そして、放射能がやってきた。国道114号線と被曝した大地

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8年前に襲ってきた東日本大震災。そして、福島原子力発電所の放射能拡散。40年ばかしの自分の人生の中で、自分の手が届く場所で起こった本物の大災害でした。大津波によって自分の故郷が呑み込まれていくのを呆然と見つめるしかなかったわけでも、原子力発電所の爆発音が聞こえ、見えない放射能に追い立てられ避難を余儀なくされたわけでも自分はありません。計画停電も我が家には起こらず、水や食料に事欠くこともなく、自分達は福島第一原子力発電所から200km以上離れた場所でテレビやインターネット等を介した錯綜する情報に翻弄される日々を送っただけでした。

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まだ1歳だった息子がいた我が家は、子供に影響があるのかないのかが当時の最大関心事でした。最悪の事態を政府が当時提示できなかったために、ソ連・チェルノブイリで30年前に起こった史上最悪の原発事故が想起され、30キロ圏内への長期立ち入り禁止、小児甲状腺がんや白血病、食べ物による大量の体内被曝を考えました。原発事故が発生した年の夏には奥多摩で川遊びをしている写真が残っていることからも、それらは殆ど杞憂に終わったと考えています。自分達は安全圏にいてヤキモキしていただけですが、それでも、あれ以上の事は二度と体験したくないと強く願っています。

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茨城県東海村の原子力施設上空、浜通りの発電所群の上空、仙台空港までと小型飛行機で大回りをして福島空港まで震災前に飛んだ事がありました。震災発生後には福島第一原子力発電所は高度に関係なく半径30km以内での飛行は禁止となりました。原発事故以前は皇居と同じく上空の飛行は禁止されていたものの、そこまで厳格ではなく「XXXの東YYYマイルの地点で旋回」と伝えれば概ね許可を得られる平和な時期でした。その時に上空から撮影した震災前の福島の自然を写した写真が沢山あったはずなので、最初はそれらの写真を用いて福島の美しさを書く事からスタートしようと考えたものの、その時の写真データがどうも見つからず、震災前に撮影した建設途中の東京スカイツリーを貼ってみました。

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震災発生時の地元紙・福島民報の紙面には、被害状況が全く把握できない混乱した中で、大津波で集落がまるごと呑み込まれた浜通り、積雪の多い時期にあたる山間部を心配しながら、お年寄りや身体の不自由な人への優しさを紙面で求めていました。そして、最後にはこの様に結んでいました、「未曾有の災害だ。幸いにして被害を免れた地域や人たちも、困難に直面している人達のために、力を与えてほしい」。

偶然にも当日福島に近い場所(震災6強)にいた自分は、その晩の宿泊予約を事前にしていた為に寝る所だけは確保できました。停電、断水が続く中で続く無数の強い余震。同行者の1人はミシミシと軋みながら揺れる建物自体が倒壊するのではと心配になり、宿の入口付近に長くいたのを覚えています。宿泊先が見つからない人達に宿はロビーを夜間開放し、私達のような予約者には「充分なサービスができないのでお代は頂けない」と2泊分の代金をチェックアウト時に固辞されました。現在振り返ってみると、自分達3人が一部屋に集まり雑魚寝をすれば他二部屋は他の人達が利用できたはずです。当時の自分の考えの至らなさが実に幼稚だったと、当時のことを思い出すと恥ずかしく思えてしかたありません。

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当初は福島第一原子力発電所を中心とした半径3kmが避難区域として指定され、半径10km圏内は屋内避難をする様にと政府より指示が震災日に発せられていました。その翌日には水素爆発防止のベント作業を考慮して避難指示範囲を半径10kmに拡大。同日の1号機水素爆発を受けて避難範囲は半径20km(〜30kmまでは屋内避難)へと事態が悪化する度に拡大を続けていったのでした。爆発間際の原子力発電所で懸命に制御しようとした東京電力は3月15日早朝に撤退を政府に求めます。俗に言われる東電撤退事件です。日本を北海道、汚染居住不可地、西日本の3つに分ける事故に際して、東京電力は自力制御を諦め、政府に丸投げを意味する撤退要請しました。

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長きに渡った自民党一党独裁への反発と、時代の流れを受けて誕生した民主党が当時は政権を担っており、「国民が聞く耳を持たなくなった」と言い放ち辞任した鳩山由紀夫氏の後任として、菅直人氏が震災時は首相を務めていました。菅元首相は東京工業大学にて応用物理を専攻した経歴を持つ、"原子力に詳しい" と自負した総理でしたが「東日本がなくなる」とまで言われた国家存亡の危機に際して、有効な手はなく事態は悪化するばかり。菅首相といえば、事故後に1ヶ月の雲隠れをしたと酷評される事になる清水社長率いる東京電力に乗り込み、「撤退などあり得ない、覚悟を決めて欲しい」と発破をかけて踏みとどまらせたことが思い浮かびます。

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福島第一原子力発電所の水蒸気爆発や格納容器の破損、意図的な放出により放射性物資が膨大な量にて拡散されてしまいました。上の放射性物質の拡散図は拡散のピークと考えられた期間にあたる"運命の日" 15日早朝のもので、東北の風に乗って福島から茨城、千葉西部、埼玉県東部、東京都東部へと拡散した事を示したSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータ図です。この恐ろしい帯は午後の夕方からの南東風に押されて北関東へ向かいます。政府が半径XXキロの同心円状を基準として避難地域を設定したのは理解できるところですが、高濃度の放射性物質は風によって特定の方向へ飛んだことを示しています。首都圏の人達が本当にざわついてきたのは、テレビ等で各地の放射線量が急上昇していると具体的な数字を見せられてからでした。福島県の一地域で発生していると感覚的に捉えていた問題が自分の住む地に"飛び火"してきたのです。

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当時SPEEDIのデータは公開が「パニックになる」との理由で意図的に差し止められていたと後日報道がなされました。民主党政権および官僚の下したこの重要な判断にて、屋内避難をする事で被曝量を大幅に低減する事ができた人々、特に妊婦や乳幼児が無用の被曝を被った事になりました。この政府の判断は大きな誤ちであったと自分は感じます。政府は大きな経済的損失や民衆のパニックを危惧して決断をしたのだと思うのですが、御前崎にある浜岡原発の全原子炉停止を要請した時と同じように直感で決断し、SPEEDIの情報開示と緊急屋内避難を市民に求めていたら、福島民報と同じく「未曾有の災害だ。幸いにして被害を免れた地域や人たちも、困難に直面している人達のために、力を与えてほしい」と首相が国民全員に求めていたら、パニックは本当に起こっただろうかと考えてしまいます。

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15日午後に風向きが東南となり、福島県の広い面積が汚染される風が福島市方面に向かって吹きました。福島第一原子力発電所から北西に位置する浪江町、葛尾村、飯舘村はこの時の放射性物質汚染にて強制避難が強要される「計画的避難区域」に指定されるに後に至ったのでした。「ただちに問題ない」発言後すぐに爆発→「ただちに問題はない」というゴールを政府がずら続ける冗談の様な劇が繰り返されるなか、自衛隊のCH47ヘリコプターがバケツで放水するという姿を見て、もう打つ手がないのだと政府・東電の対応を見限り、自主避難を開始した人も多かったはずです。この寝ても覚めても、気が付けば原発の爆発速報を確認せずにはいられなかった時期には、関西の親族のもとへの妻と息子の一時避難を自分も真剣に考えていました。

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放射能汚染が最も深刻だった原発から西北方面に位置する自治体・飯舘村。全村民6,200名の全村避難が強いられた村の役場前です。帰還困難区域(年間50ミリシーベルト以上)に指定されている村の最南部・長泥地区を除く全域が避難解除を平成29年3月に受けてから2年経っての訪問です。平成31年3月現在の村内住民数は震災前の六分の一にあたる1,024名。村役場にて配られていた配布物には、今年の初夏に山に自生する山菜を決して食べないようにとの警告が大きく書かれていました。

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山の神は春の訪れと共に里におりて田の神となり、収穫を迎えた秋には山へ再び帰ると伝えられています。飯舘村の北部・佐須地区には白狼を眷属として従える大山津見神を祀る山津見神社が鎮座しています。2013年4月1日、福島第一原子力発電所事故による放射能汚染にて、佐須の氏子64世帯を含む全村民が避難中だった山津見神社で火事があり、拝殿と宮司の住まいが焼け落ちてしまいました。避難指示が出されている期間も拝殿を開ける為に日参していた宮司の奥様(享年80歳)が遺体で発見されました。

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避難指示の出ていた飯舘村では人の姿を見なくなり、神社創建と伝わる永承五年(1051)以前の姿に戻ろうとしていました。千年をかけて切り拓いてきた飯舘村の土地は、他の強制避難地区同様に人ではなく、猿や猪等の野生動物が主だった大昔の姿へ戻ろうとしていたのです。迅速な消火活動のできなくなっていた飯舘村では、先祖の墓に供える線香の火を付ける事すら禁じられる程に人の活動はひっそりとしたものとなっていました。

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がっしりとした丈夫な躯体、大きかな耳と牙。山津見神社の精悍な顔付を見せる狛犬はオオカミです。この地方は橘墨虎という者が地元の豪族を従えておりました。都から奥州にきた源頼義が墨虎征伐に向かうも、屈強な墨虎の前に苦戦を強いられていた。「墨虎を討ちたくば、白狼を追え」と夢枕でのお告げを聞き、山中にて獣の足跡を辿り墨虎を討つことができたとの伝説が残っています。その故事に因み、オオカミが崇められる事になりました。

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明治三十七年年(1904)、相馬中村藩士の宮司・久米中時が私財を投じて当時は相馬藩山中郷と呼ばれていた飯舘村に拝殿を建て、その時に描かれたと云われる237枚のオオカミ画が天井を埋め尽くしていました。しかしながら、その貴重な天井画は先日の火災にて全て失われてしまいました。猪や鹿等の害獣より大切な農作物を護ってくれると、日本のみならず世界各地でも信仰された狼。畜産の盛んな飯舘村では牛が襲われないようにと畏敬の念を込めていました。神社の再建と共に、東京芸術大学の学生達の手により多くが見事に蘇ったとのニュースで見たのが2016年でした。

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復元されたオオカミの天井画には、京都・高山寺の鳥獣戯画を思わせる様な愛嬌を感じさせるオオカミ達で、四角い杉の板の上で生き生きした姿を参拝者にその姿を見せていました。野生動物が優勢となった飯舘村にはオオカミの活躍できる場所があると言わんばかりの姿に見えました。

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福島県を縦に3つに割る区分では"浜通り"になるも、太平洋に面している町と違い山の中にある飯舘村は雪が多く、訪問した日にも白い雪が降っていました。飯舘村にはリアルタイム線量測定システムと呼ばれる地上にて外部被曝量を計測する装置が飯舘村には無数に設置されており、道の駅の方に尋ねたところ1,000箇所ちかいとのこと。この装置は地上1メートルでの線量を測定しており、周辺の樹木や偶然に装置の前に停車した車等の影響を比較的に受けやすい装置です。表示される単位はμSv/h。もうひとつ、通称モニタリングポスト呼ばれる装置もあり、これは飛来する放射能プルームを監視しています。通常ビルの屋上などの高い場所に置かれることが多く、周辺の影響の少ない場所で空気線吸収線量を計測しています。用いる単位はμGy/hと前述のものと異なっています。

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飯舘村のいたるところには、黒いフレコンバックが積み上がった仮置き場が目の付きました。飯舘村を初めとする放射能を受けた"被曝した大地"では、人々が帰郷し農業を再び始めるには大変な作業が求められます。表土から5cmを剥ぎ取る"農地除染"が初めに行われ、その後に放射性物質の吸収効果のある土壌改良材を入れたり、植物が放射能セシウムの吸収を抑える土壌改良材を入れたりします。最初の剥ぎ取った汚染土を入れるのがフレコンバックで、飯舘村や隣接する葛尾村は黒いフレコンバックで現在埋め尽くされています。

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「1.山美わしく 水清らかな その名も飯舘 わがふるさとよ みどりの林に小鳥は歌い うらら春陽にさわらび萌える ああ我らいまこそ手に手固くつなぎて 村を興さん 村を興さん  2. 土よく肥えて 人情ある その名も飯舘 わがふるさとよ 実りの稲田に陽は照りはえて 続く阿武隈 山幸歌う ああ我ら夢おおらかに ともに励みて村を富まさん 村を富まさん」」 と飯舘村の村民歌で高らかに謳われていた自然と大地の恵。この醜悪な黒い塊に覆われた村の姿を誰が想像したでしょうか? この光景を目にして再び郷里で農業をと思う者がどれだけいるのか、開拓期のように大きな夢を持って土を新たに耕し、汚染されていると"風評被害"と闘うために立ち上がる者がいるのだろうかと疑問を感じてしまいました。

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線量計測システムはフレコンバック置場の側には必ず設置されているように見受けられました。0.184μSv/hの表示で、訪れた日に見た一番高い表示値でした。政府の避難指示地区の解除目安は年間で1mSv(ミリシーベルト)で、外にいるのと変わらない木造家屋に住み、1日8時間屋外にいるのが前提にて許容追加被曝量を算出しています。よく目にする0.23μSv/hはこれを時間当たりに変換したものです。除染作業は人の居住区およびそも周辺のみで、山林部は落ち葉等の堆積物の除去に留まっています。参照値ですが、チェルノブイリは日本の5倍にあたる年間5mSvを移住の目安として使用しており、インド南部のマドラスでは自然放射が9mSvもありますが、人々は普通に何千年と暮らしています。1mSvが妥当かという疑問が残るも、阿武隈の山地の多くはおそらく広域渡り1mSvを遥かに超える高線量地区のはずです。政府は2023年度末までに、福島第一原子力発電所の足元でもある双葉、大熊町を含む全市町村の避難指示解除を目標として掲げております。

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国道114号線は福島県の県都・福島市から浜通りの浪江町を結ぶ全長70キロにも及ぶ一般国道です。震災発生後から平成29年9月20日まで6年半にも渡り、一般車両の通行は放射線量が高いため(川俣町・津島ゲート - 浪江間)認められていませんでした。福島県の復旧・復興にとって重要な道路として経済産業省に指定された道は帰還困難区域を含めて通行できる様になりました。通行が認められたと言っても無条件ではなく、「特別通過交通制度」と呼ばれる一定のルールに従ったもので国道114号線も通れるようになったのでした。この特別通過交通制度は自動車に適応されるものですので、自動二輪、軽車両、歩行者は適応範囲外となっております。

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国道114号線の特別通過交通制度適応区間の道路を黒く塗りつぶしてみました。旧津島ゲート(川俣町と浪江町の境)から常磐高速浪江まで33km程が通過できるようになった範囲となります。行政の測定によると、この33kmをクルマで走行した時に受ける被曝量は1μSv/h程で、胸部のX線検査での被曝量1/50程と無視できる程になっていました。東京-ニューヨーク間を旅客機で移動すると100μSv/h程を高高度による宇宙線の増加で受けると云われ、避難指示地区の目安となっている年間1mSvは50往復すると達する事になります。文部科学省が計算した数値によると年間900時間の搭乗業務でパイロットや客室乗務員の人達が受ける放射線量は6mSv...。

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ここが国道114号線で福島市寄りの封鎖地点だった"津島ゲート"です。国道6号線を北上するとの夜の森あたりで年間50mSvを超える高放射線量地域として国が設定したのと同じ「帰還困難区域」がもうすぐ迫っていると警告する看板が目に付いてきました。目の前にある通称"津島ゲート"は町内全域が強制避難地区に指定された浪江町と隣接する川俣町の町境にあたる場所です。この写真は川俣町・山木屋地区側から撮影していますが、山木屋地区も年間積算量20mSvを越える計画的避難地区の指定を受け1,000人以上が避難、避難指示が解除を受けたのは6年後でした。

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津島ゲートを抜けた先は帰還困難区域の中、浪江町です。3月11日、震度6強という激しい地震受けた浪江町は高さ15メートルを越える大津波の来襲を受けて180名の犠牲者を含む甚大な被害を受けました。その直後に発生した原発事故にて、福島第一原子力発電所5号/6号機の立地する双葉町と浪江町等の沿岸部の人達は国道114号線を辿って原発から25km程離れた高原の農村部・津島地区に当初避難していました。↓ 浪江町津島地区は現在も避難指定区域で、人が住むことは許可されていません。自分のツィッターでの呟きは誤りでした。

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津島小学校、津島中学校、浪江高等学校津島分校等の津島地区の公共施設には町役場と共に8,000人とも言われる人達が押しかけ、寿司詰め状態だったのだとか。監視人こそ立っているのは見ませんでしたが、「注意 帰還困難区域内につき長時間の停車はご遠慮ください」と書かれた看板が多く設置されていました。長時間の停車でなければ良いのかとクルマを無人の駐在所近くに停車して、写真を撮ってみました。今回の原発事故には放出された有害物質でも最も悪質なものが3月15日午後に避難民および地元の人々の残る津島地区に降り注ぎました。浪江町の人達はこの日、更に西に位置する二本松市へと避難しています。嵐のように去っていった避難者達の後に、善意で他人を助けていた津島地区の人こそ避難しなくてはならなかったと気が付く悲劇が起こったのでした。

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住民が帰宅するのを禁じられた区域で、犬や牛が闊歩する動物する姿をニュースで見た記憶があります(上の写真はウィキペディアより)。福島第一原子力発電所から半径20km圏内には震災当時は牛が3,000頭以上飼育されておりました。震災発生から凡そ2ヶ月後に、菅直人首相により「警戒区域内の家畜は所有者の同意を得て、家畜に苦痛を与えないよう処分すること」と指示が発せられました。国とは別に福島県も衛生上の懸念により独自で殺処分をおこなっていました。上の写真のように"放れ牛"となった牛達も捕獲処分が徹底され、現在ではその姿を街中で見ることはなくなっています。

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原発事故後に埋葬した家畜の数は牛3,300頭、豚16,000頭、鶏80,000羽。肉を含む一般食品の現在の許容地は100ベクレル/kgに対して福島県内で捕獲された猪の測定値は6万ベクレル越え。猪の主食である地上の植物から摂取したものが体内蓄積したと考えられています。チェルノブイリでの体内被曝は主にキノコ類の食品からとの意見やデータもあり、県や国が取った対策は概ね肯定されるものでした。福島県では野生のキノコ類等は県の大半の地域で出荷制限が現在でもなされています。

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4月22日に警戒区域が設定されると沿岸部の多くの地域が立ち入り禁止となりました。その前日まで給餌を続けた人、他人の畑や庭を荒らして迷惑にならないようにと畜舎に閉じ込めた人、自力で生き延びるのを期待して自由にした人も沢山いたそうです。自由を得た牛達は放牧場に自然に生える草を食べて命をつないだものの、畜舎に閉じ込められていた為に食べ物がなく、折り重なりあって餓死した牛達も多数おりました。被曝した動物、特に食用になる動物は餓死か処分かの二択しか事実上ない状態でした。

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浪江町と相馬市を結び、常磐高速の西側を走る県道34号線を北上していると、道端に突如目を惹かれるものを発見しました。「殺処分反対、決死救命、除染をしてもサヨウナラ」とタダならぬ言葉が並んでおり、「警戒解除により 希望の牧場 途中まで入れます どうぞ!」との立て看板が目に入ったのです。自分達はこの「希望の牧場」をこの時まで全く知らずでの訪問でした。その掲示物の主張の強さから一瞬躊躇したものの、「どうぞ!」の言葉に押されてハンドルを切りました。

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ホイールローダーを運転して牛達に給餌している方がおり、勝手が分からないのでクルマを停車して待つことにしました。傍らには「ふくしま・考える人の駅 希望の牧場」と駅の案内板を模した看板が立っており、その後ろではパイナップルの皮に群がる牛達がムシャムシャ。缶詰工場等で廃棄する予定のパイナップルの皮を牛の餌としてあげるは他でも見たことがありましたが、こちらの牧場の牛達は池の鯉の様に凄い勢いで食べていました。暫くすると男性が降りてきて、「どうぞ」と私達に声を掛けて貰えました。

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案内を頂いたのは希望の牧場代表の方でした。汚染された土地での農業を放棄するようにと農家の人達が迫られたと同じく、汚染された家畜を放棄するように迫られました。こちらの代表は牛達を放棄すること現在も拒み続けている活動家の一人でした。福島第一原子力発電所で水蒸気爆発が起きた時には、この牧場からも立ち上る煙が見られた程の近さ、原発の北西14kmの近さに希望の牧場はあります。

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役所から殺処分同意を求められても拒否し、牛肉にする為に販売ができる訳でもない300頭の牛達を現在まで守り続けています。棄畜、棄民 、忘れんぞ!とスローガンを掲げた"カウ・ゴジラ"を台車に載せて、軽自動車で引っ張り東京の国会前、若者の集まる渋谷、トランプ大統領が来日時に宿泊していたホテル前にも出向き政府の原発政策の過ちに声をあげ、その行動を江戸時代の農民が追い詰められておこした一揆になぞらえて「原発一揆」と呼んでいると伺いました。

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建物のなかで見せて頂いた余りにも衝撃的な写真です。牛達はつながれたまま身動きもできずに無残な姿となったに違いありません。べコ飼いの人であれば、牛達が飼い主を呼び続ける声が聞こえるはずです。これは希望の牧場ではないそうですが、牛の出産から屠殺場への見送りまでを共にする牧場の人々がこの様な光景を目にしたならば、胸が張り裂けんばかしの痛みに襲われたことだろうと想像してしまいました。

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日本国内で食用に屠殺される牛の数は凡そ1日に3,000頭です。人間により食べられる為に産まされ、食べる為に殺される家畜です。ここ希望の牧場を含めて600頭ほどの殺処分を間逃れた被曝した牛「被曝牛」が生を謳歌しています。お話しを伺った牧場代表は地震発生時は南相馬におり、いち早く牧場の様子を見ようと主街道・国道6号線を避けて脇道を選んだ事により大津波に呑まれずに無事だったのだとか。14日、15日と度重なる爆発が原子力発電所で起こり、南東風に乗り放射性物質が牧場のある浪江を含む北西方面へ流れ、夕方には雨が降ったのでした。

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この牧場は代表の父親が切り開いた場所でした。満州に入植し、戦後間際のソ連進駐にて捕虜となりシベリアにて3年以上に渡り抑留。帰国して千葉県四街道の旧陸軍演習場だった下志津原にて酪農を営み、その後に浪江の地に拓いた浪江牧場が終の住処となった場所だそうです。代表自身は東京農業大学と私の生まれ育った町で学んだご近所さんだと判明。「ここで暮らす牛は幸せだと思うよ。食べ物も水もあるし...」と言われていました。

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人は大地に育てられた稲の米を食べ、牛は米を取った後の稲藁を食べ生きてきました。1グラムあたり100万以上の微生物が住み、稲や野菜等の植物、森林、野生動物の住処でもある大地が汚染されてしまいました。大地の表層を剥ぎ取った土をフレコンバックに詰め込み、中間貯蔵施設に運び込まれる推定2,200万m3の汚染土。当初は中間貯蔵施設に運び込まれた土は、"どこか"に建設される特殊廃棄物最終処分場で30年後に最終処分されるはずの計画は建設予定地の猛反対で雲行きが怪しく、環境省は新しく建設する道路の路床材や、農地を含む各地の嵩上げ材として使用する事を実験をしながら模索しています。

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今回の旅行で実物を見たいと思っていた飯舘村に贈られた犬のオブジェです。「いいたて村の道の駅までい館」に置かれていると思い込んでおり、職員の方々に尋ねるも全く認知されていないようで、市役所/老人ホームと巡り「いまは公民館の玄関にあるはず」と場所を聞き出したのでした。見た瞬間に娘は「柴犬? 秋田犬?」と言っていましたが、東京都渋谷区の公園通り商店街が寄贈したハチ公像のオブジェです。渋谷駅前にて主人・上野英三郎氏を10年間待ち続けたいハチ公。飯舘村への村民帰還の願いを託して、いいたて老人ホームに贈られたものでした。

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被災地の人と話しをすると「東京は浜通りの原発がなければやっていけないのだから」、「東京の人間は福島ことを分かっていない」という言葉を聞きます。「いやいや、福島第一/第二原子力発電所は現在発電をしていませんが、東京の電力供給は茨城や、千葉、神奈川の火力発電で結構やっていけてますよ」、「福島の人間は東京の事をそんなに詳しいのですか?」と反発したくなる時があります。”東京”は地域名でなく東京にある行政府や、放射汚染を起こした福島第一原子力発電所の東京電力の事を端的に現した言葉なのだろうと考えて黙る事が多いです。いつからかハッキリと分からないのですが、「フクシマ」と意図的に福島をカタカナで表記し、原爆投下を受けて焦土と化したヒロシマ、ナガサキと同じ様な印象を与える言葉として使われているのを目にすることが多くなりました。初めて「フクシマ」という表現を見た時には嫌な言葉だと感じました。福島の人達はフクシマの言葉を目にしても黙していることが多いのだと思っています。

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突然の原発事故による見えない放射能により故郷を追われた人々、汚染されたままで自然の浄化を待つ山河。是か非かだけでは答えのでない困難に直面する浜通りを、子供達に見せてみようと震災後8年を経た今年訪れてみました。我が家の子供達は幼すぎてか「自宅からクルマで3時間ぐらい走った場所で、"毒"が発生している」ほどの理解のようでしたが、それは一般的な"東京"の人達の持つ印象と大して変わらない普通のものだと思います。古くは7世紀に国造が浜通りに割拠していたとの記録が残り、千年を超える長い時間を掛けて幾万の先人達が拓いてきた土地である浜通り。この土地の人々が次の世代の子供達に遺したかったであろう姿とは大きく、大きく変わってしまったのだろうと感じさせられた訪問でした。