江戸時代の足尾に学ぶ、お金を大量に造る方法のイロハ

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栃木県にまた行って参りました! かつて日本一の鉱都と呼ばれた足尾を訪れて、豊かな自然に囲まれた渓谷沿いの町を散策。有名な公害事件・足尾銅山鉱毒事件が本当に此処で起きたのかと疑ってしまう程に美しい場所でした。

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足尾キャニオンこと松木渓谷で野生の猪や鹿を見つけて街中に戻り、偶然にクルマを停めた広場には「足尾銭 鋳銭座跡石碑」が立っていました。説明板に書かれている内容を読んでみると、寛保二年(1742)より延享四年(1747)まで足尾で鋳銭座が開かれて、「足尾銭」が造られたらしく、お金のことを"おあし(お足)"と呼ぶのは足尾銭が由来だと結んでいました。

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この町の観光ハイライト、トロッコ列車乗って全長700メートルの薄暗い坑道に入っていく「足尾銅山観光」の終わりに佇む小屋「銅銭座」。足尾でおこなわれていた銅銭製造を人形で再現したものが予想外に素晴らしく、江戸時代であれば外部流出厳禁、貨幣製造方法の展示を2時間以上張り付いていました。今回はその内容を紹介したいと思います。

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ジュースを△や☆型の容器に入れて凍らすと、容器のカタチの氷ができます。型に溶かした金属を流し込んでモノを造る方法は"鋳造"と呼ばれ、硬貨を初めて鋳造で造ったのは春秋時代(紀元前770年〜紀元前403年)の中国で、青銅(銅+錫)を用いたものでした。それから千年の後に起こった大唐帝国が300年に渡り発行した「 開元通宝」は円形に四角い穴を持つ円形方孔で、日本で初めて流通した鋳造銭・和同開珎(上の写真は造幣局所蔵品を撮影)もこのカタチに倣ったものでした。

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鋳銭場はお金を製造する特殊な場所であるために、厳重な身体検査がおこなわれていました。職人達は脱衣場で着ていた衣服を全て脱いだ後に、木製弁当箱だけを持って検査を受けます。何も隠し持っていないかは、入場時だけでなく退場時にも同様の厳しい目で確認されました。

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上の絵は江戸時代の金座(小判等の金通貨製造所)の身体検査を行っている場面を描いたものです。検査をおこなう役人、それを受ける職人双方に遠慮がちな表情が見られます。手前の役人は髷に何か隠していないかのチェック、奥の役人は職人達が股に隠しものがないかを竹棒を跨がせて確認しています。お金を造る場所はどこも同じように厳しく出入りを管理されていました。

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まず初めは原料の目方確認です。銅(70%)、錫(20%)、鉛(10%)を天秤にのせて計ります。上記の割合は足尾の銅銭座に説明あったものですが、現存する足尾銭の成分分析をすると銅が比率が80%以上と足尾銭は他の銅銭場よりも高い含銅率を示すのが普通なのだとか。当時の日本では銅よりも産出量の限られた錫の方が貴重であるため、銅山を背後に持つ足尾は銅多めと事情が見えるかのようです。

銅は100%だと柔らかすぎて加工する事はできません。現代の10円玉でも銅単体でではなく、95%の銅に亜鉛4%+錫1%を加えた合金でできています。江戸時代の銅銭も銅100%ではモチロンなく、他の金属と一緒に融解して混ぜる必要がありました。錫を混ぜると銅の融点が下がり、流動性が向上。鉛を混ぜると粘性が減少して鋳型に流し込み易くなるのです。

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上の写真は大吹場と呼ばれた金属を融解させる作業場です。銅・錫・鉛の原料を"甑(こしき)"と呼ばれる円筒状の溶鉱炉に入れ、甑下部にあけた小穴より砂枠中に流し込みます。一度にできる地金の量は凡そ50キロで、固まった地金を鉄槌で叩き割り500匁(1,875g)づつ計り次の工程へと送られます。

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参照までにですが、現代の鋳銭場あたる造幣局の貨幣工場の少し昔の写真です。電力を用いた融解炉で原料となる金属を現在では溶かしています。足尾での甑による金属融解の火力には日本で伝統的に用いられていた木炭+風送りのフイゴが使われ、その木材は足尾周辺の木々が生い茂る豊かな山々より切り出されました。

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現在の鋳造品も同じですが、先ず初めにハンドメイドで原型を作製します。これは加工しやすい銅を手で刻むことから手刻銭と呼ばれ、この原型をもとにして市中に出回るお金 "通用銭" と同じ地金を用いて数百の種銭をあらかじめ拵えます。

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溶かした地金を入れる鋳型を造るために、木枠に粘りのある鋳物砂を盛り込みます。上の写真は木枠内に盛った砂に体重かけて踏み固めている場面です。写真右上に見えている炎は鋳物型が完成した後に、松の火で炙りる事により型崩れ防止と松の油が表面に付くことで砂型と銭の分離をしやすくするために使われました。

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踏み固めていた砂の上に種銭を並べていきます。その型枠の上のに同じ大きさの木枠を重ねて、また砂を盛り込みシッカリと再度踏み固めてます。充分に砂が固まったところで上の木枠を持ち上げ、並べ置いていた種銭を取り外します。その取り出した種銭の跡に溶けた地金が通っていくように・湯道を作り、火で上下の砂型を充分に乾燥させれば鋳型の完成となります。

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少し見難くて申し訳ないのですが、写真に写る3人のうちの奥の人が片手で抑えているのが鋳型です。もう片方の手で持つ火鋏の先で挟んでいるのが坩堝(るつぼ)で、この坩堝を使って地金を熱し、溶けた金属を鋳型に流し込むのです。

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写真上部で真っ赤になっているのが本物の坩堝。銅に錫、鉛を加えた地金を坩堝に入れ、フイゴで風を送って800度以上にまで加熱することが可能です。上の写真はタイの伝統的な銅製品の工房で撮ったもので、坩堝には合金状態でなく錫を先に投入してから銅を投入と順番を踏んで投入していました。銅の融点は1,085度、錫は232度。この二つを混ぜると融点降下がおこり875度ぐらいで銅を溶かせるのです。

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表裏を併せた鋳型を立てて固定し、上部に設けた湯口より融解した金属を流し込みます。鋳込の温度が低かったり、鋳型に熱を吸収されたりすると鋳型の隅まで行き渡らずに途中で止まったりしてしまうので職人の腕の見せどころです。

湯道を通った地金が鋳型内の空洞を埋め、冷え固まったのを確認したら砂型を2つに割り、枝状につながった状態の銅銭を取り出します。これを書いていて思ったのですが、鋳型上部に開けた穴に、地金を流し込むと出来てくる姿は男女の交わりと出産に準えられそうだなと...。原始の時代に鋳造を発見した人達は、神の行為をそこに感じ取り、この技術を神事として子孫へ託しただろうと想像してしまいました。

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型より取り出した鋳放し銭を、大きなハサミで1枚ずつ切り取ります。切り離された銭は一枚一枚検査を受け、重さの足りないもの、カタチの整っていないものは弾かれて合格品のみが次の工程へと送られていきます。利用した砂型は1度キリしか使えないので、再び砂をふるいにかけて再利用されました。

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現在の貨幣製造方法は江戸時代とは違い、甑ではなく電気炉で熱した地金を流通する貨幣の厚みを持つ圧延板にしたうえで、丸い通貨のカタチに打ち抜いています。上記写真は打ち抜きが終わった地金で、それそのものが作品であるかのような美しさです。

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ここからは銅銭の仕上げ工程に入ります。鋳放し銭に銭串と呼ばれる棒を通して動かないようにし、側面を削って整え、中央の四角い穴にもヤスリをかけてバリを取っていきます。文字や輪郭のある表面は砥石を使って滑らかに研ぐことで形をはっきりさせます。この工程で出た削りカスは集められて、再び地金にと再利用されました。

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研ぎの終わった銭は荒縄で擦りあげて光沢を出し、湯で洗って検査場に回します。もしかすると藁擦りの前に木炭を擦り付けて研磨するなどテクニックも使われていたかも知れません。説明板には豆の澱粉で銭を煮て、澱粉の吸着力で付着物を落とす方法を用いていたとありました。

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最終工程にあたる検査場では、銭を秤にかけて重さを確認し、外観にどこか不具合がないかと目視で検査を1枚、1枚おこないます。ここで検査合格を受けたモノだけが市場に出る通用銭として認められ、通用銭は藁のムシロを二つ折りにした叺(かます)に収納して封印をした上で金蔵へ。

昔は人件費が現在と比較して極端に安いので全て手作り。物を大量に生産する量産方式は18世紀末に始まった産業革命以降とボンヤリ考えていましたが、鋳型の準備→地金作製→銭の鋳造→仕上げ→検査と銅銭造りの製造工程を見ると量産体制そのものだったのが自分には驚きでした。日本中の人々が日常使いをする庶民のお金、相当数が製造/流通していたのですから量産品だとは考えれば分かる事ですが、製造方法を足尾で見るまでは考えもしませんでした。

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江戸時代には紐に銅銭を千枚通した束を1貫文と呼んでいました。1枚の銅銭は10円〜20円ぐらいの価値だと昔どこかで習った事があるので、ざっと言って1貫文は1〜2万円ほど。足尾銭の6年間での総発行枚数は二億一千枚ほど。足尾での銅銭製造がなぜ6年で終わってしまったのかは館内の掲示資料では分からず...。鋳銭座があった場所はこの足尾銅山観光から僅か100メートル程離れた現・足尾中央グランドにあったそうです。

電子マネー等の現金以外の決算手段の発達を受けて、国内での硬貨製造枚数は最近年を追って減少傾向にあります。直近の平成29年度に発行された硬貨(1円〜500円玉)の総枚数は11億2千万枚ほど。戦後で最も発行枚数の多かった40年程前と比較すると5分の1以下にまで落ちてきており、現代の鋳銭座・造幣局も仕事減ってきて大変そうです。

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足尾銅山観光の鋳銭座を出て駐車場へ向かう途中に小さな神社・通洞鉱山神社がありました。写真に写る狛犬の背中には「寛保三癸亥天六月吉日 下松原神山清右門」彫られているのが読めました。寛保三年(1743)は上述の足尾に鋳銭座が開かれた翌年に当たる年です。

御祭神は天孫降臨の以前より山々を治めていた大山祇命。伊邪那美命が火の神・火之加具土神を産む時に大火傷負い、病に伏せ嘔吐した時に産まれた鉱山・鍛冶の神・金山彦命、金山姫命の三柱。鉱山のまち足尾に相応しい神々が祀られており、その加護を得ようと職人達もヤマの発展を願ったはずと考えながら足尾の街より出発しました。