不時着したら塀の中、子供と一緒に成田空港をアチコチ歴史散歩

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日本の表玄関とも称される成田空港。羽田空港の倍にもあたる年間3,500万人の国際旅客数を誇る世界でも有数の巨大空港です。1978年5月20日の開港日より40年の年月を経た現在では2本の滑走路と3つの旅客ターミナルビルを持つまでとなりました。今後も右肩上がりで増える旺盛な航空需要に応えるために、新たな滑走路/ターミナル建設が10年内に計画されており今後の更なる発展が期待されています。

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自分が初めて独りで海外に行った時のアラスカ行きの便は「新東京国際空港」と当時呼ばれていた成田空港からの出発でした。「国際線は成田、国内線は羽田」との国の政策による棲み分けがあり、政治的配慮がなされた中華航空(台湾)を除いて国際線は全て成田発着が当たり前の時代でした。“国際線は成田”は2002年のワールカップ日韓共同開催を機会にして、羽田空港を日本のハブ空港にとの新方針が出されるまで続いていました。これ迄の2-300回ほどの自分の出国履歴を以前のパスポートをパラパラと見返してみると、凡そ半分はNARITA(成田)の出入国スタンプで埋まっています。

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今夏の家族旅行は成田空港を利用しました。復路便は北風運行だったらしく、乗っていた機体は霞ヶ浦側からのアプローチではなく、九十九里浜の蓮沼ガーデンあたりで太平洋より上陸。緑溢れる房総半島の水田やゴルフ場を飛び越えて行きます。工事中の箇所が目立つ空港敷地内上空を着陸に向かって高度をドンドン落として行くと、地上から大きく手を振り子供達の姿が着陸寸前にハッキリと目に入ってきたのです。

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自分達が乗っていた機体が着陸したのは成田空港のB滑走路で、2002年のワールドカップに間に合わせて暫定長2,180メートルで供用開始がなされた滑走路です(現在は2500メートル)。滑走路に南から着陸した機体が旅客ターミナルへと向かう途中の左舷に、「DOWN WITH NARITA AIRPORT」と非常に衝撃的な看板が目に入ります。日本語に訳するとしたら「成田空港破壊」と言ったところでしょうか?  「自民党をぶっ壊す」、「NHKをぶっ壊す」とアピールする政治家はいましたが、「成田空港破壊」という文字からはロケット砲でも実際に撃ち込むのかという怖さを感じさせる言葉です。そんな看板が機体の窓から見えるのが現在の成田空港です。

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子供達が地上で手を振っていた場所にクルマで到着。道路は途中から白い鉄板に囲まれた圧迫感のある空間を抜けて来ました。白壁の上には有刺鉄線が施されており、一般的な民間空港ではなく物々しい警備体制が敷かれている軍事空港ではないかとの印象を強く受けます。その高い塀の中を通る道の突き当たりには明神鳥居があり、その奥に小さな祠が見えます。つい先程上空より見下ろしたのとは反対に、神社側からは大きな旅客機が大迫力で頭上を通り過ぎていきます。

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石柱の裏側には「航空神社」と彫られた文字をコンクリートか何かで埋めた痕が見て取れました。この東峰神社を最初に自分が訪れたのは随分前のことで、その時に此の神社に興味を持ったのは東峰神社の創立者であり、日本の民間航空のパイオニア(開拓者)・伊藤音次郎氏のご親族の方よりお話しを伺ったからでした。この神社が鎮座する東峰地区は現在でも空港反対派と呼ばれる人が農業営んでいる場所で、現在の様に子連れのファミリーが気軽に物見遊山で訪れられる場所ではなく、訪問は監視と警備員の尋問が必然だった時代でした。

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伊藤音次郎氏は大阪市・恵美須町の生まれで、日本の空を初めて飛んだ国産機を開発した偉人・奈良原三次氏に師事。白戸栄之助氏に習い操縦法を習得したのでした。当時は米国に留学し航空機操縦法を学ぶ日本人もいるなかで、奈良原氏が開場した稲毛海岸の飛行場より誰が帝都・東京までの野外飛行に一番に成功するかを競っていました。あるものは飛びたつも東京との境の河川上空にて視界不良にて墜落したりするなか、大正5年(1916)の正月明けの8日に伊藤音次郎氏は自身で設計した伊藤式恵美1型に乗り込み、日比谷公園から増上寺を周り稲毛に英雄として帰還する偉業を成し遂げました。

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しかしながら、その後の飛行人生は順風満帆とはいかず。干潟を滑走路として使用していた稲毛海岸の飛行場が翌年秋の台風(高潮)に襲われて壊滅。千葉市の海岸は北西から南東まで全域が埋立地となっており、台地との境が非常にハッキリとしています。稲毛にあった飛行場も干潟を利用したもので東京湾に面していました。被災後に移転/開設した鷺沼の伊藤飛行機研究所(上の海岸線を飛行機が飛ぶ白黒写真)も海岸線に接した場所にあり、潮の満ち干きで出来る干潟を利用して離発着していたのです。その台地を登った所には、伊藤音次郎氏の弟子にあたる天才と呼ばれた山縣豊太郎が事故死した場所を示す石碑が現在も立っています。

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伊藤音次郎氏は100機種近い固定翼機を製造し、国内で初めての女性パイロット兵頭精女氏を初めとする人材を育て上げ、自分も何故か会員シールを持っている我が国最古の飛行クラブ「日本飛行倶楽部」を昭和五年に設立と戦前の民間航空へ多大な貢献をした人物と記憶されています。GHQにより戦後あらゆる航空活動の停止が命じられました。1948年に現在の成田空港の敷地内に工場従業員有志と共に東峰の地に移住し、竹林を拓き落花生や薩摩芋を育てる「恵美開拓農業協同組合 」を開設。上述の東峰神社は伊藤飛行機研究所にて祀っていた「航空神社」を入植地に移設したものです。航空神社とある石柱も鷺沼より持ってきたモノだと思われます。

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下総台地は千葉県の成田・香取市を中心に広がる台地で、台地の上なので水利が芳しくない上に富士山や箱根山の噴火で降り積もった関東ローム層が覆う耕作不向地でした。そのために、この台地上は古くより牧場として利用され、江戸時代には佐倉藩が管理する広大な牧場でした。明治期には「佐倉牧」の一部にあたる30平方キロメートルの地が宮内庁下総御料牧場として開設され、明治二十一(1888)年には総御料牧場本庁が三里塚へと移転されました。

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国内での羊毛生産発展を目的に設立され、馬と桜の名所となった御用牧場は三里塚の象徴として周辺住民より親しみを受けていました。太平洋戦争の終結を受け、"天皇家財閥"も他の大財閥同様に解体を受ける事となり御料牧場も最盛期の1/10の規模にまで縮小。この時に御料牧場が完全に消滅していたならば、首都圏第二空港は成田以外の地に建設されていたかもしれません...。

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下総は長い時間を掛けて台地が侵食されてできた「谷津田」と呼ばれる谷が多数あります。川等の水源が求められない地域では、谷津田は大量の水を要する水田への貴重な水源となる事が多く、北総の大地ではこの様な谷間で農業が古くより営まれ初めました。

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敗戦後に戻ってきた日本兵や満州等よりの引揚者。終戦時に日本本土いた為に帰る事が許されない沖縄県民等が続く戦争により働き手を欠いた収穫の乏しい耕作地しかない日本に戻ってきました。それにより、国内は戦後大変な食糧難に直面したのでした。その打開策として政府は日本各地で開墾を盛んに奨励し、下総台地も例外ではなく県有地や御料牧場の土地が開拓者に払い下げられ、多くの人々が移り住む事になったのでした。谷田津の旧来の農地と比較すると開拓地はキレイに区画整理した土地割りを特徴とします。独りの力では如何ともし難い作業も多い開拓に人々は力を合わせ原野の大地と立ち向かい、妬み、いがみ合い、そして必死の思いで土と格闘したのでした。

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目覚ましい戦後復興を成し遂げた日本において、アジアで初めてのオリンピックが1963年に東京で開催さました。大型ジェット機の就航と共に高まり続ける航空需要により、羽田空港単体では処理しきれなくなる時期が近く来ると見込み、新空港の候補地調査が60年代前半におこなわれました。そして、霞ヶ浦、富里、浦安、木更津などが候補地となりました。羽田空港の西側は通称「横田空域」と呼ばれる1都8県に跨る2,400メートルから7,000メートルまでの空域をアメリカ軍が現在も管制しています。この空域を避けた場所で設置が必須となる為、全て候補地は東京より東側の千葉県/茨城県内の各地が候補地となったのです。

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既存の羽田空港/百里基地との空域バッティングと海上空港建設の技術的問題により浦安/木更津/霞ヶ浦が候補地リストより落ち、当初から最有力と見られていた富里に新空港の建設地が内定。当時の人々にとって空港は特別な人だけが使用する縁遠い存在で、空港はありがた迷惑な施設との認識が強く、各地で空港反対運動が盛んに行われました。上の白黒写真は霞ヶ浦のもので自分の知っている人物が写っていたりします。事前の相談/説明なく内定を受けた富里の人々は革新政党の協力を得て猛烈な抗議運動を開始。この時に富里に隣接する三里塚の人々は対岸の火事で静観するだけでした。政府が飛行場建設で土地を奪う富里の人々に準備される土地は三里塚等の周辺開拓地で、自分達の土地の値段がそれで上がると算盤を弾くものもいたと言われる様な状態でした...。

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中村虎太運輸大臣が「新空港は富里以外にはない...」と6月22日述べた直後に佐藤栄作首相が友納・千葉知事と会談。反対運動の激しい富里に空港建設を強行すれば死傷者がで出かねないとして、三里塚に新しい空港を設置する事を緊急に決定。23日に中村運輸大臣がそれを発表...。7月4日には富里ではおこなった"内定"を飛ばして三里塚を新空港建設の地とする閣議“決定”をしたのでした。空港建設決定を報道で知った三里塚の人々には寝耳に水で、東峰に入植した伊藤音次郎氏以外に喜びの声をあげたものはいなかったと言われています。伊藤音次郎氏は空港側に最も早く土地を売った人物で、東峰神社の石柱「航空神社」と彫られた文字が塗り潰されているのはその時に他農民より恨みを買った痕かと感じます。

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「成田空港 空と大地の歴史館」にて撮影した地図です。前述の通りに三里塚周辺は御料牧場/県有地を払い下げを受けて開拓した場所(オレンジ色)が多いですが、その周囲には古村(黄色)が取り囲んでいます。黒線で描かれた成田空港の配置を見ると、御料牧場と県有地を最大限活かして、立ち退きが求められる土地を最小限にしようとした努力の跡が見られます。本来であれば両翼に4千メートルの滑走路を平行に持つH型の敷地が描かれるべきところが、不恰好なカタチとなっているのは古村を極力避けようとした結果だと言われています。

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富里で犯した失敗を避けるために、空港側は住民や地元自治体への事前説明を飛ばして一気呵成で空港建設まで強引に進めようとしました。沖縄集落の天浪を初め、古込、木の根等のように早々と空港側に土地を明け渡す交渉に応じた地区もあれば、社会党/共産党や暴力革命を掲げる新左翼の支援受け断固反対を貫く者もおりました。空港建設が集落を賛成派と反対派に分裂させ、長閑だった農村の風景は一変して争い地となったのでした。

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最近ではJR東海のリニア建設の進め方が横暴だとして行われた「立ち木トラスト」。立木は法律上は不動産なので所有者の同意なくして勝手に切れないとう解釈に基づきおこなわれた反対運動です。立木の所有者を多数にすることで空港側が同意を得なくてはならない人数を急増させ、手続きを煩雑にさせるのを目的としています。下筌ダム、百里基地、そして成田空港反対運動でも手続きの複雑化を狙って1坪共有運動等と共に三里塚でも用いられました。空と大地の歴史館に展示されていた"立ち木"には社会党・佐々木更三委員長、同社会党・成田知巳委員長、日本山妙法寺の僧・佐藤行通の名前の札が掛けられたものが展示されていました。

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1969年の夏、佐藤行通の発案により東三里塚の第一滑走路の南端右側に建てられた三里塚平和塔が上の写真。着陸の妨害となる様にと無許可で建てたものでしたが、空港側と日本山妙法寺の開祖・藤井日達との話し合いを経て1972年に現在は航空科学博物館となっている土地に隣接する場所に規模を縮小して移築しており(赤マル位置)、この白い仏塔は現在でも成田空港を離発着する機体からでも目にする事ができます。A滑走路は開港時より4000メートルであったものの、侵入灯が正規の位置に妨害なく配置できるまでは開港より34年もの時間を要し、A滑走路が完全に4000メートル運用ができるようになったのは2012年でした。

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1971年には行政代執行を進める空港側機動隊と反空港側の間で激しい衝突がおこり、事態は収集のつかない泥沼化していきます。国が立場の弱い農民達を強制的に立ち退かせる図式と見て、農民側に同情の気持ちを寄せるのは世間一般の人々のみならず警察側もいた程でした。それが時間を経るに従い空港反対派は暴力を用いるようになり、投石や火炎瓶と過激さを増していき死傷者を出すまでにエスカレートしていくと世論の支持を失い、また農地の所有者達の多くも実力闘争を用いる集団から徐々に離れていく事になったのでした。運輸省による羽田空港キャパオーバーの試算により設定された1971年4月の開港目標より大幅に遅れる事7年が経過した1978年には、空港開港を阻む実力闘争のシンボル・62mの大岩大鉄塔が引き倒され、横堀要塞戦が終了。開港日の4日前にあたる日に起こった管制塔占拠事件にて開港延期となるも、成田空港は1978年5月20日に開港初日をなんとか迎えたのでした。当初計画していた滑走路3本のうち1本のみ、空港面積にして半分程の不完全なカタチのままでの開港でした。

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成田空港をゲリラ活動等による破壊活動より守る成田新法も同年施行されます。空港反対派は火炎瓶やアドバルーン、タイヤを燃やして黒煙で航空機の離着陸を邪魔をする実力闘争を反対派は開港後も継続。自分の知り合いで100円ショップ商品の故郷と呼ばれる中国・義烏市場の総経理夫人が、アメリカ行きの飛行機への乗り換えで開港直後の成田空港に来た時に「モクモクと凄い煙が立ち上がっていりが大丈夫なのか?」と不安になったという話しを直接聞いた事がありました。空港を当初計画通りまで拡大したい空港側と、開港後も反対と続ける反対派の争いは開港後も長く続いていき、列車や施設、主要空港側人間の自宅放火等の無差別を含む破壊活動が頻発。国内で発生したゲリラ活動の半数以上が成田空港関連となる程の異常事態のなかで旅客機は成田空港で離発着をしていたのでした。有刺鉄線を持つフェンスの後ろに高いフェンスとの2重壁が現在でも成田空港に見られるのは、そういった経緯による厳重な対応が求められた遺産です。

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1974年の空中写真。4,000メートルのA滑走路と第一ターミナルが見えるも、現在あるB滑走路(青線)、第二/三ターミナル等の姿はまだなく緑が広がっています。現在のイオン成田の敷地で載せ替えをしていた航空用燃料のパイプライン設置を終え、水不足に悩む地域への成田用水が開かれ、1988年には成田空港利用者が1億人を突破する程利用される等の空港環境に大きな背景変化があり、1991年にはついに空港側/反対側の話し合いが開始され「地域と共生する空港」を目指す考えが示されます。土地の代執行を求めた収用採決申告を空港側は自ら取り下げ、時の総理大臣・村山富市が空港建設の方法が誤りであったとの謝罪をするまでに至りました。

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 誘導路の一部は大正時代の開墾地で農業を続けている畑を迂回するために“へ”の字となるも、開港から24年を経た2002年4月にB滑走路を暫定2,180メートルで共用開始。2012年には本来計画の反対側である北側に延伸して平行滑走路を2,500メートルとし発着枠はAB両滑走路で22万回へ。2011年には三里塚闘争を空港側/反空港側の双方の視点で展示をした「成田空港 空と大地の歴史館」が航空博物館の敷地に開設され、2015年にはLCC専用ターミナルである第三ターミナル供用と止まっていた時が動き出したかの様に開発が次々と進みます。

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成田空港は入港前に道路/鉄道ともに身分証確認が求められる唯一の国内空港でしたが、2015年にはこの制度も廃止(カメラと顔認証システム稼働)。バスや自家用車で成田の高速を下りると、現在の第三ターミナル前にある検問所にてパスポートチェックがあった場所ですが、現在はクルマでも徒歩でも素通りすることができるようになりました。昔の成田を知る妻はこれに最近驚いていましたが、子供達にとってはこの場所は料金所か何かに映ったようでした。

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2002年におこなった撤去作業後も、横堀要塞の台座部分が残る通称「横堀鉄塔」が空港の敷地内に現在も残っており、第2ターミナルからA滑走路間の移動中や横堀鉄塔と木の根ペンション間に新しく設けられた駐機場より出発/到着でのバス移動中などは近くで目にする事ができたりします。此処も機動隊と反対勢力が激突した場所で、火炎瓶や投石で護る反対勢力を放水や催涙ガスで対抗する機動隊がまる1日以上に渡り陥落。つい最近まで横堀現地闘争本部の建屋がありましたが、2017年に撤去され横堀鉄塔のみがポツンと残っています。

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木の根が張り巡らされており付けられたという地域名「木の根」に反対派が建てた木の根団結小屋。成田新法の適応第一号となり使用禁止になった事で激しい衝突がおこり、団結小屋「木の根育苗ハウス」は除去されました。1998年には住民がいなくなった事により閉村。現在残っている木の根ペンションは、成田新法適応外として他の場所に最初建てた建物を芝山鉄道ルート上の未買収地に移築したモノです。此処には音楽祭りの時に息子と来たことがあります。

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東峰神社を子供達と一緒に訪れた後に立ち寄った旧「東峰十字路」。第二次行政代執行の初日に5,500人からなる機動隊と中核派/新左翼等を主体とする反対勢力5,000人が、共に一個師団に相当する人数で対峙する大規模な争いが発生。反対派が火炎瓶や角材を用いて警官3名を撲殺する事件が起きてしまいました。それまで反空港側に心情を寄せていた世論や地元農民も、この警察殺しをキッカケとして反空港側の過激なおこないを非難するようになった悲劇が起きた場所です。この旧十字路には殉死した3名の警官のうちのひとり・福島誠一課長の慰霊碑が置かれています。自分達が来た時には、この記念碑の前にやって来て頭を下げている方を目にしました。

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B滑走路と第3ターミナルの間の畑の横には「強制収用実力阻止」と書かれた大きな看板があり、裏面には「第3滑走路粉砕」と赤字で書かれています。その看板の上には反対同盟の旗がたなびいています。成田闘争の跡地を家族で巡っている間に、公共の福祉と個人の権利を噛み砕いて子供達に説明しようと思うも非常に難しいものだと感じました。農地を耕し続けることが、空港との闘いであるは更に難しい...。自分の育った東京都世田谷区内の小田急線沿線の立ち退き問題も、住民がゴネているというボンヤリとした理解と知識しか自分も持ち合わせていぐらいなので、子供達からすれば「たまにしか来ない成田の昔の話しを聞かされても、関係ないし...」と言ったところが正直なところでしょう。

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離発着数が25万回に達し、空港周辺地域との協調する雰囲気が醸されていると確認した成田空港は発着容量50万回に向けた案を近年提示しました。東峰地区は退かないと判断してB滑走路の更なる北側延長、新しい滑走路の新設、空港敷地範囲の倍増に夜間飛行制限の緩和と意欲的な内容になっています。3本目の滑走路等用地約1,000ヘクタールの92%の地権者の買収同意を得たと成田空港は発表していました。工事期間は3-4年で10年以内の完成が目標としていますが、明確な完成年月の明言を避けているのは「成田闘争」にて、一方的に力で推し進めるのは最悪の結果を招く可能性があるからと学んだ結果で、公共工事においては住民との強調を重視する事を基礎とする考えが広がったからなのでしょう。上の成田空港の資料ではピンクの破線となっている高速(大栄ー横芝)は圏央道千葉県内の最後の未完成区間です。用地未収得が2割あるも、道路公団の目標開通日は2025年3月が予定されています。この未開通部分は道路公団が意図的に残していて、成田空港拡張と併せて開発するのが確定しているデキレースだろうと自分は考えていましたが、どいやら予想がハズレてしまったようで高速先行、空港は後追いとなりそうです。

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太平洋側より横芝光町、芝山町を飛び越えてB滑走路へ向かい高度を下げていく途中の写真です。想定される第3滑走路は富里ゴルフ場から北なので、その場所と思われる場所に赤線を引いてみました。「ボタンの掛け違い」とも表現される空港問題が始まってから既に半世紀、近い将来には3,500メートルの新しい滑走路が見られることでしょう。

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