射能の恐怖に駆られて、マスクが飛ぶように売れていた東京の風景に慣れていた自分には、いわき市の街を歩く人がいっさいマスクをしていなかったのが驚きでした。家を津波で破壊された人、小名浜の工場が自宅の前にありクルマだけ流されたで助かった人、連絡のとれなくなった成人した子供達を探しに通行止めになっていない山道から向かった人。無事が確認できて、再会できることが何にも替え難い喜びだと思えた時期でした。

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原発事故発生後、廃炉作業の一大拠点となったJヴィレッジ。サッカー日本代表選手が練習をするナショナルトレーニングセンター(原発より20km)の巨大施設だった場所を、震災後には国が管理する原発廃炉拠点として利用したのでした。上の写真にはサッカー場を広大な駐車場としており、写真奥には広野火力発電所の白い煙突も写っています。廃炉作業員の人達はここまでは自分のクルマで来て、防護服に着替えてから各作業現場へと向かった出発地でした。

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今年訪れたJビレッジをご覧ください。青々とした芝生が全面に敷かれ、眩しいぐらいでした。訪問した時は偶然にも渡米前の"なでしこジャパン"が練習している日で、なにやら活気すら感じられる程。昨年(平成30年)の夏に本来の目的での利用が再開され、少し前までは原発廃炉作業者の拠点だったこの場所で、幼稚園児の我が娘がサービスで頂いたケーキを頬張っていました。

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帰還困難区域と原発周辺の主要道路の通行状況を示した以前の地図です。現在では飯舘村を初めとして多くの土地が高放射能残留地域である帰宅者困難地域から変わっています。以前に訪れた時には常磐高速と国道6号を通過する以外には、域内で停車する事すら違法となる場所が多く残っていました。窓の閉まる四輪車を除く二輪車、トラクター等の軽車両や歩行者の全てが放射能の影響で浪江町ー富岡町北部間の通行禁止となっているのは現在でも変わりません。自動車であっても窓を締め切り、エアコンを使用する場合には車内循環にするように求められているのが現状です。

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テレビでも名前が連呼された富岡町にJヴィレッジのある楢葉町より入ります。富岡町は原発事故による全町避難を受け、1万5千人いた住民がゼロになった福島第二原発近くの原発の町。帰還困難区域指定箇所を除く多くの場所が避難指示区域から解除されたのは、震災から6年経った春のことでした。平成30年末にして帰還した住民は震災前に1割にも達せず。

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何処にでもある日本の田舎道に見えますが、木立の向こうに見えるのは福島第二原子力発電所。原発事故発生7年後になって、東京電力からやっと廃炉の方針が発表されました。現在は原子炉内の燃料は搬出されており、廃炉に至るまで数十年に渡りる長い作業が続くことになります。他の原発立地市町村と同じく、富岡町は財政の2割にもなる収入を東京電力に依存していました。人口は9割以上減りました。このままですと、近く財政破綻が確実な町で廃炉作業のみが黙々と続けられる町となってしまいそうです。

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子供達に原子力発電所を直に見せたいと思い、脇道に逸れて楢葉町側(南側)より福島第二原子力発電所が見える場所を探します。子供達は放射能といものが分からず(親もハッキリと分かりません...)でしたので、放射能を毒と言い換えて説明しました。おならの様に目には見えずとも毒と例えた記憶があります。地震と津波で壊れた原子力発電所は毒をたくさん撒き散らしています。その毒が強過ぎて人が住めない場所があります。その毒の強さを測るために道路脇に機械が立てられているので、しっかり数字を確認して1番毒の強い場所を教えて欲しいと子供に役目を与えました。

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福島第一原子力発電所から南に15km。陸橋中央に標識があり「富岡駅1km」と表示されているのが見えます。富岡町には最大21mもの大津波が押し寄せ、海岸線より300メートルしか離れていないJR富岡駅と商店街は津波直撃を受けて大破。震災翌日の12日には原発から半径20kmで設定された警戒区域に入り、全町民が郡山方面へ避難を余儀なくされたのでした。子供を含む自分達も富岡町にある「東京電力廃炉資料館」に立ち寄り外を平気な顔で歩いていましたが、国道6号線開放後に訪れてた時には陸橋の奥に見える出光が営業していたり、歩道をマスクもせず歩く男性が普通に歩いているのを見て「大丈夫なのか?」と感じたのでした。

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「夜の森」と呼ばれ、岩城藩と相馬藩が争った東北と関東を分ける地域境界線が近づくにつれ、「帰還困難区域」に近づいているとの注意喚起の看板が増えてきます。夜の森の北側には福島第一原子力発電所、南には福島第二原子力発電所があります。この先より「特別通過交通制度」を適応する事によって、通過だけだできるようにした区間が始まります。

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左手の警官が立っている場所が富岡消防署で、此処から先が政府が定める帰還困難区域です。道路左右には帰還困難区域(高線量区間含む)であり、自動車以外の通行を禁じる注意喚起が看板でこれでもかとなされています。看板から感じる威圧感と比べると、警官の服装が防護服等でないので、マスクだけの軽装なのが大丈夫なのかと当初は気になりました。

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ロードサイドの店舗という店舗は営業していないだけでなく、入口には頑丈なバリケードが設置されており、侵入ができないようになっております。「毒の空気で、長くいると死んでしまうから"かっぱ寿司"はずうっと閉まっている」と大袈裟に子供達には説明。今回はエステー科学社製の家庭用放射線測定機を持って来ようとも考えたのでしたが、高い数値を測定できる場所を探す宝探しゲームになってしまうと考えて止めたのでした。家庭用放射線測定機、こんな機械を"家庭用"と名付けて販売がなされ、飛ぶように売れる国家存亡の危機と云われた時期がありました。もう二度と同じ体験はしたくないと強く願っています。

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熊町郵便局前付近の民家の全てにバリケード。初めてこの光景を見た時には、余りの異様さに閉口してしまいましたが、2度目以降は「まだ、この状態のままか...」と自分は現状を再確認しただけでした。この光景を初めて見る妻は、今回の訪問のなかで一番衝撃的だったと言っていました。テレビで繰り返し流された津波の映像の印象が余りにも強いためか、東日本大震災と言うと津波で更地になった場所を福島でも見ると思っていそうです。

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特別通過交通制度が適応されている区間は信号の意味も特殊です。黄色信号の交差点は直進のみ可という決まりです。青信号の交差点は警備員がおり、特別許可証と身分証を持っている人のみが脇道に侵入可の意味となっています。帰宅者困難区域にて500軒もの無人の民家に侵入し、窃盗を繰り返した万死に値する犯罪者が数年前に逮捕されました。震災発生後に着の身着のままで避難した人々の家を狙う心卑しい窃盗犯は少なくなく、脇道や人家へのバリケードは目に見える恥ずべきものでしかありません。

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長者原の交差点前。大阪大学が行った2011年の土壌調査では長者原地区の30年後の予測値は10.32mSv/h. 政府が定める数値までは除染作業なしでは100年以上を待つ必要があるされた場所です。この手前には福島第一原子力発電所の建屋が右手に見えていましたが、残念ながら固定して撮影していたビデオには写っていませんでした。反対車線を南に向えば撮れそうな気もしましたが、区域内にてUターンをしても良いのか訪れた時には判断ができなかったので以前はそのまま直進しましたが...、

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家族と訪れた今回は運転を妻に変わってもらい、福島第一原子力発電所を確りと睨みつけてから、写真に収めてきました。自分が小学生の時分にソ連のチェルノブイリ原発事故が発生し、影響が云々というニュース見ていた時には「遠く、遠く鉄のカーテンの向こうにある、ソ連という嘘っこ超大国が、何やらドジをして史上最悪の原発事故を起こした...」という印象しか感じていませんでした。"チェルノブイリは他人事ではなく、明日は我が身だ"と真剣に危惧した日本人は、実際に原子力に携わるひと握りの人だけだったのではないでしょうか...。茨城県東海村での2人死者を出した臨界事故を経ても、原子力は安全のままで来てしまったと世間は言います。

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太平洋戦争末期に米軍が投下した原子力爆弾により広島・長崎で唯一の"被爆国"となった日本が、自らの驕り高ぶりに気が付かず、8年前に福島第一原子力発電所にて自ら被爆という取り返しのつかない人災を起こしてしまいました。福島第一原子力発電所は廃炉にするにせよ、石棺にするにせよ、ヒロシマ同様に広く世界の人々に警告を発信できる"負の遺産"として残すべきものだと思います。

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右手に見える特徴的な装飾の柱を持つガソリンスタンドは福島第一原子力発電所より凡そ3km、帰還困難区域にて「復旧・復興に不可欠の事業」として唯一営業していたガソリンスタンドでした。耳にした記憶が正しければ、3.8マイクロシーベルト/時を大きく超えない事が営業条件であり、放射線量が営業の条件となっている世界でも類を見ない店舗でした。

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前回国道6号線を走った時に一番驚いたのは、こちらの伊勢屋(コスモ石油)でした。普段の街中では気にも止まらないことですが、沢山の幟が店頭に立てられていたのです。帰還困難区域で客引きの幟がはためいているは異様な光景です。上述の出光が唯一の帰還困難区域内のガソリンスタンドだと思っていましたので、思わずハンドルを切り入店しまいました。駐停車厳禁の区域内で停車できるとは思っていなかったので驚きでした。こちらのオーナーによると、震災当日は避難する車への給油を翌朝まで続けられたそうで、このガソリンスタンドを再開するにも大変な苦労があったと言われていました。家族で今回訪れた時には更にもう一店舗が、区域内にガソリンスタンドの営業をしていました。

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浪江町に入る処でスクリーニング検査場があり、青信号を右折または左折して高放射線量区域に入った人は此処でクルマと人の検査を受ける必要があり、防護服やマスク、靴袋等を廃棄する場所です。帰還困難区域はここまでとなります。政府が設定した帰宅者困難区域の閾値である年間50ミリシーベルトは年間100ミリシーベルトの半分の値。広島大学医学部研究機関が広島・長崎の被爆者20万人の寿命調査を40年に渡りおこなったものがあり、年間100ミリシーベルトは吐き気や倦怠感が見られるといった値です。年間100ミリシーベルト未満のデータは世界の何処もないので、この数字を半分ぐらいにすれば安全と言ったところで年間50ミリシーベルトを政府は採用したのかと邪推しています。枝野官房長官が当時、「直ちに問題はない」と繰り返し発言した"問題"に至る数値は、恐らく1,500ミリシーベルトあたり(半数の人が放射性宿酔になる)を指していたのかなと現在では思ったりしています。

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浪江町役場の交差点を左折し、左右にバリケードがされた住宅の残る114号線を前回訪れた時は走りました。114号線は浪江町より飯舘村までの放射能汚染の最も厳しい地域への主要道路です。114号線の常磐高速西側も一般的解放と聞いたつもりでしたが、バリケードでクルマを静止され、実施日の数日前だと警備員に教えて貰う失態を犯してしまいました。震災発生当日の夜に東京電力が緊急手配した茨城の会社のバスが大量に原発付近の町に派遣されて来たことなど、この警備の方からは沢山の事を教えて頂きました。

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浪江ICから常磐高速に乗っていわきに戻ることにしました。高速道路にも放射線量の電光掲示板があり浪江ー富岡間での3.48マイクロシーベルト/時(前回訪問した時の写真)が写っています。常磐高速で同じ位置にある看板を子供が今回確認しましたが、2年近く経った数値は2.7マイクロシーベルト/時を表示していました。ハイウェイラジオを聞くと、「午後10時から午前4時までは、四倉ICから何処そこまでは、緑のプレートを掛けたトラックが中間貯蔵施設まで走行しているので注意してください」と流れていました。

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いわき駅に戻ってきた時に駅前デッキより見える茜色に染まる雲が神々しく、多くの人が携帯で写真に収めていたので自分も参加してみました。国道6号線は浜通り北部の相双地区と南部いわき市を結ぶ唯一の国道で、原発作業や廃棄物運搬トラックと併せて多くの一般人のクルマが日々通過しています。今回はその中に混じって、家族と一緒に国道6号線を通って北上してみました。

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震災から8年が経った今年3月、2020年東京オリンピックの聖火リレーの出発地が楢葉町、広野町に跨るスポーツ施設Jヴィレッジより出発するとオリンピック委員会より発表がありました。復興の象徴として福島の廃炉対策処であったJヴィレッジよりスタートし、全国各地巡った後に開会式会場である東京の新国立競技場・オリンピックスタジアムへと聖火が運ばれます。