三国第一山・富士山、岳麓の奇祭「吉田の火祭り」

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家族で山梨県に行って参りました。訪れたのは山梨県南東部にある富士吉田市で、我が家の富士山のカタチをしたマスコット人形達+赤ベコさんをクルマのダッシュボードに載せて本物の富士山にご挨拶をしました。この地域は富士急ハイランドや河口湖などの著名な観光地がある為、東京の城西地区で育った自分には身近に感じる場所だったりします。

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富士吉田市は日本一を誇る富士山の北麓、富士山の噴火による堰止湖である富士五湖の河口湖と山中湖の間に位置する町です。北麓域は高冷地であり火山灰地でもあるので稲作には適さず、養蚕と富士の湧き水による織物を主産業としてきた地域で、現在でも織物業が町の基幹産業となっております。

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富士吉田は富士山を信仰対象とする富士講にて、拝登をする代表的な4つの登り口のひとつ、富士北口の拠点としても有名です。江戸から3日、富士山登頂に2日、帰路3日の合計8日程の道中。吉田町では宿と食事を供し、教義の指導や山頂への道案内と現代の"ガイド"役にあたる「御師」が務め、富士講の高まりとともに多い時で100にも昇る御師が町に軒を連ねていたのだそうです。

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現在の富士吉田・上吉田地区が旧吉田町にあたり、この地区は間掘川を挟んで対岸にあった旧吉田宿より元亀三年(1572)に計画的に移転されたものと云われています。移転の理由は富士の大規模な融雪による雪代と呼ばれる土石流を懸念してと推測され、その為に現在の町の中心軸は浅間神社の参道の軸と若干ズレと説明がなされています。目抜き通りの左右には奥行150m程の短冊状となる区割りを施した土地が凡そ1km、富士山に近い上宿より下宿に向かって5度の傾斜のある土地に新しい町として拓かれたのでした。

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都内だけで100は残っていると云われている江戸時代に築かれた富士塚(ミニ富士山)は、これを登れば本物の富士に登ったと同じご利益が得られるとして盛んに築かれました。富士山の山開きである旧暦6月1日には本家富士山だけでなく、これらの富士塚でも例祭が催され、富士塚への"登山"が許されたのだそうです。上の紅葉を背景としているのは江戸八富士のひとつ・鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士。下はふじさんミュージアム入口にあるミニ富士塚。笠を被った富士講姿は息子。

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富士吉田の町の南側には北口本宮富士浅間神社があり、富士登山の吉田口は此処の登山門から始まります。息子は体力的には全く問題ないものの、富士山初登頂はコロナ禍を初めとした諸問題で二年連続先延ばしとなってしまっており、この日も富士登山道吉田口の鳥居をくぐるだけとなったのでした。境内には諏訪拝殿と呼ばれる建屋があり、そこには2基の御神輿が展示されているのですが、このお神輿が富士山登拝の山仕舞いにあたる8月末におこなわれる「鎮火祭」の主役たる大神輿となるのでした。

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富士吉田の目抜き通りを跨いで立つ「金鳥居」。富士講全盛時代の天明八年(1788)に金属製の鳥居が建てられた事に因む名前で、現在の鳥居は戦後に建てられたもの。此処から先が富士山の神域となり、御師家が建ち並ぶ上吉田地区となります。此処より富士山頂までは四里十三丁十間(17km)。鎮火祭りの目玉は北口本宮冨士浅間神社までの参道及び、山頂へと至る登山道にある山小屋で一斉に松明を燃やすもので、日本三大奇祭のひとつとも呼ばれております。

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神社にて神事を終えて街中を渡御していく大神輿と御山神輿。真榊、太鼓、大神輿、富士御影(重さ1トンあるという富士山を模した神輿)と順番に列をなして進んでいきました。「ヨイ、ヨイ、ワッショイ」と掛け声を掛けながら威勢よく担ぎ手達が活躍し、驚くことに富士御影の方は途中で勢いよく地面に叩き付けられていました。これは富士山の荒ぶる姿を表しているのだとか。その時の場面を撮影した動画が↓↓↓

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赤富士神輿の小さな鳥居には三国(天竺、唐、日本)第一山と、北口本宮富士浅間神社の大鳥居と同じく世界一の山であると富士山拝登のキャッチフレーズが書かれています。二基のお神輿は御幸路を進み火の見櫓をくぐって御旅所(上吉田コミュニティセンター)へと一夜宿りに入っていきました。その時に、大神輿は此処で櫓の左右に張られた注連縄を神輿上部の鳳凰の嘴で切っていましたが、その時の動画が行方不明。それにしても氏子衆が袖を通している法被の粋なこと、粋なこと。以前の写真を見ると褌姿もあたのが現在では半纏、法被、股引きと変遷しているようです。

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吉田の火祭りは名前からも推測できるように"夜祭"が最大の見所となっています。本町通りには準備された高さ3mもある大松明が数名の男衆により次々と引き起こされました。点火は御旅所→中宿→上/下宿という順番でおこなわれていき、自分がいた金鳥居前にも町名の入った提灯を持つ世話人達が急ぎ足で駆け付け、火をつけた松脂を吊るした竿を用いて火を移し、大松明が燃え上がると見物客より大きな拍手を受けていました。蛇足ですが、大松明はスポンサー制で1基十数万円だそうです...

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火祭りというと飛び火を懸念してか決められた敷地内でおこなう事が多く、富士吉田の様に町全体でおこなうのは珍しいものです。江戸時代などは現代の様に明るくはなく、夜は闇夜が普通であった時代の人々にとっては驚きの光景であった筈です。この祭りは既に500年近い歴史を有し、上の明治初頭に描かれたモノにも富士山の麓で二基の神輿が担がれ、数多くの大松明が力強く炎をあげている姿が見えます。

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90本以上もの大松明と氏子の家の前に組まれた井桁の松明がメラメラと燃え上がり、一面の火の海状態。金鳥居から上宿までの目抜き通りには火の帯が連なり、沢山の見物客で賑わっていました。天気が良ければ通りの先に聳える富士山中の山小屋でも松明が掲げられ、あたかも炎による"登山道"が表れるらしいのですが、この日は残念ながら雲が覆ってしまっており目にする事はできませんでした。もし見られたのならば、さぞかし壮観な祭り景色だったことでしょう。