芝愛宕山の急勾配な石段を神輿が登る、愛宕神社「出世の石段祭」

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東京港区にある愛宕神社。各地の武将に軍神として信仰された勝軍地蔵を勧請して、徳川家康の命にて慶長八年(1603)に建てられた神社で、江戸で最も高い25.7mの天然の山(愛宕山)の上にあります。写真に映る階段を登り切った一の鳥居の右手には三角点が置かれており、現在でも東京23区内では現在でも最も高い地点となっております。

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上の夕景は京都迎賓館に飾られている愛宕山を撮影したものです。愛宕神社の総本社は京都市の西北、丹波との境に聳える標高890mの愛宕山にあります。役行者と白山の開祖として知られる泰澄が神廟を建てたことを起源とし、山岳修験の場も名高く、その修験行者達が全国に広めた事にもより全国で千社にもなる愛宕神社が祀られています。東京港区の愛宕神社はそのなかでも名高い神社とて知られています。

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その港区・芝にある愛宕神社はこのような場所(上の赤マル箇所)にあります。写真上部中央は皇居宮殿で、その右手には東京の玄関口である東京駅と丸ノ内や日比谷のビル群。線路を越えた向こう側は日本有数の繁華街・銀座の街が広がっています。皇居の左手側には国会議事堂と霞ヶ関の官庁街が建ち並び、愛宕神社はそこから500m足らずの位置にある小高い地にあるのでした。かつては江戸一の高さだった愛宕山も現在は高層ビル群に取り囲まれており、一本道を挟んで建つ虎ノ門ヒルズは現在東京で1番高いビルで、255mと愛宕山の10倍もの高さになります。

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神田きらりさん(現在は神田鯉栄さん)の講談「出世の春駒」を以前に生で聞く機会があったので、その舞台である芝~虎ノ門を散歩してみました。この話しは徳川家・三代将軍家光が父・秀忠の菩提を弔うために命日の1月28日に芝・増上寺を訪れた帰りに、愛宕山の急峻な石段を馬で駆け上がり山上の梅を取って来いという無茶な命令に対し、讃岐丸亀藩家臣・曲垣平九朗が見事成功し日本一の馬術名人との名声を得て出世したという内容です。上の屏風絵中央が愛宕神社でその石段も描かれております。

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徳川家の菩提寺・芝増上寺の三解脱門から愛宕山方面(後方の高層ビルの谷間にある)を写してみました。残念ながら江戸一の高さを誇った愛宕山は見えません。仏国土に至る門とされる三解脱門(重要文化財)やプリンス・パークタワー側の二代将軍秀忠の大徳院霊廟惣門は戦火を間逃れ江戸時代より現地にて建っています。講談のなかで、江戸城に戻るまでに日が暮れてしまう云々のくだりがあるので、三代将軍・家光を此処を出発したのは午後3時ぐらいではないかと推測し、3時過ぎに自分も歩き始めてみました。

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将軍一行がこの日に通ったのではないかと自分が推測したルートを赤線で地図上に示してみました。御成門は将軍家が増上寺参拝の時に使ったとも云われているので、増上寺からプリンスホテルを突っ切って直接的に江戸城へ向かったのが正しい気もしますが、増上寺を出発して、御成門をくぐり左折。駒沢大学の前身とも言える曹洞宗・青松寺で右折して愛宕神社前を通り虎ノ門(江戸城)へと向かう道です。

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愛宕山トンネル(愛宕隧道)付近まで近づいて見えてきた愛宕山。増上寺から江戸城に戻る途中に、肌を切るような冷たい北風にのった梅香が将軍まで届いたのはこのあたりかと思いながら見上げてみました。総本宮にあたる京都の愛宕神社もそうですが、各地の愛宕神社は町の最も高い山にあることが多く、防火・火伏の霊験があるとも言われています。生まれながらの将軍・家光は当時30歳ほど。前後に大勢の御供の大名を従えていました。数百の僧にて盛大に催された大法要の後だったこともあり、色々思うこともあったのではと想像しました。天下を獲った祖父、その後を継いだ父。実際の戦場に赴いたことのない家光は武家の棟梁として祖父・父に引け目を感じるところがあったのではないでしょうか?

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「東都芝愛宕山遠望品川海」の錦絵です。家康によって建てられた愛宕神社は江戸一の高さを誇る展望地として当時も人気があったようで、まるで垂直かとも見える頂上へ続く階段(通称・男坂)がこの錦絵にも描かれています。鳥居をくぐった先より分岐したところに、この急坂がキツイ/怖いと感じる人用にと”女坂”もしっかりと描かれているのが分かります。頂上からは品川海(東京湾)が遠くまで眺められ、崖沿いには茶屋がひしめいていたようです。 

汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我(わが)汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

現在でこそ周囲を高層ビルに囲まれてしまっていますが、愛宕山は明治期にできた鐵道唱歌の一番にも出てくる江戸・東京のランドマークでした。

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錦絵に描かれた最大角度が40度もある86段の石段は現在も愛宕神社前にあり、実物を見上げてみるとかなりの急角度です。普通の人間は30度ぐらいから怖さを感じると言われているので40度は更に厳しい傾斜具合です。周囲の再開発に伴い高層ビル建設/開業ラッシュで住民以外も休憩の場所としても最近は人を見るようになり、ハイヒールを履いて登られているのを見た時には流石に吃驚しまいした。

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この急峻な石段を前にして、「誰ぞ、馬に乗って山上の梅を取って参れ」と将軍が家臣達に命じたのでした。勿論、梅が欲しかった訳ではなく、武家の棟梁として家光は祖父・家康にも勝るとも劣らないのだと武勇を示したかったのが心情だった筈です。下を向くばかりの家臣に対して「誰かいないのか?、徳川の武は三代にして地に落ちたるか?」と怒り爆発させる家光。聞いた講談のくだりでは家光の命に従い数名の腕に覚えのある馬術指南が挑戦するも、いずれも石段の7割程上がったのところで馬が止まって動かなくなってしまい、後ろを振り返ると怖くなり、鞭を入れた勢いで人馬共に落ちてしまう場面がありました。ここからガラガラと落ちた場合は命が危ない気がします。

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最後の挑戦者となった曲垣平九郎の馬も他の者と同じく七合目で歩みが止まってしまうも、緊張が極限に達した馬に塩を舐めさせ、馬の汗をぬぐって正気を取り戻させたのでした。普通に歩いていても足がすくみそうな高さなので、馬上だと更に高い目線。馬に上だけを見させるように巧に手綱を取り、山上に登頂。階段下で見ていた人々からは、平九郎の姿が見えなくなった時に大きな歓声があがったのだとか。

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曲垣平九郎、まず本堂に向かい祈りを捧げた後に、境内に咲き誇る源平の梅を紅白1本づつ手折り、関東一の若武者・梶原景季のように折り取った梅を襟元にさして、再度、あの断崖絶壁のような石段へ向かいました。現在も境内に「将軍梅」があります。愛宕山頂上から見える景色を曲垣平九郎もこの景色を一瞬は視界に入ったことでしょう。勿論、将軍が行幸する日ですので町民と思しき人々は人払いをされているも、眼下の江戸の街並みとその向こうに広がる品川海はあったはずです。

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「登るに易く、降りるに難し」。このような名人に怪我などあってはならぬと、家光公自らが扇を開き「平九郎、女坂から降りよ、女坂から降りよ」と合図をするも、階段上にいた曲垣平九郎は将軍様が早く降りて来るように請求されているかのように聞こえ、「南無愛宕権現、南無愛宕大権現勝軍地蔵尊」と唱えながら、この急坂を上りと同じくジグザグに手綱を取り見事降り切り、山上よりの梅を将軍・家光公に献上したのでした。ことのほかお喜びになった家光公は「日本一の名人」との称号と三つ葉葵の御門の脇差一振を授け、曲垣平九郎の名は一夜にして全国に轟いたと言います。上の写真の中央右の緑のジャンパーを着た息子は、故事にあやかって名声を得ようと休憩なしで男坂を駆け上っています。

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愛宕神社社殿内にもその逸話を描いた絵画が飾られておりました。話しのなかでは、近くの農家より借りた左足を怪我した痩せ馬でしたが、立派な馬の姿となっています。三木老こと三木啓次郎氏とパナソニックの創業者・松下幸之助氏の連名にて奉納されたものです。余りのビックネームを見つけてしまい驚きでした。浅草の雷門の銘板にも両名の名前が連なって書かれているのは有名な話しですが、ここで見られるとは思ってもいませんでした。

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愛宕山の女坂も上から眺めるとかなり急です。109段、傾斜20度と曲垣平九郎が登った男坂と比べると緩やかなもの、こちらも怖さを感じる程の眺めです。所々に踊り場のような場所があり、幾分かはこちらの方が安心感があります。

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我が家はこの愛宕神社と縁があり、自分達の結婚式のみならず子供達のお宮参りや各種節目となる行事ごとをお願いしています。愛宕神社は不思議な場所で、周囲に高層ビルが増えて目立たなくなる程に人が集まっています。高層ビルのや新駅開業で人口が増えたこともあり、正月三ヶ日などの初詣には2時間以上も寒い屋外で列に並ぶ必要がある程です。

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最近では七五三で娘のご祈祷をお願いいたしました。面識のある社務所の方々と挨拶をし、勝手知ったる池の鯉にエサをやり、通りすがりの人に「可愛いね~」と声を何度も掛けられて気を良くしていました。都心にポツンと”残った”神社という趣だった愛宕神社は周囲の開発と共に施設が整い、子供達の成長同様に次はどうなるのかと期待していたりします。

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9月の「出世の石段祭り」は愛宕神社で最も大きいお祭りで隔年で開催されています。上述の急勾配の階段を御神輿が登り降りする勇壮な祭事です。2020年9月にも開催が予定されていましたが、コロナ禍の影響にて残念ながら中止となってしまいました。ここから先の写真は以前の石段祭りのものです。

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葵の御紋に愛宕神社と入った社名旗、神社境内の御榊が先導し、お神輿は三つ葉の葵紋を描いた輪島塗屋根の珍しい六角神輿です。お神輿は近くで見ると彫り細工の手の込んだもので、一周するカタチで屋根に飾られた提灯の中身はLEDではなく蝋燭が入っています。神職、高張提灯を持つ各町代表を先頭にして氏子域を渡御していきます。明るい時分に宮出しした一行は虎ノ門ヒルズ前の愛宕一丁目の交差点をマーカーサー通りに沿って進み、芝郵便局辺りを練り歩いて戻ってきたのが上の場面でした。↓ 動画も写してみました。

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祭り行列の人々は愛宕山北側のクルマ坂を上がり、神輿のみが出世の階段を行くことになります。遠くにはライトアップされた東京タワー、近くには高層ビル群の窓灯り、鳥居の横で和太鼓が威勢の良い激しいリズムを刻んでいました。奉納提灯で照らされた参道を神輿が進み、二の鳥居前に到着した後に石段へと向かって行きます。若々しい権禰宜ご姉妹も映っていますね(*´艸`*)ウシシ 此処には載せませんでしたが、権禰宜さん達と一緒にこの日に撮った写真が残っており、妻の大きなお腹を撫でている場面があるので平成二十一年のお祭りの写真と分かりました。
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神職達が階段を先に上がると柏木が高く鳴り響き、それを合図として担ぎ手達から勇ましい声があがります。石段の角度が急なので神輿前の担ぎ手達は身体を低くして支え、後ろの担ぎ手達が高く持ち上げる必要があり、御神輿を水平にした状態を保ちながらゆっくりと上っていきます。調子を取るために等間隔で鳴り響くホイッスルの音と「セイヤ、ソイヤ」との威勢のよい掛け声。担ぎ手達を背後から更に抑えている姿からも、その危険さが伝わってくるかのようです。

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階段を登りきると観衆から割れんばかしの拍手が起こりました。神輿は担ぎ手達の柏木での締めで渡御はおしまいとなり、その後は御霊遷し等の神事となるのでした。家光公の御前にて巧みに馬を操り愛宕山を駆け上がった曲垣平九郎を機縁とする「出世の階段祭り」は、見せ場である階段登りの迫力がやはり凄く、江戸っ子の気迫が感じられる愛宕神社のお祭りです。