酒は島色、いよいよ気味香る泡盛。古酒に力を入れる多良川を見学

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だいぶ前の話しになってしまいますが、沖縄県・宮古島に行って参りました。沖縄県下には40以上の泡盛を製造する醸造会社が現在もあり、その全ての訪問を目標としての蔵巡りをボチボチしていたりします。伊良部島を含めた宮古地方には泡盛を醸造する会社は6社、そのうちの1社・多良川(酒造)を今回訪れてみました。島南部にある砂川(うるか)集落の端っこ、製糖工場からの甘い匂いがする砂糖キビ畑に囲まれた一角に工場がありました。

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宮古島は沖縄本島から南西に300キロ程にある珊瑚礁に囲まれた美しい島です。一見楽園に見えるこの島には山も川もめぼしい湖もなく、湧水や雨水、自然洞窟泉に生活水を頼らなくてはいけない厳しい環境の島でした。それ故に水は大切に扱われ、水の湧く場所は聖域とも看做されてもいました。宮古島全域に水道が敷かれたのは昭和42年。大規模地下ダムとパイプランにより"水なし農業"から宮古島が脱したのは平成12年とごく最近こと。大量の水を必要とする水稲、収穫された米と水とで造る酒は更に貴重なものであったのは想像にかたくないありません。

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しりとり遊びをしていて、日本語には"ん"で始まる言葉はないから負けと言われていますが、「んみゃーち(宮古島方言で ようこそ)」があります。多良川の案内板にはその「んみゃーち」と書かれていました。"ようこそ"は那覇では「めんそーれ」、石垣では「おーりとーれ」と南海の島々では古語の多彩な響きが聞こえてくるかのようです。

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多良川酒造の代表銘柄「琉球王朝」が大きく描かれており目を惹きます。那覇市街から東へ10キロ程行ったところにある琉球ゴルフクラブの近くにも、多良川の主要市場である沖縄本島向けの工場があり、同じく「琉球王朝」の大きな絵看板を見たことがあったせいか初めて訪れる場所には思えませんでした。沖縄本島工場は垣花樋川(かきのはなヒージャー)と呼ばれる名水百選にも選ばれた湧水のある南城市にあります。

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多良川は宮古島で最も大きな森・上比屋山(うぃぴゃー)の麓にあり、その森は籠り儀式に使用される3棟の建物が現在でもある祭祀場です。目の前にある深井戸(タルガー)は森との境の御嶽でもあり、多良川酒造の多良川はタルガーに漢字を当てたものに由来していると解説板にありました。多良川の泡盛造りはここに湧く水で現在から70年前に始まりました。

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多良川酒造では予約なしでも見学を受け入れており、自分が訪れた時は7名程のグループでの行動でした。実際の製造ラインは衛生管理の理由にて見学は叶わず、泡盛製造はビデオ鑑賞での学習。泡盛は米を主原料とした沖縄の伝統的な焼酎です。ほかの焼酎との材料的な違いは、地場で全く生産していないタイ米(インディカ米)に黒麹菌を用いた米麹を使っているところでしょうか。明治期あたりより供給面で不安定な地場米よりも、安価で入手できる輸入米(唐米、西貢米、暹羅米)や粟などが用いられ初め現在に至っています。外国からの輸入米使用を前提にしているのは沖縄の全ての泡盛メーカー共通で、日本の"酒"としては特異な存在です。

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日本で蒸留酒が最初に伝わったは南西諸島で、15世紀あたりに中国/東南アジアより蒸留技術が持ち込まれたと現在では考えられており、19世紀前半には宮古島でも盛んに泡盛が造られていたようです。それ以前の南西諸島は麹を使わない「口噛み酒」が一般的で、宮古島では昭和に入っても口噛み酒が一部では振る舞われていた模様です。

蒸留酒・泡盛は製造して3年以上経たものをクースゥ(古酒)と呼び、高いアルコール度数にも関わらず、まろやかで口当たりの良さが高く評価され琉球の宝とも呼ばれていたりします。琉球王朝末期に沖縄を訪れた"黒船来航"で知られるペルリ一行も愉しんだようで、まろやかに熟成した芳醇なフランスのリキュール酒のようだと評した記録が残っており、外交の場で来沖した賓客を饗すにも使用されていました。

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多良川酒造は古酒にも力を入れている酒蔵で、工場見学の目玉は泡盛の長期保存庫として使用している洞窟「ういぴゃーうぷうす蔵」です。ういぴゃーは上述の聖域・上比屋山、うぷうすは大きな穴と言う意味だと案内をして頂いた女性に教わりました。工場より10分ほど山に向かった場所に天然貯蔵庫はありました。

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木製で施錠された大きな扉を開けて、5メートル程急な傾斜を降って行くと、奥行60メートル程の暗い洞窟に数え切れない程の酒甕が現れました。洞窟の中23度程と外の空気より冷たく、ちょっとした冒険気分になります。宮古島では子供が小学校入学時に泡盛を預け、成人のお祝いの席で皆んなで飲む習慣あるらしく、ランドセル背負った写真をラベルに貼った瓶も沢山並んでいました。自分達の子供の成長を熟した酒で祝える泡盛は、人生と同じく長く置くことで味が豊かなっていくもののようです。某有名プロ野球選手の瓶もありましたが、"おそらく忘れられている"との事でした。

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多良川は宮古島と沖縄本島の2工場で年間70万本(一升瓶単位)を生産する泡盛製造の大手です。終戦直後は沖縄全土で5箇所の官製工場のみで製造をしていた泡盛は、昭和23年に米軍政府より酒造の民営化許可がなされ、宮古島では63名に免許が交付されました。その年に誕生した蔵には渡久山、千代泉、沖之光、宮の華と現在も聞く名前の蔵元も多く、多良川酒造もそのひとつでした。多良川は古酒はアルコール43度であるという常識を覆し、30度に薄めて"価格も味も飲みやすい古酒"として売り出した「琉球王朝」が市場に受け入れられ、成長の足掛かりを得た酒造メーカーです。

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昔の酒蔵だった場所には大きな甕(ナンバンガーミに封した古酒(非売品)が並んでいます。旧家は100年、200年モノも稀でないと代々伝えられた沖縄の古酒。戦時中の食糧難や戦火により、その多くが失われたと言われます。ドサクサに乗じてチビリチビリと飲み干した酔いを好む人、戦地へ向かう家族への鼻向けとして大盤振る舞いをした家、貧窮に喘ぎ生活のために売り払った家もあったことでしょう。古酒は一朝一夕に手に入るものではない為、戦後を新たなスタート地点として愛好家や酒造メーカーによる試行錯誤を経て古いものでは50年、60年モノの古酒が、文化が現在では新たに育まれています。目の前にある多数の甕こそが多良川の歴史だと解説の女性は言われていました。

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宮古島では「オトーリ(御通り)」と呼ばれる泡盛の集団回し飲みが日常的におこなわれており、この習慣もあってか、この島の人々は日本全国で一番お酒に強いのだと称されています。酒の場にいる全員に杯を巡らす古くからの習慣は神事や祭事に始まり、手軽な飲酒の普及に伴い宴会の場での慣例に。呑み始めると、宴が終わるまで回し飲みが続く現在のオートリは沖縄の本土復帰が昭和47年以降に定着したものです。30年程前に起きた高校生の飲酒運転死亡事故をキッカケに、オートリ廃止が地元議会で可決されるもオートリは結局なくなりませんでした。それどころか、シマ酒文化を守るとの大義名分を持ち出し、オートリ・コンテストなるものも現在は開催されていたりもします。宮古島滞在中に酒場や醸造所である多良川を覗き見て、泡盛のことが少し分かったような気分になった訪問でした。