子供達に焼畑を見せたくなり、温海かぶで有名な温海一霞地区へ

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家族旅行で山形県に行って参りました。訪れたのは新潟県と国境にあたる鶴岡市。鶴岡市のある庄内平野と新潟県村上市の間に横たわる朝日山地の集落に宿泊して物見遊山に訪れたのでした。今回は山形県側の温泉地・あつみ温泉周辺の"焼畑"の話しとなります。マタギで有名な山形県小国町や、東北の古い文化を色濃く残すといわれる山熊田に遊びに行った話しも時期をみて書きたいと考えております。

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庄内平野南部に位置する鶴岡市は海の幸・山の幸に恵まれ、60を超す在来作物に豊かな食文化が高く評価され、平成26年(2004)に国内で唯一の「ユネスコ食文化創造都市」に認定された地域です。ガストロミー(食文化)分野での認定をユネスコより受けているのは世界でも鶴岡を含めて35都市のみ。上の写真はその在来野菜のひとつ「外内島きゅうり」で、家族旅行中に「食べてみな」と地元の方より頂いたのでした。漬物やサラダ、なます等に用いられています。

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鶴岡市内より国道345号に入り、山中へと続く道を進むとそこが通称「焼畑ロード」。鶴岡駅から少し南側には上述の外内島きゅうりの産地・外内島を通り、田川かぶ、藤沢かぶ、そして自分達の目的地でもある温海かぶの生産地へと焼畑で赤かぶを育てる地域が集中している場所となっています。

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お盆過ぎに現地を訪れた様子がこちら。車内で暇を持て余す子供達に「黒く焦げた地面が見えたら焼畑だから教えて」と頼んだところ、道路の左右のアチラコチラに黒焦げた焼畑の跡を見つけていました。旧温海町の山側の地域はお盆に山を焼くようで、焦げた臭いが漂っている場所もありました。国内の焼畑の歴史は古く、縄文時代まで遡ると考えられ、農耕を始めたばかりの頃は焼畑を食料確保の主体として、次々と新しい焼畑を作り、数十年単位で元の畑に戻るサイクルを繰り返していたようです。この焼畑農法は次第に施肥を撒き、同じ土地で耕作をする農法が主体となっていくものの、常畑耕作の難しい山村地域では食料自給の重要な農法で戦後まで山を切り開いた斜面に火を放ち続けていました。

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日本海より温海川を遡り、あつみ温泉を抜けて山側に走っていくと二十数戸程の家が集まる山間集落に至りました。蕪の収穫は秋からなので稼働している気配は全くありませんでしたが、一霞集落の温海かぶ加工所に到着。焼畑でつくった温海かぶは外皮が薄く、コロッとした食感が美味で庄内の伝統野菜の代表格と知られています。5月には黄色い花が咲き、夏には焼き畑で種撒き、秋冬は収穫とかぶ漬けの季節。天明期にはその存在を記した庄屋さんの文書が現存しており、昔は味噌・塩・麹で漬ける「アバ漬け」が主だったのものが、現在では流通と味を考慮して砂糖を使用した甘酢漬けとして販売されています。温海かぶの95%は甘酢漬けとなるらしく、独特の食感があるので他に使用方法もある気もします...

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紹介を頂いた場所に向かって、庄内空港で借りたレンタカーの軽自動車がグングン唸りながら山を上っていきました。右に、左にと次々と焼けた畑が現れてくる異様な光景が後ろに流れていきます。この地域は昔より杉の名産地で、杉を切った初年に蕪を植えるのが常となっており、翌年には蕎麦や豆を撒き、その後に若い杉を植林したそうです。

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自分達が訪れた10日程前に火を入れたと地元の方々に教わりあした。この地域での火入れを自分も実際に見たことがないので、上の写真は新潟県での焼き畑の様子ですが、夏の夜に火花があがる風景が沢山見られたのだとか。可能であれば子供達にその現場を見せてあげたかったのですが、こればかしは天候に大きくよるので日程が確定せずと仕方なし...

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焼いてから1週間経った焼畑にて、大きめの鎌を片手に足場の悪い畑にて根っこを除去する作業のお手伝いをする息子。本来であればもっと早くにこの作業をおこなう予定だったらしいですが、惰性でなかなか重い越しが上がらずだったのだと言われていました。火を入れた後の焼畑には転がった根っこには、数日間火が付いている事もあるのだそうです。

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地面に近づいて目を凝らすと蕪の芽が沢山出てきていました。蕪はまだ焼いた後の地面が暖かいうちに種を撒き、二ヶ月もすれば収穫を迎える作物です。米の出来不出来が分かる夏場に撒けば降雪期前に収穫ができるため救荒食物としても東北では重宝され、杉の産地であるこの地域では杉の伐採地を利用して栽培が続けられてきたのでした。

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土で汚れるのを気にして決して畑に入らないようにとする娘と、焼けた畑にズカズカと入り込んで、排水路に隠れていたウシガエルをぐわっと鷲頭掴みにする息子。子供好きのおばあさんを初めとして、周囲から「そんな大きなカエルが持てるんだ」と褒められた息子は機嫌を良くして、気合いをいれて根っこ除去作業に打ち込んでおりました。

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明治三十年(1897)に森林法が制定され、新たな火入れが制限された事により全国の山々で行われてきた焼畑は衰退の一途を辿り、戦後すぐの昭和30年代には既に殆ど見られなくなってしまいました。生業として広域で焼畑をしている地域は現在では鶴岡市南部のみとなっています。その最後の焼畑地域でも国内産木材需要の低迷を受け、伝統的な循環型システムとも考えることができる杉の伐採地を利用しての焼畑農業は既に下火となり、現在は特産品の"焼畑で育った"温海かぶ生産のために雑木林を5年サイクルで焼いているのだとか。このあたりの小難しい話しは子供達には理解できなかったようですが、関東に戻ってきてからは黒土のただの畑を見ても「焼畑だ、焼畑だ!、大きな蛙がいる焼畑だ!」と騒ぐようにはなったのでした...